romancier obscur

Koromo Tsukinoha Novels

野生の風色-1

突然の兄弟

 どんな人にも、心の景色には風が吹いている。生きている限り、その原風景には風が流れ続けて、死んだとき、凪になる。
 そして、この世には凪いだほうがいいほど恐ろしい風もある。野生に吹き荒れるような風が暴れ、心の奥底をずたずたにされながら生きている人もいる。
 今まで、僕はそよ風に包まれて育った。
 そう、彼に出会って初めて、僕は暴風に心身を犯される脅威を知ったのだ。
 彼が僕の前に現れたのは、抜ける風は冷たくても、陽射しは暖かくなった三月の中旬だった。
 桜のつぼみは桃色にふっくらとして、ちらほらと緑が芽吹き、高い空も軽やかに青い。三年生の卒業を見届け、記憶の彼方だった一学期の勉強を混ぜ返された学年末考査も終わり、中学校は総合成績と春休みを待つばかりとなった。
 周囲は、進級までのあいだ、のんびりした雰囲気になる。しかし、僕の家庭は今日まさに “これから”で、僕は神経質な仏頂面をほどけずにいた。
 彼が来るのが、春先だとはすでに聞いていた。やってくる明確な日づけを聞かされたのは最近だ。深い意味はないのだろうが、十三日の金曜日だった。
 当日、とうさんは会社を休んで、かあさんと彼を迎えにいっても、僕は通常通り学校に行った。そして、来月にはばらばらになるクラスを惜しむ感傷もなく、窓際の席で頬杖をついて、一日じゅう上の空だった。
 窓越しの晴れた空とは対照的に、僕の胸には、緊張と不安が綯い混ぜになった影が垂れこめている。
 いったい、彼とどんな顔で出会えばいいのか。ぜんぜん分からなかった。だが、今日ばかりは、言い訳を立てて彼と顔を合わせるのを逃げるわけにもいかない。
 放課後、少し事情を愚痴っているクラスメイトに励まされて家に帰ると、誰もいなかった。まだ来てないのか、とほっとして、部屋で学ランを着替える。
 明日とあさっては休みだ。いつもなら単純に浮かれても、今週末は彼がいるわけで、登校しているほうがマシな気がする。絶対に楽しくないから、ただ憂鬱だ。
 僕はいたって普通の中学生だ。“普通”がむしろ危険な表現なら、平凡な中学生だ。学校はきちんと行くし、親と会話するし、やや内気な性格かもしれないけど友達はいる。勉強は中の上、体格は小柄で、顔はそこまで悪くないという程度。自己を確立するのは先延ばしにして、とりとめなく生きている。
 猛烈な傷を負う経験もなく、ぬくぬくと幸福で、そんな自分の凡庸さを並べるほど、彼のような人間と自分はつきあえない確信が深まり、今後の生活を案じてしまう。
 彼と対面する圧力は、長引く待ち時間に比例して膨脹した。気晴らしも手につかず、ベッドをごろごろする。昨日干したふとんには、ふかふかに日向の匂いがしているけど、陰鬱なため息が出る。
 なぜこんなことになったのか、僕ははっきりと認識していない。知ろうとしなかった。承諾したとはいえ、僕は本音では彼が来るのをこころよく思っていない。口実をつけて、顔合わせにも行かなかった。最後の最後まで、問題が起きて、彼が来なくなるのを期待していた。
 結局、彼の到来は実現してしまった。知らされている彼の過去を思い返すたび、どうつきあえばいいのかと悩む。彼が春に来ると聞かされたのは夏で、冬のあいだ、ずっと考えていた。答えは見つかっていない。自然に接して、と大人には言われていても、どんな態度が彼にとって自然になるのだろう。
 またも辛気臭い息をついていると、聞き慣れた車の音がして、はっと起き上がった。
 頭上のカーテンの隙間で透いていた空は、いつしか暗くなっていた。時刻は二十時過ぎだ。
 室内が少し冷えているのに気づき、迷彩柄のフードつきベストを着た。暖房をつけるとさすがにもう暑く、先日引っ張り出したものだ。ちょっと防虫剤の臭いがする。
 ベッドスタンドのリモコンで明かりをつけ、不穏にさざめく心臓と呼吸を抑えて、耳を澄ます。ドアの開く音がして、話し声もする。
 とうさんの声だ。間違いない。
 ついに彼が来たのだ。
 どうしよう、といまさら思って、硬直を脱力にして、ベッドスタンドに座りこむ。階段をのぼってくる足音に、ノックが続く。
 聞こえないふりをしてもしょうがない。喉に引っかかるぎこちない深呼吸をしながら、ドアに歩み寄った。
 ドアを開けると、身なりを整えたかあさんがいた。いつもはほどいている肩に届く髪をひとつに束ね、化粧をしてスーツを着ている。
「何?」と訊くと、「来たわよ」とかあさんは僕の白々しさは受け流して、右手にある階段をしめした。
「そ、そう。遅かったね」
「途中で渋滞に遭ったの。来なさい」
「な、何で。別に今じゃなくてもいいじゃん」
「無理に話しなさいとは言わないけど、挨拶ぐらいしてちょうだい」
 僕とかあさんは、同じ種類の瞳で対峙した。僕は、とうさんよりかあさんに似ている。大きめの瞳も、小柄な体質も──それでも、あとひと息で、僕はかあさんの背を追い越しそうだ。
 挨拶ぐらい。「……挨拶だけね」と念を押すと、最低限の義理で廊下に出て、震えそうな後ろ手でドアを閉めた。
「──春先に、お前に兄弟ができると思うんだ」
 夏休みに入った直後、がさつな蝉の声が澄んだ虫の声にうつろった、静かな夜だった。夕食後、話があると言った両親に、僕はクーラーでひんやりしたリビングに残された。
 僕の家のリビングは、カウチや食卓はなく広々としている。剥き出しのフローリングで向き合い、神妙な沈黙を経て、おもむろにとうさんはそう言った。
「兄弟──」
 当時、僕はまだ声変わりをしていなくて、なめらかな声をしていた。
 不意打ちの話題に、そうつぶやいたきり、紡ぐ言葉も判断できなくなった。ひとまず、とうさんの隣のかあさんを見た。普通はそう思うだろう。でも、かあさんは深刻な顔で首を横に振った。
 だったら、と映画やドラマにありがちな影からの兄弟の出現がかすめたが、そうでもないと言われた。「じゃあ、何?」と先が読めなくてとまどった笑みをこぼすと、とうさんとかあさんは目を交わした。
「これまで、お前に伏せてたことがあるんだ」
「伏せてた」
「とうさんの両親のことだ」
「死んじゃってんでしょ」
「いや、本当は分からないんだ」
 分からない、という曖昧な言い方にきょとんとした僕に、とうさんはゆっくり、両親とは確執があり、絶縁状態にあることを語りはじめた。
 僕はとっさの言葉もなく、びっくりした。とうさんの背景に、そんな複雑なものがあるなんて、ちっとも知らなかった。温かい家庭で育ったみたいに、とうさんは僕にもかあさんにも接してくれている。
「弟もひとりいた。弟も親とうまくいってなくて、何というか……共感みたいなもので、仲は悪くなかった。ただ、お互い相手を見ると家庭を思い出すんで、音信不通だった。三年前、十何年かぶりに連絡があって、死亡通知だった」
 死。
 慣れない単語にどきりとしている僕に、とうさんはたたみかける。僕の叔父になるその人には妻子がいた。奥さんは同じときに亡くなって、息子はひとり残された。とうさんたちの話は、僕と同い年のその子を引き取りたいというものだった。あまりに唐突で重大な相談に、僕はしばしぽかんとして、よく理解もできなかった。
 いろんな意味で、思いがけない提案だった。僕のいとこにあたる彼は、強烈なかたちで一気に両親を失くし、その後、二年間病院に閉じこもって、誰とも口もきかなかったという。ここ一年で、ようやくしゃべったり動いたりしはじめて──とにかく、あまり「普通」ではないのは明らかだった。
 それを、引き取りたい。同情だろうか。善意だろうか。自分の親が、むしろ偽善的にも見える、そんな堂々とした善を行なう人間だということも知らなかった。僕ならそんなのとは関わりたくない。一緒に暮らすなんて冗談ではない。
 嫌だ、と思っても、峻拒もできなかった。ほぼ一ヵ月の猶予のあと、両親に気圧されて僕がうなずいてしまうと、穏やかだった僕の家庭は騒がしくなり、こんな最悪のかたちにまとまってしまった。
 両親は、僕が事態を疎んでいるとうすうす知っている。しかし、最終的には僕はうなずいたし、もはや事は僕の私情で覆せないほど確定していた。養子縁組という手続きで、彼は法的にもここに来るよう定められた。
 とうさんたちは、僕を尊重したいのと同じぐらい、彼を引き取りたがっている。なぜかと訊いても、施設より家庭で育ったほうが心にいいとしか返さない。あとに引けないこの場合、両親は天秤にかけた僕と彼で彼を取り、僕には努力を強いることにした。
 ──一階に降りると、かあさんにうながされて、足踏みしかけた僕が先にリビングに入った。カーテンが引かれて、白熱燈がついた中、この家の匂いではない匂いがする。とうさんに名前を呼ばれて、視線も感じても、顔を上げた途端に始まる何かに、立ち止まったきり動けない。
 暖色の模様が描がかれた絨毯に目を落とし、息苦しく乾いた喉に生唾を飲みこむ。初対面の人間とのあいだに発生する、あの、肌にしっくりしない空気に、鼓動が痛い。
 ドアを閉めて隣に来たかあさんが、そっと僕の肩を押した。かあさんを見て、胸のうちの深い呼気で覚悟を決めると、顔を上げてスーツすがたのとうさんの隣にいる人を見た。
 真っ先に目についたのは、瞳だった。反射的に野生動物の目がよぎった。冷たくて何も信じない、外界を敵に総括しているあのかたくなな瞳だ。
 その目は長い前髪に秘匿され、顔つき全体も粗野で荒削りで、でも、わりと美形だった。僕より背も高く、成長期の骨格に筋肉が追いつききれずに細身な印象がある。黒いトレーナーに黒いジャンパー、インディゴブルーのジーンズを穿いて、黒いリュックサックを右肩にかけている。
 冷淡な瞳も僕を素早く観察し、数秒で見切ると無関心に冷えこんだ。
「これが初対面になるのよね」
 かあさんがそう言って、僕は意識的にそちらを向いてうなずいた。リュックのストラップを握る彼は、瞳をそっぽにやり、どう見ても僕と打ち解ける気はない。
 そういえば、彼自身は好きでここに来たのだろうか。あまり、そうは見えないけれど──
はるかくん」と呼ばれたら、前髪の隙間でかあさんを一瞥はしている。
「この子が、例の私たちの息子。悠芽ゆうがっていうの。遥くんと同い年で、十三歳よ」
 遥。そんな名前だったな、と思っていると、僕への彼の紹介はとうさんがする。
「彼が遥くんだ。お前のほうが誕生日も先なんだし、いろいろ、この町のことも教えてあげてほしい。春からは学校も同じだから、仲良くしてくれよ」
 え、こいつ、学校に行けるのか。
 根本的な疑問を抱いていると、遥は僕をちらりとし、「よろしく」と短く言った。低く、声変わりを済ました声だ。何も返さず突っ立っていると、かあさんに肘で突かれ、「あ」と僕は我に返って狼狽えた。
「よ、よろしく。こちらこそ」
 どんな言葉遣いをしたらいいのか。鏡を見なくても、自分の笑みが引き攣っているのが分かる。幸か不幸か、遥は僕のあからさまな愛想笑いにも無頓着だった。
 それ以上の会話は成立せず、僕は早いところ部屋に帰りたくなった。ほかのクラスの教室に入ったみたいだ。とっとと、自分の場所に逃げこみたい。
 僕と遥の峡谷並みの距離感に、気まずくとうさんと目を交わしたかあさんが、「お腹、空いてるわよねっ」と努めて明るく雰囲気を切り替えた。

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