新学期
始業式は、遥がかあさんに車で送られるついでに、僕も車で登校した。
目覚まし時計に、きっちり七時に起こされる。朝の仕度を整えると、かあさんは運転席、僕と遥は後部座席に乗りこみ、車なら数分だけの道のりを出発した。
二週間ぶりに腕を通した制服は、春休みにクリーニングに出したので、糊づけのにおいがする。張りつめた布がちょっと着心地悪い。
新調した制服を着る隣の遥は、今日になって鬱状態を脱し、きちんと感情を使っている。長い前髪に隠れた物騒な顔つきの通り、不機嫌、という感情だが。
朝、登校は引き延ばしてもいいと昨日までの鬱を心配したかあさんに言われた遥は、自分で制服に着替えて一階に降りてきた。
遥の学ランすがたは、しっくり来ない感じが、むしろ目を引く感じだった。彼の雰囲気は、そのへんの野暮な男子中学生を逸して鋭敏で、女子たちの何かをつかみそうだ。
昨日思い出して髪を切った僕は、教室の腫れ物になりそうな遥に気を取られ、幸か不幸か、自分の新学期への不安にはあまり取り憑かれずに済んでいた。
僕は、春休みの前半はわりと外出してしても、後半は遥が鬱状態の堕ちたのもあり、希摘のところに行ったぐらいで、家でくつろいでいた。そのあいだに、桜通りの桜は鮮やかに満開し、花びらが風に舞ってアスファルトを淡く桃色に染めていた。
入学式だったおとといは、天気がぐずぐずしていたけれど、今日は風が強いだけで天気もいい。柔らかい水色に優しい桃色がひらひらと溶けて、そこに蝶とか入ってこなければ、春は最高だ。
虫である限り、僕は蝶も怖い。あんなの羽がなければ青虫と変わらない。面倒そうな遥も新学期も嫌だけど、今後虫が増えていくのも、僕には深刻な悩みと言える。
僕の通う中学校の入学式は、新三年生は全員参加でも、新二年生は半分しか出なくていい。残りの半分は楽なのかといえば、そうでもなく、そちらは昨年度の三年生の卒業式に駆り出されているのだ。卒業式組だった僕は、入学式にはのんびりとしていられた。
今年度は、卒業式にも入学式にも強制参加だ。二年になると、一年生だと大目に見られていたことが、いきなり切除されていくらしい。学年ごとの先生たちの差別とかを思い出すと、ちょっと気分が悪くなった。
学校には、まもなく到着した。通学路に指定された道のりだけあって、車の混雑が少なく、信号も少ない。徒歩登校の生徒たちの怪訝そうな目を縫って、メタルグレーの車は正門をくぐり、右手にまわって校舎の側面にある駐車場に停まる。
だるそうな僕も、思わしくない遥も、化粧をしてツイードスーツを着たかあさんによって、花びらが積もった地面に降ろされた。
在校生は、まず旧学年の教室に行く。前年度のクラスがない遥は、かあさんにつきそわれて、職員室に行くそうだ。
今日は授業はないけれど、教科書の配布に備え、手提げでなく重い通学かばんを持ってくるように言われている。それのストラップを肩にかけ、手には上履きを提げた僕は、遥とかあさんとは騒がしい靴箱で別れた。
靴は靴箱に入れずに持参のふくろに入れ、持っておく。旧学年の靴箱は、もう新一年生たちの靴箱になっている。ビニールぶくろにスニーカーを入れ、正面の渡り廊下に歩き出そうとした僕は、不意に肩をたたいてきた崔坂と、一年の教室に向かった。
「春休み、どうだった?」
凡庸すぎる僕の質問に、彼は逆に唸り、「ぼうっとしてた」とそれしか思い当たらないように答える。
「おいくつですかー」
「十三でーす。何だよ、天ケ瀬は遊びまわってたのか」
「後半は僕もそうかも。前半は駅前とか行ったりしてたけど」
そんなことを話しつつ、陽射しが射す渡り廊下を渡り、階段をのぼる。すれちがう生徒には、新学期から調子がいい人もいれば、露骨に嫌そうにぐったりしている人もいる。
「そういえば、春休み中、うちに教頭が来たよ」
「うわ、俺、あいつ嫌い。馴れ馴れしくない?」
「生徒の味方ですって感じだよね」
「そうそう。先公という時点で、生徒には敵だっつうの。何で来たの? あ、分かった。いとこ関連」
「僕、二年はあいつと同じクラスなんだって」
「何で」
「前もって知り合いの僕がいたほうがいいかって」
「そういうの有りなんだな。お前も大変ねえ。訳有りくんにたかられて」
苦笑混じりに入った久しぶりの教室でも話は続き、学校は嫌だと言いつつ、友達との再会は楽しむ。
元担任となる古賀の誘導で、体育館に向かい、校長や学年主任の長談義にはあくびを噛んだ。体育館上部の見物席に沿った窓から空を眺めていると、やっと始業式は終わる。在校生は体育館に残り、元担任に新学年のクラスを言い渡される。
僕は二年七組で、希摘と遥、知り合いがふたりもいるせいか、親しかった友人とは見事に離れてしまった。希摘やっぱ来てないなあと気づいたりしつつ、新しい担任の誘導で、見慣れない顔に囲まれて教室に向かった。
いつのまにか遥がその中にいたのは、第二棟の三階の教室に着いて知った。養子縁組になった遥の名字は、当然ながら僕と同じ “天ケ瀬”だ。男女混合の出席番号で、遥は一番、僕は二番だった。
廊下側の列で席が前後の僕たちを、廊下でかあさんが気がかりそうに見守っている。
遥はもろに教室の空気を嫌悪し、床にそっぽを向いていた。一年のときのつくえより大きい設計の席に着いた僕は、教室の顔ぶれをたどるより、遥の背中に何だか落ち着けなかった。
彼に停滞していた鬱の反動が、毛羽立った神経を導火線に、対極へと爆発する危険はあると思う。「いらつくなら教室出てったら」と小さく声をかけても、無視された。僕はため息をつき、固い椅子に体重をかける。
担任は国語の女教師だった。僕は教室に空席を見つけ、希摘の席だろうなと推し量る。
遥の外れた雰囲気は、教室の隅という地味な席にありながら、教室を威圧していて目立っていた。遥への女子の目には、案の定意識が入り混じり、ほかの男子とは違うことを察知している。遥はそれに気づいているのか、いないのか──どちらにしろ、興味なさそうだった。
教科書やプリントが、ぐちゃぐちゃになりそうに配布される。担任が明日の予定、それと勝手に今年の抱負を語ると、解散になった。
ほとんどの教科の教科書がのしかかるかばんを引きずる僕と、かばんの重みにも無表情でさっさと帰ろうとした遥は、生徒でごった返す廊下で、かあさんと担任に呼び止められた。
「先生がお話しておきたいそうなの。いいかしら」
ストラップに肩をもがれそうな僕は、かあさんと担任を見た。それから、遥を盗み見る。遥はとにかく不快そうで、無言で顔をそむけている。
すれちがいざまのうるさい女子の集団をよけた僕は、「僕も?」とかあさんたちに目を戻した。
「ええ」
「こいつだけでいいんじゃないの」
「月城くんのことをね」と担任が割りこむ。
「聞いておきたいの」
「希摘」
「天ケ瀬くんが、月城くんにいろいろ学校のこと伝えてるんだよね」
媚のこもった笑みに臆した僕は、「まあ」と歯切れ悪く答える。伝えているというか、遊びにいくついでに、ゴミ箱行きになる封筒を運んでいるだけだけど。
だから、学校の配布物を封筒に詰めて渡してくれたら、希摘の情報をこの人に流す必要はないと思う。僕がそう言いたい隣で、かあさんと担任は遥にも話したいと振っている。どうでもよさそうに遥がうなずくと、何とも答えていない僕まで、結局連れていかれた。
連れこまれたのは客間で、本館一階の校長室の隣にあった。なじみにくいにおいがする広くない部屋には、右手に書類が詰まった棚が並び、左に段ボールが積まれている。中央に、テーブルをはさんで黒いソファがふたつあり、僕と遥は手前、担任とかあさんは奥のソファに腰かけた。
窓には花壇越しに帰宅していく生徒が見えて、よく通る廊下の雑音に落ち着かない。
「今日、学校に来てみてどうだった?」
初めのうち、質問されるのは遥だった。遥は表面は無表情でも、教室はどんな感じだったか、みんなと仲良くできそうか、嘘をつくしかない答えにくい質問の連発に、次第にうんざりしていた。
かあさんはともかく、担任は遥の倦んだ目を汲めていないようだった。遥は明らかに心のこもっていない返答をぼそりと連ね、いっときそれが続くと、担任は今度は僕を向いた。
「古賀先生に、天ケ瀬くんと月城くんのことは少し聞いてるの」
「はあ」
「月城くんは、小学校のときから学校に来てないんだっけ」
「イジメられたから」
僕は無気質に述べた。遥が僕をちらりとした。
「俺について訊かれたらそう言え」と希摘に言われている。それが手っ取り早いのだそうだ。
「中学生になって、いったんは来たんだよね。で、夏休みで来なくなったのかな」
「またイジメられたから」
「天ケ瀬くんは、同じクラスだったのに、何もしてあげなかったの?」
「何かしなきゃいけなかったんですか」
「友達なんでしょ」
「イジメと友情は、ごっちゃにできないと思います」
担任はいまいち理解できない、そして、かすかに軽蔑した顔をした。僕も希摘に、「イジメに友情は通用しない」と言われたときにはぽかんとしたけど。
「僕のせいって言いたいんですか」と言うと、担任は慌てたように首を振る。
「だって、天ケ瀬くんも月城くんが来なかったら寂しいよね」
「別に」
「え、何で」
「ほかに友達いるし」
「でも、月城くんがいたほうが、もっと楽しいんじゃないかな」
この人は何を言いたいのだ。僕と希摘の友情をだしに、希摘を学校に来させようとしているのか。「あいつは学校来ないと思いますよ」と冷めて言うと、かすかに担任の眉はぎくりと動いた。
「別に先生、そういうのを言ってるんじゃ」
「じゃあ、先生には僕と希摘のことなんて、関係ないじゃないですか」
「……そうだね。ごめんなさい。月城くん、どうしても学校来ないのかな」
「本人に訊いてください」
「家に行ったんだけど、会ってくれなくて」
「あいつが顔も合わせないって判断した人に、勝手にいろいろしゃべれません」
「悠芽」とかあさんが僕をたしなめ、「希摘にそう言われてるんだもん」と僕は返す。「ごめんなさい」とかあさんが謝り、担任はぎこちなくかぶりを振った。
何となく、僕はこの教師が嫌いだと思った。教師なんてもともと好きになれなくても、許せる教師と許せない教師がいる。
一年のときの担任は許せた。この女教師は許せない。何がと言われたら分からなくても、許せない。それで、何だか毒っぽくなってしまう。
「先生はね、月城くんには学校に戻ってくるチャンスはあると思ってるの。クラスも変わったんだし、今日なんてすごいチャンスだったんだよ」
本人に言えよと思っても、「はあ」と無難な生返事にしておく。
「月城くんだって、イジメがなければ学校に来たいと思うし」
「は?」
「『は?』って?」
「え……、いや、あいつは学校来たくないと思いますよ」
「どうして」
どうしてって、そんなもん──
僕はさすがに、正面のかあさんに目配せして、助けを求めた。かあさんの瞳は、耐えろと言っている。
「そういうことは、希摘に訊いてください」と僕は精一杯言った。
「月城くんが教えてくれないから、天ケ瀬くんに訊いてるんだけどな」
「それはちょっと、都合がいいのでは」
──廊下を、ばたばたと駆け抜けていく足音が響いた。
言ってしまった。だから僕は、こういう人間が嫌いだ。いらない失言を誘うのだ。
遥は面倒そうに爪先で床をにじっている。靴底に虫がいるみたいに。
「希摘くんのことは、この子に任せたらどうでしょう」とかあさんは何とか僕をかばった。
「この子がいれば、希摘くんは大丈夫だと思うんです。下手に大人が介入しようとするほうが、良くないかもしれませんし」
「ですが、担任として」
「……問題が怖いだけじゃん」
低い声の蔑んだ言葉に、その場がどきりと息をのんだ。誰かと思えば、遥だった。床を向くまま、しびれた嗤笑をもらしている。
こうも自発的に想いを口にした遥は初めてで、僕とかあさんは、担任のように頬をこわばらせるより驚いた。
何とも言えない沈黙が置かれて、「じゃあ……このへんで」と担任はやっと気まずくながらお開きにしてくれた。遥の不吉な笑みも止まった。
かばんのストラップに手をかけた僕は、この心を引き攣らせたいとこに対し、ますます悪い予感を覚えていった。
【第十二章へ】