野生の風色-15

不穏のきざし

 かばうか捨てるか迷う悩むあいだに、結局、僕は遥を放るかたちになっていた。遥の行動がおかしくなりはじめたのは、折しもその頃だった。
 別々の登下校が定着してきた四月最後の月曜日、遥が一時間目が始まってもすがたを現さなかった。遥なんか放っておくと友人たちには断言しても、急に予測しない行動を取られると胸に雲がかかる。
 サボりだろうか。途中で何かあったのか。女子の視線を集めたり、無愛想に孤高状態をしている遥なら、因縁をつけられてもおかしくない。
 が、授業も聞かずに当て推量を巡らせて終了した一時間目のあと、遥は休み時間の喧騒に紛れて、普通に登校してきた。
「何かあったの?」
 背中をつついて思わず訊くと、遥は僕を冷遇に一目しても、何も言わなかった。僕は遥を盗み見て、黒髪や制服に異変がないのは確認する。少なくとも、事故に遭ったとかではなさそうだ。
 ほっとしたその日は、遥は放課後まで教室にいたけど、翌日は午後の授業が始まるとかばんと共に消えていた。朝のホームルームからさっきの昼食まで、確かに席に根をおろしていたのに。
 そうして遥は、教室にいなくて何をしているかは分からなくても、勝手な遅刻や早退をするようになっていった。
 遥に変調が起こった直後、ゴールデンウィークに突入した。遥が早退した翌日は休日で、僕は両親に遥の行動を話すべきか悩んだ。「最近、遥くんは学校でどうなの?」と昼食時にかあさんに訊かれ、僕はやや口ごもり、「あんま変わんないよ」と言っておいた。
 僕の隣に、遥のすがたはない。部屋にこもって音沙汰もなく、しかし、ベッドも起き出せないあの鬱状態ではないようだ。部屋でゲームをしていると、隣の部屋で低く物音がしているのが聞き取れる。
 だいぶ進んだアドベンチャーをプレイする僕は、何の予定もないこのゴールデンウィークを、何をしてやりすごそうかと思ったりした。
 両親に遥の行動を密告しなかったのは、道をそれる行動か決めつけかねたからだ。心の安定を取ろうと、ひとりの時間を取っているだけかもしれない。だとしたら、密告なんてお節介だ。
 でも、万一変な考えがあった場合のため、曲解だと癇に触れることになっても、引き止めておいたほうがいいのか。正直、干渉と忠告の境界が分からず、用心深さに判断が逃げ腰になっていた。
 次の日も、僕と遥は家を出た途端ばらばらになり、一時間目が終わった休み時間にも遥は顔を出さなかった。気がかりの靄を喉元に覚えながら、僕は二時間目の移動教室にそなえて、理科一式をまとめる。
「行こうぜ」と声をかけてきた桐越にうなずくと、遥の不在は吐息で吹っ切り、僕は話し声や笑い声にざわつく廊下に出た。
「いとこの奴、来てなかったな」
 学ランの角ばった肩を筆箱でとんとんとして、桐越はクラスメイトが残る教室内を見返る。
「休み?」
「朝は制服で家出てたよ。でも、あいつ先に行っちゃったんで」
「んじゃ、サボり?」
「かなあ」
「どこ行ってんだろ」
「さあ。因縁つけられてるとかってないかな」
「あー、ありうる。ま、いいじゃん。ほっとくんだろ」
「……うん」
「あいつにサボりって、イメージ通りじゃん。つっても、ゲーセンとかに入り浸るのは想像つかないな」
 確かに、と荷物を抱え、窓の向こうを見る。
 春の柔らかな色彩は、すっかり初夏のさわやかな緑に移りかわった。空の色合いも風の匂いも心地よく、ただし、力強くなっていく日光にこの厚手の黒い生地はきつい。熱が肌の上にこもり、のぼせそうに神経をゆだらせる。
 ボタンを外せば風紀で罰点を取られるし、仕方なく下敷きをうちわにして前髪を左右に舞いあげた。そんな僕に、「わりと傷ついたりしたんじゃない?」と桐越は切れ長の目でにやっとする。
「え」
「いとこ。天ケ瀬に放置されてさ。ヤケになって不良化」
「……まさか」
 そう言いつつ、そうなのかな、と心に不安を流しこむ。だったら、僕が悪いのか。
 僕は、遥の望み通りにしたつもりだ。だが、希摘の言う通り、あの毒が遥なりの試験だったら? 僕は遥の期待を裏切って、試験をすっぽかしたことになり、彼をさらなる絶望に落としたかもしれない。
 合わなくもない辻褄に蒼ざめたが、あの厭わしそうな言動を思い返すと、やはりそうは思えなかった。「あいつはせいせいしてるよ」と自分に確かめさせる口調で僕は言う。
「そうか?」
「そうだよ。家とかでも言われてたんだ。愛想使うなとか、迷惑とか。あの態度で僕に構ってほしいなら、何というか……ちょっと粘着なSだよ」
「粘着Sだったら?」と桐越はまたもにやつき、「僕はMじゃない」とひるがえす下敷きを教科書とノートのあいだに戻す。
「もう振りまわされたくないんだ。ほっとくよ。学校も好きでサボってんだよね。うん」
「しかし、あいつにグレる理由ってあんの? だいたい、何であんな突っ張ってんだろ」
「そりゃあ──あれ、知らない?」
「知らない」
「あいつ、十歳のときに親亡くしてるんだよ」
「嘘。マジ? あ、それで同居」
「うん。え、今まで何と思ってたの」
「親が仕事で外国行ってるとか。何だ。死んでんのかよ」
「何年か孤児院みたいなとこにいたんだ。で、僕の親が引き取ったんだ」
「へえ。じゃあ、よっぽど実の両親が大事だったんだな」
「え、何で?」
「いや、そうじゃなきゃ、あそこまで暗くなるかよ」
 虐待の件までは吹聴できない。「哀しみでグレるって古典的だな」と笑う桐越に、僕はあやふやに笑い返すしかなかった。
 理科室での授業中、僕は改めて、遥が虐待されていたのを思い出していた。平凡な僕にはかなり衝撃的な過去なのに、遥にそんな過去がある実感は相変わらずない。遥の暗さは、桐越がしたように、肯定的な解釈ができる感触の暗さだ。
 病的な鬱ではない。一度直面した鬱状態のときは、遥に陰った過去があると感じた。あれっきりだ。そのほかに、遥の心に血の匂いを嗅ぎとった記憶はない。
 虐待されていたとか、心中させかけられたとか、遥には非現実的なまでの壮絶な背景がある。なのに、彼の灰色の瞳には、傷口のじめつきがない。
 遥の暗さは乾いているのだ。血に湿っていない。なぜだろう。癒えている、というのはないだろうし、じめつくのも押し殺して秘匿しているのか。遥の心の闇は淡々としていて、こちらに何の気配も感じさせない。
 理科の授業が終わり、桐越と合流して教室に帰るとき、渡り廊下で何となく窓を見下ろした。そうしたら、校舎の影でひとりの生徒に何人かの生徒がたかっていた。
 イジメか。遥の虐待にはいろいろ思っても、僕は昨今の中学生として、イジメには酷に冷めている。僕の視線を追って桐越も事を見つけ、「好きだよなあ」と何の動揺もなくあきれた顔をした。
 みんなそんなものだ。イジメなんて、無視で適度に加担しておき、自分が標的になったとき焦ればいい。無関係な人間に優しくするほど、学校は気の抜ける場所でもない。何も感じることなく、こんなふうに通りすぎる。
 イジメに対し、友情とは──それは、希摘の意見の通りだ。だから、他人がそこから助けようとするのは、もはや意味が分からない。たいていのイジメに、対象がそのものである意義はない。目的もない。痛みを与えている気すらない。彼らは “それ”で遊んでいるだけだ。
 だから、ぬいぐるみは自我を持ってその場を逃げ出せばいい。外まで追いかけてきたら、何だかその執着はゆがんだ愛情のようだし、警察案件でいいと思う。しかしイジメ加害者は、実際には標的がいなくなれば、同じ教室内で代わりをあさる程度なのだ。
 遥の親が遥を虐げたのも、イジメに通じる動機だったのだろうか。虐げていらつきを吐き出す道具ではあったと思う。つまり遥の両親は、もしかすると、遥を憎んでいなかった? 憎しみがあったほうがマシなほど、何とも想っていなかった?
 イジメなら加害者は他人で、相手を道具にできるのは僕にも分からなくもない。虐待の加害者は肉親だ。肉親をなぐさみものにする。恵まれた家庭で育ったのもあり、そこが氷点となり、僕は遥を理解できないのだろうか。
 教室に帰ると、遥がおもしろくなさそうに、席で頬杖をついていた。僕は入口で足を止めかけ、遥も僕をちらりとして、すぐそっぽをする。
 僕は表情を締めて、こちらこそ黙殺した。笑いを噛む桐越のことは、彼の席へと小突き、僕は遥の後ろの席にまわって、理科一式をかばんにしまう。
 遥の背中を盗み見て、どこ行ってたんだろ、と思う。どうせならそこにいて、いらいらしてまで学校には来なくてよかったのに。
 僕は三時間目の数学一式を引っ張り出し、ノートをめくって宿題を確かめ、遥のことはあえてないがしろにしておいた。

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