野生の風色-14

踏みこめない

 僕がごちゃごちゃ案じるかたわら、結局遥は学校に行って、教室でむすっと外れていた。登校して席に着くと、移動のときしか席を動かず、本も読まずに頬杖で瞳を腐らせ、異様な雰囲気で敬遠されている。
 のんきな女子は遠巻きに騒いでいても、男子には多少の妬みもあって不評だった。窓際に腰かけて友達とたむろし、「よくあんなのと暮らせるな」と、向こう側にいるような遥を眺めるみんなに言われる。
 遥は勉強は申しぶんなくても、強調性や相互性は絶望的だった。日直のときは、なぜか僕が仕事をやったし、掃除でも何もしなくて僕が無理にほうきを持たせた。それを見こまれたのかどうか、僕は委員でも遥と組まされて、自分の仕事を増やしてしまった。
 泣き言をもらす僕を、親も友人も同情を持って励ます。が、肝心の遥は、僕の苦労に感謝も信用もないみたいだ。僕はいよいよ、遥の後始末を放り出したくなっていった。
 スポーツテストも終わり、通常に戻った体育の授業のあとのことだった。ついに遥が──というか、遥の態度が厄介ごとを起こした。
 このあいだの雨で、桜の樹は花をもがれて緑に染まった。それが真上の太陽を木漏れ日にして、校庭に残る砂ぼこりを金色に透かしている。体育の授業後、そんな校庭を出て、空腹を抱えながら靴箱に向かっていたときだった。
「お前が嫌だと思ってやらなくて、お前にしか迷惑がかからないならいい。だが、ほかの人間にも迷惑をかけるのは、我を張っているというだけで──」
 大昔の全体責任が好きで、生徒に嫌われている体育教師の山沼の濁声がした。このクラスになって親しくなった桐越きりこしと連れ立っていた僕は、足を止めた。見ると、靴箱の手前の花壇の脇で、体操服すがたの生徒が、ひとり山沼につかまっている。
 生徒の大半が体操服は夏服を着る中、そのすらりとした男子生徒は冬服だった。見憶えがあると思ってよく見ると、それが遥だったので僕は思わず危懼を抱く。
「天ケ瀬のいとこじゃん」
 僕と立ち止まった短髪で長身の桐越も言う。二年七組の男のあいだで、“天ケ瀬”とは僕の名字であって、遥は“天ケ瀬のいとこ”と呼ばれている。
 様子を窺うと、どうやら遥は、準備体操の柔軟で相方と協力せず、突っ立っていたのを咎められているらしい。協力なんて遥がやるわけがないし、山沼が推奨しないわけもない。つまり最悪だ。
 遥の無関心が、いっそう山沼のくどい怒りをあおっているようだ。「バカだなあ」と低さが安定しつつある声で桐越はつぶやく。
「あんなん、適当に謝っときゃいいのに」
「………、」
「行こうぜ。別にどうでもいいじゃん」
「うん──」
 気になりつつも、無視しようとしたときだ。
 足元の花壇を向いていた遥の視線が、空を切るように山沼に向いた。言葉に反応したのではない、流れが切りかわったような電流的な動作だ。前髪の奥の瞳に、確かにあの危険な光がちらついていて、やばい、ととっさに僕はその場に割りこんでいた。
「先生っ」
 ぎょっとした桐越はさしおき、僕は遥と山沼の元に駆け寄った。ふたりはこちらを向いて、拍子、遥の瞳に走った稲光はふっと消えた。
 それにはほっとしても、「何だ」という山沼の不愉快そうな声には、心臓から畏縮する。どうしよう。割りこんだはよくても、どう片をつけるかは考えていなかった。
「あ、あの──」
 そのとき、ありがたいことにチャイムが鳴った。天使の鐘に聴こえたそれに僕は取りつき、「チャイムも鳴りましたし」と引き攣った笑顔を作る。山沼は不審そうにしても、さいわい納得して、「今度はちゃんとするんだぞ」と遥に捨て台詞を吐いて去っていった。
 僕は安堵した息をつき、遥は僕を見つめる。僕は肩の重圧をおろし、「こんなとこで切れないでよ」と遥を見返す。
「あいつには、適当に従っといたほうがいいんだ。そうしとけば、単純だから何も言わないよ」
 遥はかすかに眉を寄せ、「媚を売るなら、殴られたほうがマシだ」と嫌悪と共に吐き捨てて、身を返していった。僕は遥の背中を見、数秒何も思わなかったあと、何だよ、と湧き起こった癪に舌打ちをもらす。
 助けてやったのに。公然で切れて、病人だと陰口をたたかれるほうがよかったのか。空腹も手伝って後悔にいらついていると、「どうしたんだよ」と桐越が駆け寄ってきて僕の頭を小突く。
「いたっ」
「飛んで火に入る何とかじゃん。らしくないぜ」
「……何か、あいつ切れそうになってたし。つい」
「山沼?」
「遥だよ。あいつが切れると、山沼よりやばそうじゃん」
「そうか? でも、普通ほっとくぜ。顔に似合って優しいのね」
「うるさい。ほっときゃよかったってもう思ってる」
「『媚を売るなら、殴られたほうがマシだ』」
「ムカつく。何なんだよ。決めた。僕はあいつのことほっとく。絶対ほっとく。学校破壊してもほっとく」
「できるかなあ」
「やってやるよ。何やったって、あいつには迷惑なんだよ」
「行こ」とどす黒い気迫で僕は靴箱に踏みこみ、「はいはい」と桐越は苦笑いしてついてきた。
 教室でも遥は礼のひと言もよこさず、僕はついに、この生意気ないとこを黙殺する決心を固めた。僕も人間だ。限界はある。不毛どころか、蹂躙されるのなら、いくら耕したって無駄だ。
 迷惑がるのが、本気でも天邪鬼でも構わない。いや、たぶん本当に迷惑なのだ。ならば、僕は放置することで遥を思いやってやる。
 決然と仏頂面をする僕に、「おとなしいのが切れると怖いってほんとだな」と友人たちはささやきあった。
「天ケ瀬くん」
 あさっては希摘の家に行く金曜日の放課後、僕は先に消えた遥に乗じて、友達と帰ろうとしていた。近頃、遥は僕との下校を捨て、登校もばらばらになっている。喜ばしい変化だ。
 教室の出口で呼び止められて振り向くと、担任が駆け寄ってきて茶封筒をさしだしてきた。やっぱあるのか、と思いつつ、新学期で特に重いそれを受け取る。
「それね、先生の手紙も入ってるの。読んでもらえるかな」
 僕は若作りの担任をちらっとして、「どうでしょうね」と言っておいた。
 読むわけがない。希摘は触ることにも虫酸を走らせ、僕に破り捨てるように頼むだろう。
「遥くんも困った感じだね」
 相身互いのように言う担任に、僕は神経を引っかかれた。この担任は、はっきり言って遥に何も労力をはらっていない。いそがしいふりで、この教室をそそくさと避けて、何を隠そう、委員で僕に遥を押しつけたのもこの担任だ。困るほど遥には接していないくせに、口先はちゃっかりしている。
「みんなも、遥くんと話してみようって気はないの?」
 担任は廊下にいる僕の友人たちに問い、みんな答えにくそうに顔を合わせた。
 教師をやっているくせに、この女は思春期の残虐性ににぶい。僕と行動するせいで、そんな気まずい質問をされるのなら、みんな僕を離れていくではないか。
「声かけたって、無視されるよね」
 いとこという縁で冷淡に言える僕が述べると、一同は救われたようにうなずいた。担任はこちらを向き、僕はそのぶあつく赤い口紅が開く前に、「じゃあ、これ届けておきますね」と封筒を抱え直してみんなに混ざった。
 階段で桐越が僕を肘でつつき、僕はちょっと咲ったけど、わだかまる神経のさざなみは腫れあがっていた。が、ただの友人に重いことを愚痴れば、単に厭われる。僕は腕の中の封筒を見下ろし、切に希摘に会いたくなった。
 空の写真で心をなだめて、巡ってきた日曜日、僕の神経は希摘に会ってようやくやわらいだ。遥について不平を並べ立てる僕に、ベッドに腹這いになる希摘は、口をはさまずににやにやしていた。
「何で笑ってんの」とひと息つくと、「おもしろいもん」と希摘はほっそりした手首で頬杖をつく。そこで僕は、心をほどくため息をついて、「どうしたらいいのかな」と核心の本音をもらした。
「前にも言ったんだろ。そういう人間の毒は、試験の裏返しだって」
「限度があるよ。遥に構うほど、自分がバカみたい」
「遥くんがそうやって反応すんのって、悠芽ひとりなんだろ。遥くんには、悠芽は特別なんじゃない?」
「特別に嫌いなんだよ」
「そうかなあ。やだあ。遥くんに懐かれても、俺を忘れないでね」
「希摘も僕を嫌わないでね。何かごめん。愚痴ばっかで」
「それはおもしろいって言ったじゃん」
 希摘は咲って頬杖をほどくと、「なるほどねえ」と顔を横向けて頬をまくらに預ける。
「悠芽は、じゅうぶん遥くんをかばってみたんだよな。逆に出てみるのはありかも」
「そう思う?」
「というか、悠芽がそうしたいと思うなら、それがいいんだ。その判断が遥くんを傷つけたとしても、嘘はついてない。嘘つくのは、結局、一番傷つけるからね」
 床に座る僕はすりきれたジーンズの膝を抱きしめ、「うん」と神妙にうなずく。
 いっとき考えこむ沈黙が置かれ、僕は雨が降った頃にした遥の心の考察を語った。学校に逃げさせず、家庭に集中させるのが最善ではないかという、あれだ。希摘は首肯し、「親に言ってみれば」と勧める。
「分かんない。言わないよ。遥には、こんなのもお節介なんだ」
「遥くん不信ですね」
「どうしたらいいのか分かんない。こんなに分かんないもんだとは思わなかった。何がダメなのかな。虐待とか心の傷って、本人ひとりの問題じゃないんだね」
「つきあおうとしたら、こっちもとまどうことが多いよ。無意識が通用しないから、意識的になって混乱するというか」
「過去なんか知らないほうが、うまくつきあえたかな」
「かもな。でも、そしたら遥くんのよそよそしさを深く考えずに、そのままうわべの関係になっちまってたかもしれない」
 僕は膝に左頬を埋め、「むずかしいね」とくたびれた目を空に泳がせた。「悩んでやってるだけ、いいんじゃない?」と希摘は仰向けになる。「そうなのかなあ」と僕は煮えきらない脱力に引きずられ、床にぐったりした。

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