romancier obscur

Koromo Tsukinoha Novels

野生の風色-3

相容れぬまま

 長い週末が終わり、ふやけた頭にがんがんする目覚まし時計が、月曜日を連れてきた。
 まくらに顔を伏せ、手探りで侵害的なベルを止めると、すずめの小さな鳴き声が残る。にぶくうめいて薄目をすると、青いカーテンに朝陽が充満していた。
 もう朝、と寝ぼけるあいだは、いつもどおり億劫さに不機嫌になっても、今日は遥と過ごさずに済むことを思い出すと、現金に目が覚めた。
 そうだ。今日は学校だ。遥がいるこの家で過ごさずに済む。やった、と解放感に起き上がる気力をもらい、くしゃくしゃのベッドでひとり咲った。
 学校がこんなに嬉しいなんて、そうそうない。僕はいそいそとベッドを這い出て、背伸びで均衡を取ると、パジャマに迷彩柄のベストを羽織って部屋を出た。
 春といっても朝は冷えていて、窓が通す朝陽を横たえる廊下も冷たい。バターの匂いがかすかに届き、物音や足音がしていた。
 電車で長距離通勤をしているとうさんに、かあさんもつきあって早起きして、僕の両親の朝は早い。七時に起きる僕が朝食を食べている七時半に、とうさんは毎日出勤していく。徒歩二十分かかる通学に、僕は八時には家を出て、みんな送り出すとかあさんは家事に取りかかる。それが、僕の家の朝だ。
 一階に降りると用をたし、隣の洗面所で手と顔を洗った。あえて冷水を顔にかけて目を覚ます。冷たさとわずかなカルキに眉を顰める。萎縮した頬をタオルでほぐすと、鏡を覗いて、寝ぐせに手櫛をした。
 春休みになったら、髪を切ろう。長髪ではなくても、いつのまにか、耳にかかる程度に伸びている。
 母親似の大きい瞳のせいで、僕はしょっちゅう童顔だと言われる。小柄で肌が白くて、昔はちょっと性別不詳だった。現在は顎や肩の丸みも取れ、声変わりで声も落ち着いてきたのに、やっぱりガキっぽいと言われる。
 身長のせいだよなあ、と進級後の身体測定を愁えつつ、僕はタオルを洗濯かごにやると、朝食がおいしそうな匂いをさせるダイニングに行った。
「おはよ」
 エプロンをつけたかあさんも、ワイシャツとスラックスのとうさんも、僕に同じ言葉を返す。
 僕はマグカップにカフェオレを作り、朝食を取るとうさんの正面に座った。淡色の花模様がある白いテーブルクロスを照らすのは、真上の白熱燈でなく、面したガラス戸が吸いこむ朝陽だ。
「あいつは、学校行くの四月からだっけ」
 遥のすがたがないのを確かめて言うと、「何日もせずに解散するクラスに入ってもな」とバターが香ばしいトーストを食べるとうさんが答える。とうさんは、サラダもスクランブルエッグも食べ終え、残るはそのトーストとコーヒーだけだ。
「あいつ、学校とか行けるの?」と僕は甘い湯気を立てるカフェオレをスプーンで渦巻かせる。
「試しに行ってみて、合わなければ無理は言わないさ」
「というか、勉強できるの?」
「施設付属の学級には通えてたそうだ。でも、一般の学校はいろいろ違うだろうし、つらいようなら強要しない。学校に行かせようと、この家に来てもらったんでもないしな」
「ふうん。学校って、合わない人間には発狂を誘発するんだって。希摘が言ってた」
 口にトーストを詰めこんだとうさんも、僕のサラダにフレンチドレッシングをかけるかあさんも、少しおかしそうに咲う。今日のかあさんは、普段通り髪をほどいてヘアバンドをしている。
「悠芽は学校に合うのね」
「さあ。どうしても嫌ってことはないかな」
「希摘くん、二年生になっても変わらないのかしら」
「そう思うよ。今度の日曜は行かなきゃ」
「春休みが始まってるんじゃないか?」
「まだだよ。来週の水曜日が終了式」
「ちゃんと春休みのチェックはしてるのね」
 かあさんにサラダを渡され、僕は何だかばつが悪い眉をして受け取る。そんな僕に笑ってコーヒーを飲んだとうさんは、席を立って歯を磨きにいった。かあさんは僕のトーストとスクランブルエッグもこしらえ、とうさんを玄関まで見送る。
 ほとんど味わう余裕もなく、僕は朝食をカフェオレで胃に詰めこみ、着替えのために部屋に戻った。
 光に慣れた眼球に、遠慮なくカーテンを開くと、陰っていた室内が明るくなる。ベッド、つくえ、本棚、ゲームが接続されたテレビ──三月になって、夜に雨戸を閉める習慣はやめた。
 今日もいい天気だ。冬のあいだ、物静かに灰色がかっていた陽光は、金色のきらめきを持ちはじめている。これで虫が出てこなきゃ春って最高なんだけど、とパジャマのボタンを外す。
 子供の頃、飛んだゴキブリに襲われて以来、僕は虫が死ぬほど嫌いだ。情けないと言われようが、こればかりは譲れない。
 厚手のスラックスを穿いてベルトを締め、薄手のトレーナーの上に学ランを着こむ。金ボタンを留めながら、時間割の確認をすると、漫画を一冊だけ紺の通学かばんに隠し入れる。学校指定色の紺のコートも着ると、八時十分前にあわただしく一階に駆け下りた。
 玄関にかばんを投げて、洗面所に行く。パジャマをかごに入れて、歯を磨く。かあさんが向こうで食器を洗っているのか、水の出がちょっとだけ悪い。鏡で身なりを確かめ、よし、とうなずくと玄関に走った。
 と、ちょうど階段をおりてきた誰かにぶつかりかけ、僕は慌てて身を引いた。
「あ……、」
 遥だった。着替えを済まし、寝ぐせも寝ぼけまなこもとっくに正している。
 ぶつかりかけて、やはりこの家じゃない匂いがした彼は、少し僕の服装に面食らっている。施設に閉じこもっていたわけだし、学ランなんてめずらしく映るのだろうか。
「え、と──おはよう」
 何を言えばいいのか分からずにそう言うと、「ああ」と遥は低く受け流し、無表情にすれちがっていった。「……『ああ』ですか」と小さく毒づいてみても、ムカついている余裕はない。
「行ってくるね!」と大きめの声で呼びかけると、僕はずしっと来るかばんを取り、カーキのスニーカーに足を突っ込んで家を出た。
 反対方向に流れていく甲高い声の小学生を縫い、かばんのストラップを肩にかけて、早足を努める。八時に出て二十分、とはいえ、八時二十分は予鈴が鳴る時刻だ。吐息を透かす春の陽射しや、庭先で満開の梅に浸って、のんびりはしていられない。
 頭上に電線を張り巡らす電信柱を追い越し、十歳から暮らす三丁目を出ると、一丁目と二丁目を分かつ道路を抜け、大通りの十字路に出る。コンビニなどが面した四車線のここは、駅前にも通じて車が頻繁に行き交い、横断歩道の赤信号をなかなか無視できないのが、遅刻しそうなときにはもどかしい。
 排気ガスにむせて渡れた先は二車線に戻り、左右に団地が立ち並ぶ。つぼみをつけた桜が通りを見下ろしている。初夏になれば、毛虫の宝庫だ。僕は深刻に、かあさんに車で送迎してくれと頼みたくなる。
 通りの直進方向に中学校があり、そろそろ周囲も小学生より同じ中学生が増え、僕の歩調も彼らに合わせてゆとりを持ちはじめる。
 中学校前のバス停を過ぎると、校門が現れて、何人かの先生が遅刻に無頓着な生徒たちを追い立てている。僕も同じようにあしらわれ、花壇に縁取られた昇降口への道を抜けた。冬にはしおれていた道沿いの花壇は、誰かの手入れで色彩を取り戻し、ひんやりした風にいろんな花の香りを束ねている。
 青空にはためく校旗の元の時計は、八時十八分だ。登校した生徒が途絶えない騒がしい靴箱で、僕はクラスメイトの深谷ふかやに逢い、彼と一年三組の教室に向かう。
「例のいとこ、どうだった?」
「あー、何考えてんのかぜんぜん分かんない。あんな、いかにも心閉ざしてるって人間、初めて見た」
「閉ざしてんの?」
「閉ざしてる。何かさ、咲わないんだよね。しゃべらないし」
「ぜんぜん?」
「うん。しゃべりはちょっとするか。笑顔はゼロ」
「ふうん。親が死ぬって、そんなショックかなあ。分かんないなあ」
 虐待されていたとかは、もちろん吹聴していない。話しているのは、親を亡くしたいとこが兄弟になる、というところだ。
 それでも、中学生の親に対する気持ちなんて、その発言程度には冷めているものだから、僕は深谷にしれっとうなずく。
 僕たちの教室は、第二棟の二階だった。中庭に通る渡り廊下を抜けて、生徒にざわつく南階段をのぼる。
「仲良くなれそう?」と深谷は茶色に染めた前髪の奥で悪戯に咲う。
「どうだろ。なれないかな。向こうがなりたくなさそう」
「親とそいつは、どんな感じ?」
「同じかな。あいつ、僕たちを家族と思ってないんじゃない」
「何で施設に残らなかったんだろうな。もしかして、施設で何かされてたとか?」
 雑音に紛れて深谷はからからとしても、そうなのかな、とすれちがいざまの人間をよける僕は、まじめな顔になる。施設に残りもできたのに、なぜわざわざ赤の他人に等しい家庭に来たのか。
「何?」と顔を覗きこまれて、はたとする。
「心当たりあんの?」
「ん、もしかするとそうかもって」
「マジ? やめろよ」
「だって、何であいつが僕んち来たのか、分かんないんだもん」
「まあ、今はわけありのガキって多いじゃん。児童福祉何とかとか、青少年保護何とかは、大いそがしですよ。引き取る家庭があるならって厄介払いされたんじゃない?」
「あー。って、よくそんなの知ってるね」
「伊達にいろいろ漫画読んでんじゃないですよ。あ、そういや昨日新刊買ったぜ。持ってきた」
 通学かばんの中身を覗かせてもらい、何の漫画か確認していると、階段のそばの教室に着いていた。
「おはよー」と先に入った深谷に続き、担任がいないことにほっとする。窓際二列目の席に着くと、前の席の崔坂さいさかに振り返られ、深谷と同じ質問をされた。僕は愚痴を繰り返し、「厄介ですねえ」とにやにやされる。
「他人事と思ってる?」
「思ってる。ふうん。どんな奴なんだろ」
「春になったら会えるよ。この学校来るし」
「うわ、会いたくねえ」
「どっち」
「しかし、お前の周りって変な奴が多いよなあ。そいつといい、月城つきしろといい」
 肩をすくめてかばんをひらき、教科書をつくえに移していると、二十代後半の男の担任の古賀こががやってくる。
 散らばる生徒を席におさめ、出欠をとって本日の予定を述べたてた古賀は、チャイムを区切りにホームルームを一時間目に切り替える。この学校は、全クラス月曜日の一時間目は、担任の担当教科だ。
 僕のクラスは英語で、一週間は訳の宿題の答え合わせで始まる。春の窓際の席は誘惑が多い。考えごと。居眠り。僕は絵具を溶かしたような空を眺め、クラスメイトのたどたどしい朗読を聞き流す。
 空を眺めるのが好きだ。ひとりっこで、子供の頃は空を見上げるのが友達だった。晴れていると単純に胸が軽くなり、ぐずついていると妙に不安になる。だから、悪天候のときは、本棚にたくさん並ぶ空の写真集をめくる。
 遥を想って気分が落ちこみ、この冬はよく空の写真を眺めた。空を眺めていると自分がちっぽけになる、あの感覚が好きだった。
 将来も、空に関わる仕事をしたいと思っている。どんなふうに関わるかは分からなくても、空を感じていると落ち着けるので、近くにいたい。
 柔らかい水色を観賞していると授業は終わり、ささやかな休憩を挟んで、また授業が始まる。学年末考査も終わり、どの教科も一年の復習や二年の予習、授業の遅れで後まわしになった部分の補填が主だ。大掃除は来週の残り三日でやるそうで、あと一週間はこんな単調が続く。
 落書きの時間を増やそうと書き取りを雑に済ましたり、嫌いな教師の授業への拒絶反応を殺したり、休み時間につくえのあいだに隠れて漫画を読んだり──そんなのをやっていると放課後になり、滅入った足取りで遥がいる家へと、帰路につく。
 僕の学校生活は、いたって平凡で、当たり障りなかった。燃えもせず、冷めもせず、興奮も退屈もない。さしさわりない成績や品行を保ち、その影でたわいない校則違反をやっている。
 部活には入っていなくて、委員も厚生で地味だし、つきあってみたい女の子もいない。女の子を好きだと想った経験はあっても、本当の初恋はまだだと思う。
 学校はドロップアウトするためのものだ、と僕の親友は言う。学校は人生の必須でなく猶予であり、したい夢が見つかればとっとと辞めるものだと。僕にも、例の将来の夢はあっても、どう関わるかは茫漠としている。だから、一応学校に行っておき、直感が来る日を待っている感じだ。
 僕には、学校は悪夢でもアレルギーでもない。むしろ、遥が来て家より力を抜ける場所になった。
 僕と遥は、依然食い違っている。露骨に険悪ではなくも、何となくお互いを避けて、相手の心を読めずにいる。とっつきのない気まずさが息苦しく、自立まで遥と暮らすんだよなと思うと、さっさと自立したくなった。いや、僕が出ていかなくても、遥がいたたまれずに投げ出すだろうか。
 立派な僕の居場所だった家庭が、遥の登場によって揺らいでいる。春になれば、遥は学校にも来るわけで、そうなったら、僕はいったいどこでひと息つけばいいのだろう。遥との仲違いは、僕の未来に深刻な影を落とす。
 遥の問題は、この気まずさでは済まない気もする。彼は新しい環境に順応しまいと、閉じこもっている。だが、いつまでもせぐくまっていたら、神経が切れるのは必至だ。
 遥との生活による面倒の本質は、現在の沈黙でなく、その反動の爆発にあるのかもしれない。爆発させないためにも、今のうちに警戒を緩和できたらよくても、あの遥にどうやって取り入ればいいのか。
 何かしてあげたいなんて思い上がりはない。どうせ、はなから遥が僕の助けなど受け入れない。でも、迷惑を遠ざけようと取り押さえる権利はある。僕は遥に振りまわされたくなかった。
 遥は、僕のどんな存在になっていくのか。悪い予断ばかりで、先行きが暗い。兄弟にはなれない。家族でもない。友達も無理そうだ。そして、遥のほうは僕をどう見ているのか。
 何せ僕と遥は、相手を自分の人生に登場しなくてよかった存在だと感じている。口をきかなくても、それはとがった神経で空気や瞳の端々で感知できる。
 いい関係など、築けるわけがない。僕たちはいっそう相手を疎外し、両親に悪く思いながらも、悪循環に取りこまれていった。

【第四章へ続く】

error: Content is protected !!