野生の風色-16

張り裂けるとき

 遥と暮らしはじめて、ひと月半が経っていた。そのあいだ、僕が遥の傷んだ心をはっきり感じたのは、一度きりだった。
 あの鬱状態のときだ。壊した瞳を隈に掘り出し、腐った食欲に頬の線が蒼白く骨をたどり、ひどい闇に光にすがっていたとき。あの数日間だけ、僕は遥の膿んだ混沌を見た。
 でも、あのときだけだった。内的欠落が多く、冷めてはいても、ちょっと捻くれたぶっきらぼうな奴。軽めにそう言ってしまっても、遥はさしつかえなかった。なぜかは分からない。遥はそのあたりさわりない殻をいつしか腐敗させ、僕はその日初めて、彼の荒れ果てた聖域の牙を目に焼いた。
 五月の初日だった。休みも多いクラスメイトも多い中、僕はヒマに任せて、出席日数を稼いでいた。僕の友達もひと通りそうで、窓際にたむろして、ずる休みだと知るクラスメイトを挙げては浅はかに妬んだ。
 ゴールデンウィークのずる休みは、親の種類によるのだろう。少しなら休ませてしまえという親もいれば、登校のために二泊三日を一泊二日に切りつめる親もいる。僕の親は、僕があまりあちこち行きたがらないので、無理に予定を組まないのだけど。
 窓の手すりに預ける腕は剥き出しだ。五月になり、やっと夏服が解禁になった。冬服の生徒もまだいるが、僕の友達はみんな白い開襟シャツに薄手の黒いスラックスのという夏服だ。開け放った窓は、高さもあって風を深呼吸し、校庭の先には初夏の青空と途方のない団地が望める。
 ざわめく教室に、遥はいなかった。家は一緒に出ても、今日も彼はひとりでどこかに行ってしまった。どこに行っているのか、少し訊いてみたくても、訊いたところで返ってくるのは白眼だろう。生理的な怖さはなくとも、遥のあの僕に対する見切った眼は、こちらを怯ませる。
 ここんとこ皮肉ですらあいつに口きかれてないな、と髪をそよがせる風に目を細めていると、次の四時間目の数学を受け持つ広田ひろたがやってきた。「次、数学かあ」と抑えた声で友達とうんざりし、近づくチャイムに僕たちは窓を閉めて解散した。
 ゴールデンウィークが明ければ、席替えがあるだろう。そうしたら、僕と遥はようやく席が離れる──と、思う。遥に関して、僕はいささか運に見離されている。もしかしてまた近くかも、と嫌な予想ゆえ的中しそうに感じていると、前の席にどさっと不機嫌な音がして、顔をあげた。
 遥だった。重そうなかばんをつくえにおろし、いとわしげにストラップから腕を抜いている。彼の制服は冬服だ。黒いしな、と僕は彼の暗色ばかりの私服を思う。まあ、これは夏服ができあがっていないのもあるのだろうが。
 数学一式を取り出す僕の視線を無視して席に着いた遥に、「おい」とめくっていた教科書を教卓に置いた広田が、すかさず歩み寄ってきた。
「今頃登校してきて、先生に説明もしないのか」
 やば、と硬直した僕に反し、当の遥は面倒そうに広田に一瞥くれた。この四十台で贅肉もついてきた数学教師は、あの体育教師と違った感じにねちっこい。あいつががなりたてるなら、こちらは理屈っぽいというか──おまけに学年主任で、権限だけはあるからどうしようもない。
「理由があって遅刻したのか」
 怒鳴り散らしたいくせに、抑えたにこやかな声が使うのが怖い。本人はこちらを思いやっている気だろうが、生徒にしてみれば悪趣味な脅迫だ。席に着いていくクラスメイトたちは、無視しながら注目している。
「もし理由があるなら言え。だったら怒ったりしない。今も怒ってるわけじゃないんだぞ」
 怒ってんじゃん、とみんな思ったと思う。遥もそうらしく、広田に向かって軽蔑の入り混じった敵意を向けた。広田は挑発に乗って表情は赤くし、「遊んでたのか」と語気を強くする。
「どうなんだ。はっきり言え」
 遥が無関心に目をそらすと、「言えないところにいたのか」と広田はわずかに早口になった。
「落ちぶれたいんなら、学校なんか来るな。先生は、お前みたいな生徒に教えるために授業をやってるんじゃないんだ」
 この問題発言は広田の決まり文句で、みんな何とも思わない。が、四月にここに来た遥がそんなのを知る由もなく、彼はその突き放した侮辱に鋭い目をあげた。
「何だ、その目は」
 広田がそう睨み返したとき、遥の冷淡な黙殺が、白熱の憎悪にすりかわった。
「言いたいことがあるなら口で──」
 遥の肩に何かがたぎり、僕が声をかけようとした瞬間だ。のんきなチャイムが割りこみ、僕より広田より、遥がそれにはっとした。拍子に悪感情を見失い、逃がした尻尾から空気が抜けたように、遥は椅子に虚脱する。
 広田もチャイムで怒りを切り替えたように見えたが、「放課後、坂浦先生と職員室に来てもらう」と言い置き、苦い顔で教卓に戻った。
 広田はバカだと思った。その言葉に鼓膜をはじかれた途端、せっかく冷めた遥の憎悪に、再び火が灯った。ちらりと見えた瞳は、陰惨に鋭く、肩にはゆがんだ感情が立ちのぼっている。山沼につかまったとき、一気に破裂しそうになった光が、燻ぶって繁殖している感じだ。
 どうやら遥に点火されたのは、直接的で狂暴な赤い炎でなく、深くひそんで溜めこむ青い炎のようだ。始まった授業の最中に、いらだちが爆発することはなかった。それでも僕は、何をあふれさせるか未知数の裂傷を心に持ついとこに、授業に集中できずに心臓を硬くさせていた。
 放課後、遥は言いつけを守らなかった。昼食どきと昼休みの狭間に、かばんと共に消えていた。
 僕は遥の中で膨脹していた何かを案じ、午後の授業も上の空だった。
 あの遥は、いつもと違った。うまく言えなくても、何か違った。研ぎ澄まされた空気が、いつもは冷えこんでいるのが、熱されていたというか──今日に限って過敏だった理由は、分からない。広田がでしゃばりすぎたのか、降りつもった不快感が忍耐を超えたのか、第三者には察せない短絡だったのか。
 終業すると、僕は友達に謝って、先に学校を出た。殺人でもやりそうなあの雰囲気を思うと、言い知れない悪い予感があった。夏服と冬服の混雑を縫い、桜の樹から落ちて散らかる毛虫さえ忘れて、歩道を駆け抜けていった。そして、痛む脇腹と切れた息に乱暴に門を開け、たどりついた家に飛びこむ。
 玄関には遥の黒いスニーカーがあった。帰っているのか。僕は重みの反動でかばんを玄関に投げて、リビングを覗いた。
「あら、おかえり──」
 洗濯物をたたんでいたかあさんは、汗をかいて息切れる僕に言葉を切った。「どうしたの」と目を開き、僕はその質問には答えず、「遥は」と暴れる心臓を飲みこんで訊く。
「遥くんは、さっき帰ってきてたわよ」
「何か変じゃなかった?」
「え、別に。いつもと同じだったけど」
「いらついたりしてなかった?」
 かあさんは眉を寄せ、「別に」と嘘でもなさそうに首をかしげる。
「どうしてそんなこと──」
「何もなかったんだね」
「え、ええ」
「そっか」と僕は首を垂れ、乱れる呼吸を吐き出す。「何かあったの?」とかあさんは当惑混じりに洗濯物を脇にやった。
「今日あいつ、数学の先生にどうこう言われたんだ。それで、ぴりぴりしてたんで。あいつが切れると、普通で済みそうもないじゃん」
「どうこう言われたって、しかられてたの?」
「ん、まあ。放課後の呼び出しもすっぽかしてたんで、ちゃんと帰ったかなって。帰ってたならよかった」
「しかられたって、遥くん、何かしたの?」
 遅刻したんだよ、とあっさり言いかけて、思い直して口をつぐんだ。かあさんたちには、遥が授業をサボりだしたのを話していない。あの遅刻早退は、道を外れる行動だとそろそろ推断してもいいのだろうか。
 でも、遥は落ち着いて帰ってきたという。昼休みから帰宅までの空白、授業をサボってやっている行動で冷静になったのなら、自由にさせておいたほうがいいのか。
 いや、しかし、どこで何をしてきたかによる。まさか、あのいらいらを何かに吐き出してきたとか──口ごもる僕に、かあさんが口を開きかけたときだ。
 突然、どんっ、とにぶく乱暴な音が天井で響いた。唐突な家のきしめきに、僕もかあさんもびくりと上を見る。
 何だ。二階か。何の音だ。ベッドを飛び降りたような、床を全体重で蹴りつけたような、壁に何かたたきつけたような──
 また同じ音がして、その音でかあさんと僕は見合う。学校での予防線があった僕は、かあさんのようにおろおろするより、背筋をこわばらせて緊張した。
「今の──」
「とうさんは、いないよね」
「いないわ」
「じゃ、この音は遥だね」
「な、何なの? 遥くん、学校で何かあったの? 説明してもらわないと──」
 何かを壁に投げつけた音が届き、僕はやわらぎつつあった心臓を、また緊迫させた。鼓動と共に漠然とした恐怖が排出される。
 学校で耐えて、ここで切れるのか。
 正直、関わらずに逃げたくても、放っていてどうにかなるものでもない。二階の床と一階の天井が衝撃を吸収し、聞こえるのはさほど大きくないこもった音だけど、実際にはかなり強い攻撃だと思う。
 ここでかあさんと身を縮め、遥の嵐が去るのを待つか。そんな保身的な選択をたたきつぶすように音が響く。「広田のせいだ」と僕は小さく毒づき、動揺を喉の奥に押しこんでリビングを出た。
 おそるおそる、階段をのぼる。のぼるごとに物音は鼓膜にじかに、生々しくなっていく。投げたり殴ったりする大きな音の合間に、紙か布を破り裂く音もする。
 遥の得体の知れない傷が、不穏に出血しているのだ。階段の折り返しのところで、かあさんも僕に追いつく。本当は投げ出したいのをこらえて、息を噛み、震えそうな手足を戒めて二階に進む。
 何かぶつかる音がした遥の部屋のドアの前に立つ。ノックしたってどうしようもない。僕は勇気というよりヤケを奮い起こすと、そのドアを押し開けた。

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