朝までずっと
外は蒸していて真っ暗だった。温い夜風が涙を撫で、頬がひりついて感じられた。ドアをかえりみても、莉那が追いかけてくる音はしない。
これで、終わり? 俺は莉那を失ってしまったのか? こんなにあっさり、終わってしまうものなのか。いつも許してくれたのに。喧嘩になっても、仲直りが当たり前だったのに。莉那がついに俺に愛想を尽かした。
俺は莉那のことがこんなに好きなのに。好きだから、いろんなことが逃げたいくらいつらすぎる。莉那は俺が好きでいる自分が重くて、それで目の前が見えなくなったりはしないのか?
俺は莉那のアパートを離れると、電車の残っている時間だったので街に行くことにした。ひとりでいるのが無性に不安だった。明かりのある場所に出る前に、涙をぬぐっておく。軆の中が空っぽな感じがした。早く、何かでこの空洞を埋めないと。虚しくて苦しくて、知らない街で迷子になったように頭がどうにかなりそうだ。
電車で街に出ると、一応足取りは店に向けながらも、手頃な女はいないか見渡していた。腕時計は二十二時半を過ぎている。通りは人がごった返し、ネオンの色彩と交差する喧騒が混ざり合っていた。夏場の汗、誰かの香水、歩き煙草、酔っ払いの酒気、いろんな夜の匂いが漂っている。流されながらぼんやり歩いていると、店の前に着いてしまった。
誰かいるかなあ、とドアに手をかけようとしたとき、「美歳くん」と声がかかって振り返る。そこには確か麻乃と親しく、同様に売りで生活している女の人がいた。「どうしたの」と微笑んで頭に手を置かれ、俺はもう何だかどうでもよくて、彼女の肩に頭を載せた。男の弱みをなぐさめて稼いでいる女だ。彼女はすぐ俺の状態を察知して、「ホテル行く?」とささやいてきた。俺は無感覚のままうなずき、もう莉那はこれをしかってもくれないんだ、と絶望的になった。
近くのモーテルに入ると、千鶴というその女と俺はすぐにキスを交わした。ベッドにも行かずに、お互いの服に手をかける。でも、俺の手つきが焦っているのは、千鶴が早く欲しいのではなく、脳裏から莉那のことが振りはらえないせいだった。
今頃、莉那はどうしているのだろう。俺を追い返してせいせいしているのか。あんなに愛し合った俺を、そんなに簡単に捨ててしまうのか。俺はあっさり莉那を忘れるなんてできないだろう。莉那以上に愛せる女だっていないだろう。俺には莉那しかいないのに、なぜ俺はバカみたいに莉那を逆撫で続けたのだ。
そうしないと愛されている自信がなかった。俺のことなんか、本当に愛してくれるのか? だって、とうさんもかあさんも俺がいらなかった。学校でもうわべだけの友達がほとんどだった。俺はいつも適当に笑う仮面をつけていた。
素顔を見られるのが怖い。莉那にさえ俺は素顔は見せていない。見せたいと思うけど、見せて嫌われるのが怖い。さんざん浮気がするのが、愛情を試しているなんて、そんな不信感を見せてどうなるというのだ。莉那をこんなにも愛している。だけど、これっぼっちも信じていない──
「元気出ないね?」
俺は我に返って、そう言った千鶴を見た。彼女はしゃがみこんで、壁にもたれる俺のジッパーを下ろして、フェラをしていた。俺は霞む目をこすって、「もうちょっとやって」と言った。千鶴はうなずいて俺を口に含んだ。かなりうまい。商売にしているのだから当然か。なのに、俺の性器はなかなか勃起する芯を持てなかった。
快感に蕩けるには、心臓が血を流し過ぎている。莉那。莉那。莉那。莉那のことしか考えられない。そうだ。俺が好きなのは莉那だ。なのに、どうしてこんな女にしゃぶらせているのか。千鶴は俺の性器から顔を離すと、「よくこういうことあるの?」と訊いてくる。
「え、……いや」
「完全にインポじゃない」
「………」
「それとも、私、下手かしら」
「いや……うまいよ」
「そう思ってるなら、硬くなってほしいなあ」
千鶴はまた俺を口を含もうとしたけど、俺は面倒になってそれを拒んだ。千鶴は息をつき、おとなしく立ち上がると「がっかり」と笑った。俺は笑われたことに眉を寄せてから、ふらりと足に体重を戻し、そばにあったドアを開けた。バスルームだ。「ちょっとシャワー浴びる」と俺は中に入り、脱いだ服をかごに放りこんでいくと、軆にボディソープを塗って雑多な匂いを落とした。そして、金をはらう気なんかなかったけど、俺の失態でできなかったので一万円を千鶴に渡し、モーテルをあとにした。
終電で莉那の部屋の最寄りに戻ってきた。莉那はまだ怒っているだろうか。会いに行っても拒絶されるだろうか。しかし無意識に莉那の部屋の前に来てしまっていた。
ドアフォンを鳴らそうとし、ビビって手を引っこめる。それを繰り返す。部屋から物音はしない。留守ということは、たぶんないと思うのだが──俺は深呼吸すると、思い切ってドアフォンを鳴らした。
だが、応答はない。俺だろうと察して無視しているのか。そう思うとまた泣きそうになってきて、すがるようにドアフォンを押した。すると中から何やら音がした。ざわつく心臓を抑えてドアノブを見ていると、それが動く前に、「どちら様ですか」という硬い声が聞こえた。
「お、俺……だけど」
一瞬、しんとした。けれど、すぐにかちゃっと鍵の開く音がした。ドアノブが動き、隙間から莉那が俺を見上げてくる。
視線がぶつかる。莉那の瞳は、赤く湿っている。俺のすがたを認めた莉那は、その瞳を切なく細め、壊れそうに微笑んだ。その途端、俺は崩れ落ちたいほどほっとして、ドアの中にもぐりこむと莉那を抱きしめた。
「ごめん」
自然とそう言っていた。莉那が驚いたように顔を上げる。
「ごめん、って」
「……ごめん、だから」
「どうして」
「分からないけど」
「美歳は悪くないよ」
俺は目をつぶった。莉那の聖女のような心にひざまずきたくなった。
「俺も、そう思うけど」
「うん」
「ただ、莉那が泣くと俺も泣きたいんだ」
莉那は俺の背中に手をまわした。俺は泣きそうに息を震わせる。
「ここ追い出されて、女を抱こうとしたんだけど」
「……うん」
「いつものとこで適当な女とやろうとした。でも、できなかった。莉那のことしか頭に浮かばないんだ。勃たなくてさ。やっぱやめて、そしたらどうしようって、分かんなくて。とりあえず、シャワーは浴びてきた」
「ん。石鹸の匂いがする」
「こんなのしかできなくてごめん」
「あたしもごめんね。勝手なことわめいちゃって」
「莉那は普通なんだ。俺がおかしい。でも、やっぱりこれが俺なんだって思う」
「分かってる」
俺は莉那の頭に頬を当て、その匂いを吸い込む。この匂いが一番落ち着く。
「莉那」
「うん」
「俺はさ、莉那じゃ埋まらないものがあるんだ」
「……うん」
「けど、それって莉那以外なら誰でもいいんだ。俺には莉那じゃなきゃ埋まらないところもある。そこは、莉那しか踏みこめなくて、俺も立ち入れないんだ。俺には莉那はすごく特別なんだよ。俺の大切なところは、莉那じゃなきゃダメなんだ」
莉那はうなずき、俺の背中をさすってくれた。「ほんとだよ」と念を押すと、「ありがとう」と莉那はなだらかな声で言った。
それから、仲直りした俺たちはベッドにもぐりこんだ。莉那はあんまり俺に口でしたりしないけど、今日は少ししてくれた。すると、俺はあっという間に硬くなった。
そしてそれで俺は莉那の深くつらぬき、長いあいだつながっていた。終わってからも一緒の毛布にくるまって、視線が触れあうたび咲っていた。やがてどちらからともなく安眠に落ちたけど、俺は莉那のことを朝まで抱いて離さなかった。
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