抑鬱の闇の中
一度明るいところに出たせいで、暗がりにまた視覚が惑う。まばたきで慣らすと、さっきと一ミリも変わってなさそうな遥が瞳に映った。
やだなあ、とそろそろとベッドに近づき、蒼ざめた影にひそんだふとんの山に言葉を持て余す。ポケットで指先をいじらせてベッドサイドに突っ立ち、これじゃそばにいるってことにならないよな、とどうにかひと言、僕は遥に言葉をかけた。
「あ、暑くない?」
我ながら、間の抜けた質問だ。遥の無反応で、さらに自分がにぶく感じられた。
こんな態度は、遥になじられたあの愛想の態度だ。愛想より唾、と言われたではないか。こいつがそうしろと言うなら、そうしておくのが適当だ。
僕は気分を切り替えると、「ほっといてほしいならほっとくよ」とそっけなく言った。
「君ってさ、僕たちなんかに自分の気持ちは分かんないって捻くれてんだよね。言っとくけど、その通りだよ。僕たちじゃなくても、君の気持ちなんか誰にも読めない。言ってもらわなきゃ分かんないんだよ。無視してほしいなら、そうしろって言って。言わなくても分かるだろとか、そんなんは甘ったれた矛盾だからね」
ふとんがわずかに動き、「……るさいんだよ」と綿にくぐもる不機嫌な声がした。「あっそ」と僕は受け流す。
「じゃ、静かにしてればいいんだね。ばいばい」
くるりと背を向けてベッドを離れ、ドアを閉めて部屋を出ていこうとしたときだ。
「カーテンが閉まってるんだ」とこもった声がした。僕は眉を寄せ、足を止めて振り返る。遥はふとんに閉じこもっていて変わりない。空耳かと思っても、ふとんをかぶった声なら、あんなふうに聞こえるだろう。「カーテン」と一応訊き返してみると、ふとんが重く動いて不明瞭な声がした。
「カーテンが、閉まってる」
「………、わざと閉めてんじゃないの」
「違う。……暗い。暗いから」
「暗いから」
「暗いから……出れないんだ」
僕は少し迷ったのち、カーテンを開ければいいらしいという自分の判断を信じることにした。暗闇が怖いならふとんの中はもっと暗いんじゃ、と思っても、遥の言葉は光が欲しいという意味にしか取れない。
僕は部屋の中に戻り、紺のカーテンを左右に切り開いた。睫毛に飛んだ光の粒に反射的に瞳を守り、同時に南中近い太陽の白光が室内に舞いこむ。
白い壁、茶色のフローリング、水色のベッド──日向に部屋の色彩が浮かび上がり、虹彩が整った僕はレースカーテンを正した。カーテンがかかるのはガラス戸で、僕の部屋からも行けるベランダだ。
晴れててよかったな、と澄み渡る青空を仰ぐ。雨ならカーテンを開けたって──いや、電気をつければ済んでいたか。
「電気のほうがよかったかな」
そう言って遥を向くと、彼はやっとぼさぼさの頭を出していた。浮遊するような動作でこちらを見て、「どっちでもいい」と遥は光に前髪で目をかばう。僕はガラス戸を離れてベッドサイドに行くと、「そこにもカーテンあるよ」とベッドが面する窓をしめした。
遥は背後を振り返り、のっそりと起き上がると、どこか幼稚な手つきで布をつかみ、ずるずるとカーテンを開けた。遥はパジャマでなく洋服を着ていて、その服は髪と同じくくしゃくしゃだ。
カーテンを開けると、遥は再びベッドにどさっと横たわり、ふとんを肩にずりあげる。全身の力がシーツに落ち、瞳や表情が弛緩していて、僕に敵意を向ける気力すらない感じだ。
「気分悪いの?」
遥はトゲも煩わしさも死んだ、まばゆさにつぶれる、ただの目を向けてくる。
僕には、遥が不快に占領される心当たりがあった。しばし躊躇ったあと、「もしかしてさ」と切り出してみる。
「新学期になったら、僕と同じクラスになるのが嫌なの?」
遥は腫れぼったく膿んだ瞳で僕を見つめ、「別に」と深いきしめきとうつぶせになってまくらに顔を伏せた。
「君が嫌だって言えば、変えられるかもしれないよ」
「……お前が嫌なんだろ」
「僕は嫌でも従わなきゃ。君には突っぱねる権利があるんじゃない?」
「ねえよ、そんなもん」
「君のためって言ってたよ」
「嫌がるほど、俺はお前の存在なんか気にしてないんだよ」
僕は遥の後頭部を見て考え、それもそうかと納得した。「もう行けよ」という遥のこもった低い声は、平坦になりそうな口調に、どうにか厭わしさを混ぜている。
頼み聞いてやったのに何だよ、と毒づきたくても、僕も恩を着せて遥に関わろうとは思わない。「かあさんにもほっとくように言っとくね」と声をかけ、遥がかぶりを振らないのを確かめると部屋を出た。
そこで折良くかあさんが階段をのぼってきた。「遥くんは」とかあさんは閉まったドアに案じた目をやり、「ほっといてくれ、だって」と僕も遥の部屋をちらりとする。
「本当に?」
「ほんとだよ。ただ、カーテン開けてほしかったみたい」
「カーテン」
「暗いのが怖かったんだって。カーテン開けて部屋明るくしたら、頭は出してた」
「そ、う。お腹空いてないかしら」
「空いたら降りてくるんじゃない? 出てこないうちは、そっとしといたほうがいいよ」
「そうかしら……」
「カーテン開けたら、もう出てけって言われたしね」
かあさんはまだとまどっていても、僕は自分の部屋に戻った。つけっぱなしのゲームはセーブを終え、画面は第三章へのスタート操作を待機させている。
十一時半になっているのを見ると、続きは昼食後にやるとして、電源を切った。ベッドに乗ってレースカーテンを開け、ベッドスタンドに頬杖をついて、高くなった青空を瞳に溶かす。
晴れていれば、もちろんこうして写真でなく窓の空を眺めたりもする。白い雲が浮かぶ柔らかな水色は物思いを誘発し、僕は遥を想って重いため息をついた。
心の傷とやらの表出になるのだろうか。いつもより病んでいて、こちらにはちょっと感情の回路が不可解だった。
暗闇が嫌だと言いつつ、さらなる暗闇のふとんにこもったり、妙に仕草が子供っぽかったり、そもそも何で暗闇が怖いのかも謎だ。カーテンのかかった暗がりなんて、たぶん、いつもは何の恐怖もなく起き出していた。今日に限って怖かったのは、精神の均衡が崩れていたからだろうが、何で崩れたかは分からない。
分かんなくていいか──で、済ましていいものか。いや、それで済ますしかないのだが、だったらそのままさっさと忘れるべきか、理解不足を恥じるべきか。
後者が正しい気がしても、どうせ理解なんてさせてもらえない。僕も遥を理解しようと燃えているわけではない。冷酷にとっとと忘れるのが僕の身分だろうか。壁の向こうを意識し、そうだろうなあ、と感じた僕は遥の心の変調は放っておくことにした。
遥の鬱した状態は、何日も続いた。日を追うごとに、遥の顔色や足元はおぼつかなくなって、そのうち僕は、彼の精神の異常はよくある憂鬱の極端化ではないかと思えてきた。
つまり、遥は学校が嫌なのではないか。僕と同じクラスどうこうでなく、休みが明けて学校が始まると思うと大半の人に芽生える、あの鬱陶しい嫌悪が誇大したものである気がする。
遥がそれを自覚して鬱に身を置いているかは定かではなくも、彼に鬱の波を押し寄せさせているものに、その憂慮が含まれる可能性は高い。遥が学校に漠然とした不安を抱き、その漠然こそに恐怖を抱いてしまうのは察せる。僕がクラスにいても頼りにならないしなあ、と今も僕はかあさんが作ったお粥をお盆に乗せ、遥の部屋のドアをノックしている。
二十時をまわって外は闇に包まれ、廊下には明かりが灯っていた。かあさんは帰宅したとうさんに構っていて、僕が夕食を持ってきたわけだ。腕の中で、煮込んだ野菜とたまごの匂いが立ちのぼっている。
白熱燈をこぼす遥の部屋から、ノックへの応答はない。返事がないのは拒否ではない、とそれぐらい学習した僕は、「入るよ」と断ってドアを開けた。
遥は死体より死んでベッドに脱力し、僕には一瞥くれただけだった。何日もそうやって飽きないのかな、と風邪なんかで寝こむと、三日目には妙にうろつきたくなる僕は思ってしまう。
遥の部屋の匂いにも慣れてきた。ドアを背中で閉めた僕は、「朝も昼も食べてないよね」とお盆をかかえてベッドに歩み寄る。
「かあさんは、今とうさんが帰ってきたんで、そっちに」
「……訊いてねえよ」
「僕が持ってきたの、嫌がらせと思われたら困るし。食べれる?」
「……いらない」
「お粥だよ」
「吐きそうなんだ。お前がいるせいじゃなくて……ほんとに喉がどろどろしてる」
「病院、行かなくて大丈夫?」
「精神科にまわされるだけだろ。今はいらない。食べたくなったら食いにいく」
遥はいたわるようなだるい寝返りで背を向け、「そ」と僕は押しつけずに身を引きかけた。が、いったん考え、「来週、学校だね」と話しかけてみる。遥は向こうを向いたまま何も言わないけれど、僕に消えてほしいトゲはない。
「とうさんはさ、遥が嫌なら学校は無理させないって言ってたよ。もし学校が嫌なら、行かなくてもいいんだからね」
お節介とは承知していた言葉を、「別に嫌じゃない」と遥は案の定不快そうなしゃがれ声で切り捨てた。「そっか」と僕は無頓着にうなずくと、虚しく温かいお粥を連れて部屋をあとにした。
遥は日中カーテンを全開にし、夜は一晩じゅう電気につけっぱなしにしていた。本気で暗闇が怖いらしい。家庭で暗闇に恐怖を覚える経験があったのだろうか。
「重いんだ」
あさってが始業式というぐずついた天気の日、僕が持ってきた擦った林檎をスプーンにすくって、遥はかすれた声でつぶやいた。
「何が重いのかは分からなくて、分からないのがすごく怖い。何にもできない。したくないじゃなくて、できないんだ。何かしたら、死にそうな気がする」
僕は遥のベッドサイドに腰かけ、レースカーテンの向こうの澱みが混じった雲を見つめていた。明かりがついていても、時刻は昼下がりで、かあさんは昼食に使った食器を洗っている頃だ。
「いつもは、咲いたくないから咲わない。今は違う。咲おうとしたら、本気で頬が引き攣る。喉が苦しくて、そのもやもやが俺の何かを吸い取ってる。嫌なのだけが残って強調されて、逆らおうとしたら、ただものすごく怖い感覚がのしかかってくる。だから、俺はそれがいなくなるのを待つしかできないんだ」
僕は遥に目を移した。遥はうつむき、甘酸っぱい香りの水っぽい林檎を噛んでいる。前髪が守る底無しによどむ瞳の下に隈が浮き、頬がかすかにこけたように見える。スプーンをつかむ手の関節も、浮き彫りの感が強い。
僕はふだん、精神と肉体がつながっているなんて、意識していない。この遥を見ると、心と軆がつながっていて、気持ちが陰れば体調も落ちこむのがよく分かる。
「怖い感じは、すごく暗いから。光の中にいるとマシになるんだ」
「ふとんの中とか、もっと暗いんじゃないの」
「ほんとに暗いと、それと向き合うことになる。正面から見たらどうかなるかもって期待して、暗い中に行くんだ。でもいつも光に逃げる。半端に暗いと受け身になって、一番それが強くなる」
遥はそこで口をつぐみ、ひかえめな音で林檎を食べた。
突然闇を恐れる理由を説明されて、僕はとまどってもいた。闇を怖がるわけを問いただしたりはしていない。「今日、天気が悪いね」と言っただけだ。なぜ暗闇が嫌なのかとは思っていたので、それを感知して、仕方なく説いたのだろうか。
フローリングに脚を放り、遥の説明を思い返して、いまいち分かんないなと思った。そこまでの感覚が、外界からの刺激もなしに生まれるものだろうか。幻覚なのかもしれない。思いこみという意味でなく、蘇生というか、残像というか──心の傷が流す血、というか。
学校行けるのかなあ、と空中に目を投げて改めて思う。僕は学校を命がけで拒絶すべき場所とは感じなくても、それはごく個人的な感覚だ。希摘のように、どうしても行きたくないという人間もいる。
遥自身が学校をどう見ているかははっきりしなくても、客観的には、遥は僕より希摘の体質に近そうだ。教師命令も集団行動も、受け流せそうにない。僕は学校をまともに信じて準じ、それで疑問を持たない生徒ではない。単に取り合わずにはねておく、抜け目のない悪知恵があるだけだ。
いつだか希摘は、自分は作り咲いの世渡りができないと言っていた。遥もそうだと思う。学校行かせたらやばいんじゃないかなあ、と遥を見やり、彼の虚脱した灰色の瞳は、疲れをこらえて僕の目をちょっと不愉快そうに睨み返した。
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