答案用紙
振替休日の翌日から、学校は体育祭の名残もなく、中間考査に切り替わる。
ほぼ二週間で、体育祭の練習で記憶から追放されていた四月の勉強を混ぜ返され、かつ範囲までたどりつこうと教科書を驀進する。これを見ても、体育祭は消すか、さっさと済ますかだと思うのに、四月は先生たちがいそがしいのでそれどころではないらしい。
何でそんな都合にこっちがつきあうんだ、とぶつくさしながら、生徒たちはめまぐるしい勉強に追われ、五月末に二日間の決戦に臨む。最終日が土曜日で、試験が終わった次の日が日曜日だったのがゆいいつのさいわいだ。僕は一日ベッドにぐったりして、詰めこみまくった単語やら年号を頭から排出し、まくらに伏せっていた。
遥はさらに行動を不可解にさせていたが、意外と試験日には教室にいた。出席番号の席順である試験中、金曜日にも土曜日も遥の背中の僕の前にあった。三時間で帰れるので、早退も何もなかったのだろうか。
試験前の授業では、相変わらずどこかに消えていた。家に帰るのも遅くなり、とうさんが帰ってきても帰っていないときや、一度はついに帰宅しない日もあった。どこに行っているのか、リビングに呼び出されてとうさんとかあさんに問われた遥は、敵意の殻にこもって押し黙っていた。
両親は顔を見合わせ、キッチンで試験勉強の夜食をこしらえていた僕も、内心息をつく。僕は遥の煙草にも暴力にも口を閉ざしていて、遥も僕が言うつもりがないと判断したのか、警告は鎮めて黙殺に戻っていた。
家に帰らず、遥は誰といるのか。僕はすでに、それは察していた。試験期間中、桐越と音楽室に教室移動していたときだ。さしかかった渡り廊下で、帰ったと思っていた遥に遭遇した。そのとき、遥はひとりでなく、だいたいの生徒が、見かければ印象に残す素行の悪い落ちこぼれと一緒だった。
髪を金髪に脱色した先輩、ピアスを刺した隣のクラスの不良、何せ眼つきがすさんで、殺意を燻ぶらせている人種だ。その中で冬服の遥は、身なりこそきちんとしていても、揺るぎなく冷淡な雰囲気で完全に溶けこんでいた。無表情に縛られていても、何やら口はほどいてしゃべっている。
すれちがいざま、遥は僕に気づいても無視していった。僕は黙って教科書を抱きしめ、「あいつら、仲良くなったんだな」という桐越のつぶやきに顔を上げる。
「えっ」
「知らない? 天ケ瀬のいとこが、さっきの奴らに因縁つけられてたって話、聞いたことある」
「そ、なの。え、でも今──」
「仲良さそうだったな。因縁つけてるうちに、気に入ったのかな」
僕は廊下を振り向いた。夏服に染まった生徒がうろつく中、冬服で目立っている遥は、もういなかった。
遥が仲間を作るなんて意外でも、桐越の話で辻褄は合ってしまう。また悪化しちゃったんだ、と視線を落とす僕に、「行こうぜ」と桐越は声をかける。僕はうなずいて彼と並行し、やりきれないため息をついた。
学校に来なくて、家に帰らず、遥が何をやっているか──ああいう人間と、つるんでいるのか。
授業をサボる、煙草を吸う、妙な理由で同級生を虐待し、不良とつるんで家には帰らない──どんどん毒されていく遥の行動に、僕は困惑していた。
のんきに生きてきた僕には、心を病んだ遥の行動など、噛み砕けなくて喉が詰まるばかりだ。遥は、僕に自分を理解させようともしない。希摘もああ言っていたし、ほっとくのがいいのかな、と後ろめたさを残しながらも、そう思いかけている。
答案用紙が返されたのは、六月に入った薄暗い雨の日だった。僕はその日、ようやく遥がしつこく冬服を着ていた理由を知ってしまった。
原則的に、六月になれば冬服は打ち切りで、夏服に統一される。だが、それは建前で、冬服を着ている生徒がいきなり罰されることもない。六月に入っても遥は冬服を着ていて、でも、それで問題が起こったのではなかった。
問題は遥が試験に対し、いっそう捻じれて理解しがたい行動を取ったことにあった。
今年度も、月曜日の一時間目は担任の教科だ。二年生になった僕は、一週間を国語で幕開けていた。国語は初日にあった教科で、添削も終わっていて、出席番号順に答案が返される。
そのとき担任は、一番始めに遥の名前を呼ぶことに当惑のような躊躇を混ぜ、それでも一応、「天ケ瀬遥くん」と名前で呼んでいた。何おどおどしてんだろ、と思っていると、次は僕で、灯された真上の白熱燈が照らし出したのは八十三点だった。数学でこの点数なら驚異でも、国語ならまあまあだ。
答えの確認で一時間は過ぎた。そして、事は次の社会、気に入った生徒にはにこやかで、気に入らない生徒にはつんとした宮崎という女教師の答案返却に起こった。
「今回のテストで、先生はとても哀しいことに遭いました」
答案を返す前に、と宮崎は教卓に手をついてそう言った。空気が流れがふっと重くなって、みんなうんざりしたのが分かる。よかれと思ってしたことを拒絶されると、その生徒を不良と見なすこの教師は、もったいぶった美しい演説が好きだった。
窓から二列目、最前列の席に遥のすがたはあり、教室でひとり冬服を着て、退屈そうに頬杖をついていた。窓の向こうには、くすんだ雲が重苦しく、肌寒い小雨が降りそそいでいる。
「先生たちは、君たちを真剣に想って、真剣に試験を実施しています。今回このクラスに、そんな試験をバカにした人がいました」
「カンニング?」と誰かが言って、宮崎は首を振った。僕は歴史の教科書の表紙を眺め、バカにしてることを表に出すだけ正直じゃん、と思う。
「前の時間の坂浦先生は、答案を返すとき、何か言いましたか」
みんな、左右や前後の席で顔を合わせ、「別に」と口々に言う。
「そうですか。先生も、名指しはよそうかとも思いました。ですが、これは許されることではありません。そういう行動を取ったのなら、先生はそれと同じように応えようと思いました」
宮崎はおもむろに教卓についた手をおろすと、「では、答案を返します」と名簿に重ねていた束を取った。僕はふと、担任が遥の名前を呼ぶのを躊躇っていたのを思い出す。あれは、彼女の遥への個人的嫌悪かとも思ったが、もしかすると──
「天ケ瀬悠芽くん」
え、と顔を上げた。
僕? 遥は?
そう思っても、遥に反応する様子はない。とまどいつつ、僕は椅子を引いて立ち上がり、つくえのあいだを縫って教卓の前に行った。
僕はこの女教師に嫌われている。つきあう友人たちから、おとなしそうなのは化けの皮だと判断されているらしいのだ。何の言葉もなく、ただ答案を返された。六十五点だ。社会嫌い、と短絡的に思い、僕は遥を一瞥しながら席に下がった。
遥を飛ばし、次々とクラスメイトは答案用紙を返されていく。遥は答案が返ってこなくてもぼんやりしている。遥が社会の試験を受けていたのは、確かだ。年号が思い出せなくて唸っていたとき、前にあるというだけで、遥の黒い背中を睨んでいた記憶がある。
宮崎が言った、試験をバカにした誰かというのが遥だとは察せた。今度は、何をしたのか。
いや、宮崎も宮崎だ。なぜ、数学の広田の失態で学習していない? 遥が多少奇異な行動を取るのは、仕方ないとあきらめればいいのに。
最後の吉野という女生徒までたどりつくと、宮崎の手元には、一枚答案用紙が残った。白紙答案でもしたのか、と遥の綺麗な黒髪の後頭部を盗み見ると、「静かに」と宮崎は点数や予想外の答えに騒ぐ生徒を鎮めた。そして、手元に残った答案用紙と教壇を降りると、手近の遥の席に歩み寄る。
「この名前、読み上げてほしいですか」
遥は頬杖をつくまま、宮崎を瞥視した。宮崎の融通のきかないきどった瞳に、遥はかすかに物笑って目をそらす。宮崎はくっきり描がいた眉とぴくりとさせて、澄ました顎で遥を見下ろした。
「あなたのことは、少し聞いています。ですが、だからといって、こんなのは許されないんですよ。先生たちをバカにしてるんですか?」
遥はそっぽを向いていて、僕の胸には悪い予感がじりじりとこみあげてくる。
あの教師は何をやっている? なぜいちいち遥をつつく? 放っておけば何事も起こらないものを。
でも、宮崎の性格を思うと、ほかの教師たちが遥を避けているから、自分こそはと思い上がるのだろう。だが、誰が見ても彼女の行動は広田の二の舞だ。
ただ踊る猿じゃん、と思ってしまう宮崎の高慢にはらはらする僕に気づかず、彼女は遥に堂々と立ち向かっている自分に酔っている。
「こんなことで、先生たちが同情すると思ったら大間違いですよ。むしろ、軽蔑する先生がほとんどでした。聞いているんですか?」
遥は聞いていない。そのまま聞かずにいてほしい。聞いたら、彼の神経が切れるのは必至だ。
だいたい、それで遥が切れて、彼女がすべて反動を受けるならよくても、家で暴れたら迷惑をこうむるのは僕や僕の両親なのだ。自分には迷惑がかからない安心でえらそうにしているのか?
仮にここで切れさせるつもりとしても、だったら、公然であんな状態になったあと、遥が教室にいられなくなると予想できないのだろうか。遥の暴動を大したことはないと侮っているのか。自分はどうにかできるとたかぶってるのか。
澄ました敬語で遥をなじる、あの教師の思うところが僕には読めなかった。まさか、そういうことはいっさい考えず、自分がムカついたから非難しているとか──冗談だろ、とありえそうな本格的な猿思考に蒼ざめていると、宮崎は遥の返答を見限った。
「これはどういうことか、説明しなさい」と遥のつくえに答案用紙を広げ、彼女はついに無責任に爆弾を投下した。
【第二十六章へ】