偽善者
真っ暗になる前に家に着き、きしめく門を自転車ごと抜けた。ブロック塀に沿って自転車を止めると、希摘の言葉を反芻しつつも、やや身を堅くして玄関を開けた。
玄関先にも、夕食の匂いが届いていた。「ただいま」と特に大声でもなく呼びかけ、スニーカーを脱ぐ。
登校以外で使われるのを見たことがない遥の黒いスニーカーは、僕より明らかに大きい。四月の身体測定では、僕はやっと百六十を超えていた。成長期まだ入らないのかな、と深刻な気持ちになっていると、足音が近づいてきて、かあさんが顔を出した。
「おかえり。もう十八時半よ」
「ごめん。ゲームしてた。ごはん食べてるの?」
「まだ用意してるわ。できたらすぐ食べる?」
「どうしようかな。あ、遥はどう?」
「部屋よ。悠芽が出かけたあと、お昼を食べにおりてきてたわ」
「僕がいなくなったから?」
「別にそういうわけでもないでしょう」
どうだか、とドアマットにあがる。百六十センチとちょっと。それでも、かあさんを見る角度は水平になったと思う。「何?」と怪訝そうにされて、僕は首を横に振ると、「ごはんできたら呼んで」と二階に上がった。
希摘はああ言ってくれても、こう実際に遥に拒絶されているのを感じると、僕と彼に光なんてないように感じる。客観的には、僕と遥には切っかけがあるのかもしれない。でも、渦中に飛びこむと、冷静な判断どころでなく、遥の鋭利な瞳やきつい言葉に想いを実行できない。
遥は夕食には降りてこなかった。今日に限っては、都合がいいだろうか。今日希摘と話したことは、両親にも考えてほしい。
唐辛子の香気が立ちのぼる麻婆豆腐と、こんがりした春巻を前に、僕は改めて両親に遥がここに来た理由を問うてみた。ふたりは顔を合わせ、さくっと春巻を箸につまむ僕に不安そうにする。
「どうしてそんなこと訊くんだ」
とうさんが、何か予断したような声で訊き、「どうしてだったかなと思ったんで」と僕は口をつけると熱かった春巻に息を吹きかける。
「………、おとといのことか」
「まあね」
「病院に帰したほうがいい、とか言うんじゃないだろうな」
僕は厳しさを瞳に引くとうさんを見た。心外なのが、自分で意外だった。そういえば、僕は遥が病院に戻ればいいとは考えなかった。「とうさんはそう思うの?」と春巻を食べて訊き返す。
「思うわけないだろう」
「でも、可能性として思いついてんじゃん」
とうさんとかあさんは目を交わし、「何が言いたいの?」とかあさんが物柔らかに訊いた。
「何で遥はここに来たのかってことだよ」
「病院より家族の中にいるほうがいいからでしょう」
「ほんとに?」
「はっきり言いなさい」
「おとといのやり方って、変だなあと思ったんだ。すぐ医者を呼ぶって、病院にいさせてるのと変わんないよ。僕たち、家族として、遥に何もしなかった」
とうさんとかあさんは面食らい、とっさに反論しなかった。
僕は銀のスプーンに赤いとろみを絡める豆腐をすくい、口に運ぶ。唐辛子が舌に響いて、ごはんにかけたらおいしいのに、と思っても、それはさっきかあさんに行儀が悪いと却下された。
「急に家族になれるものでもないだろう」ととうさんが口ごもりがちに言う。
「じゃあ、何ヵ月も何年も、医者に頼りながら遥とつきあってくの?」
「いきなり踏みこむのも、遥くんの気持ちが追いついていけないんじゃないか」
「あんまり置いとくと、むしろ絶望的になると思う。この家に来た時点で、遥には僕たちがかかってくる覚悟は始まってると思うよ。時間を置くほど、興醒めになるんじゃない?」
とうさんは口をつぐみ、かあさんも何も言わない。ある程度、両親に服従意識がある僕は、たたみかけてこの席を支配はしなかった。
麻婆豆腐とごはんは、仕方なく口の中で一緒にする。
僕が口をもぐもぐとさせる正面で、とうさんとかあさんは食事の手も止めて黙りこんでしまった。差し出がましかっただろうか。僕はいろいろ語れるほど、遥の心に寄り添ってはいない。
明るい白熱燈の元で、食卓には気まずさがとどこおる。「遥に何かあるたび、医者を呼ぶの?」と罪悪感を覚えた僕は責任を持って沈黙は破いた。
「まあ、そうだな」
「僕たちは何にもせずに?」
「………、」
「えらそうなら、もう意見言わないよ」
「……いや。言ってみなさい」
僕はとうさんを窺う。とうさんはきちんと僕を見つめ返し、「悠芽も家族のひとりだ」と言った。僕もとうさんを見つめたあと、希摘との話を思い返し、自分なりに発展させた考えを述べた。
「僕たちに何にもできないなら、病院のほうがマシだと思う。医者を呼ぶ手間もかからないし、病院も家庭も同じじゃないかって遥の家庭への不信感もあおらないし。遥の過去に触るのは、医者じゃなくてもいいと思うよ。ていうか、僕たち、ビビらずに触んなきゃいけないんじゃない?」
「下手な触り方をして、遥くんが傷ついたらどうする?」
「医者だったら、傷つけないの?」
「接し方は知ってるだろう」
「僕、医者は心の傷を持った人とのつきあい方は知ってるだろうけど、遥とのつきあい方は知らないと思う。あの医者にも、遥が心を開いてなかったのは見れば分かったし。僕たちがあの医者から習うのは、僕たちは遥にとってあの人と同じようになっちゃいけないってことだよ」
とうさんとかあさんは、顔を合わせる。「僕もあのとき、遥を逃げたからえらそうには言えないけど」と僕は麻婆豆腐を混ぜて湯気を舞いあげる。
「遥が食ってかかってきたとき、怖くてドア閉めて、拒否した。あのとき、飛びかからせて首絞めさせたほうがよかったんだ。僕はあのとき、遥と向き合うのを拒んだ。医者をあいだに置くみたいに、ドアをあいだに置いたんだ」
「悠芽──」
「間違った接し方をして取り変えしつかないことになったらって、安全策を取るのは良くないんじゃないかな。僕たち、遥を関わりたくない問題児だって締め出したんだよ。そういう『傷つける』と、過去に触る『傷つける』は違うと思う」
とうさんは神妙に視線を下げ、僕は「ごめんね」といったんひかえめに言っておく。とうさんは顔をあげ、「何で謝るの」とかあさんも痛く微笑む。
「えらそうだから」
「いいのよ、言ってくれて。悠芽ぐらいの歳の子は、そういうふうに見るのね」
「どうだろ。僕とか希摘が理屈っぽいだけかもしれない。遥は僕が嫌いみたいだし、僕がそういうのしたって伝わらないかもしれない。とうさんたちが遥と向き合うほうが、見込みもあるんじゃないかな」
とうさんとかあさんは、目配せののち「分かった」とうなずいた。僕は決まり悪く首をすくめて、春巻を口につめこむ。「でも、悠芽も遥くんと向き合ってみるんだぞ」ととうさんに言われ、僕は一応こくんとした。
穏やかさを取り戻した夕食後、夜更かしをするつもりの僕は、歯磨きをしたくせに、スナック菓子と麦茶のペットボトルを連れて階段をのぼった。明かりをつけずに折り返しに踏みこんだとき、頭上に視線を感じて顔をあげた。
暗い影と気配に目を凝らす前に誰か分かって、分かれば視覚も開けた。黒い長袖シャツで闇に紛れているが、遥だ。
手すりに前膊を預け、黒くも強い瞳に敵愾心をこめて僕を睨めつけている。その鋭い敵意にまごついた僕は、まごつきに任せて咲いそうになったのは抑え、そろそろと階段をのぼった。
「どうしたの?」
対峙して訊くと、遥は手すりを離れて僕を見おろした。遥に見下ろされたのは、よく考えれば初めてだ。いつもは、見下ろすというより、一瞥で──
「偽善者」
「は?」
遥をそっぽをして背を向けると、つかつかと部屋に向かい、ドアを開けてもれた光にすべりこんだ。
偽善者。僕は唐突な言葉を即座に飲みこめず、しばし、呼吸もまばたきも忘れた感じで、ぽかんとその場に突っ立ってしまった。
何秒か考え、遥が僕の両親への提言を聞いていたのは分かった。続いて、遥がそれに不快をいだいたのも分かった。
偽善。そうなのだろうか。いや、遥にはそう聞こえたのだ。だったら、こちらの思惑が何だろうと、僕の意見は偽善だ。
僕はスナックのふくろとひんやりするペットボトルを抱えこみ、「だったらどうしろっつうんだよ」と言葉遣いも汚してしまう。
遥はいったい、どうしたら神経を逆撫でずに気に入ってくれるのだろう。生徒が教師を厭うように、僕がやることなすことが許せないのか。それとも単純に、放っておけと言っているのか。
僕は別に、愛想や義理で接しているつもりはない。だが、遥にはそう感じられるのだ。
不意に、遥に初めて会ったときの感懐がよみがえった。彼は好きでここに来たようには見えない。考えれば、知らないままだ。
なぜ、遥は、この家に来ようと思ったのだろう。
僕は小さくため息をつくと、うなだれ気味に部屋に入った。カーテンの引かれた室内に明かりをつけ、おやつはつくえに置いて、ベッドに仰向けに倒れる。視線が白い天井を泳ぎ、希摘の助言を虚しくしてしまう自分が情けなくなった。
どうすればいいのだろう。どうしようもないのか。しょせん僕と遥は次元が違うのか。家族になんてなれないのだろうか。
ぐったりうつぶせになると、もやもやが胸に低迷して吐き気がしてくる。僕は唇を噛んでため息も出せずに、まくらに顔をうずめ、いらつくより傷ついている自分に虚脱した。
【第二十章へ】