野生の風色-30

焼きついた傷

「遥って、前のとこではそんなグレてなかったんだよね」
 霖雨の長引く夕食どき、遥のいない食卓で、僕と両親は遥の非行について話していた。
 カレーライスはけっこう香辛料がきいていて、後味は辛いより苦い。ミネラルウォーターで口をなだめつつ、僕はにんじんをはねてひと口すくった。にんじんなりしいたけなり、はねるといつも目敏く咎めるかあさんは、今日はとうさんとの遥の相談にいそがしく気づかない。
 ミネラルウォーターをすすった僕は、ため息をしたきり沈黙に落ちこんだ両親に、そう割りこんだ。
「ん、いや、グレてなかったというか──」
「そんなことできなかったのよね。部屋は個室だったけど、お医者様が見ていらしてたし」
「なあ悠芽、やっぱり先生方の協力を断ち切ったのは良くなかったんじゃないか」
「とうさんたちが、医者代わりに止めればいいじゃん」
「とうさんたちが止めて聞くと思うか」
「聞くと思ったんで、引き取ったんでしょ」
 両親は、おなじみの顔を見合わせる。「止めるの怖いの?」とマヨネーズであえたマカロニサラダを僕はつつく。
「そういうわけじゃないが──」
「ま、とうさんたちがそうしたいなら、医者呼べば?」
「いいのか」
「僕はそんなの、遥がますます家に帰らなくなるだけだと思うけどね」
 両親は、息子の心ない指摘にだんまりになる。「ていうかね」と僕はマカロニを飲みこんで話を戻した。
「遥がいた病院って、どんな感じだったの?」
「どんなって」
「自由だったとか。厳しかったとか」
「そこまで縛りつけるところじゃなかったと思うが」ととうさんは言い、「中には拘束されるような子もいたそうだけど」とかあさんが続ける。
「遥くんは、そんなことなかったそうよ」
「先生方が、ずいぶんつきっきりではあったみたいだな。病院内の教室で、親しい子はいなかったそうだ」
「遥って、病院好きだったわけ?」
「好き嫌い以前に、そこしかなかったんだろう」
「ストレスあったかな」
「ないように気ははらわれてたわ」
 僕はカレーライスを口に含み、そんなん余計うざったいよな、とじゃがいもを噛む。
 遥が登場して以来、僕は食事どきが明るく楽しかった記憶が少ない。今日もまた食卓は前途を低迷させ、曖昧にお開きとなった。
 病院になじまなかったように、あるいはそれ以上に、遥の社会への順応力は腐敗していっていた。遥には、家庭や社会は重荷なのだろうか。気を抜けば殺されるような悪夢に、家庭という名で縛られて幽閉されていたのだ。遥の社会の一部となる能力は、ホコリで故障してしまったのかもしれない。
 彼はその瞳を、母親が父親を殺す光景で炙り、さらにその母親と海に飲まれて消え入りそうになった。そんな彼の過去を想うと、遥を僕たちに溶けこませるのは、魔法で事を運ぼうとするような空想に思えて、非行のほうがよほど理論的に思えた。
 たまに逢えた遥は、相変わらず長袖を着ていた。遥が年中冬服を着ていても、もうどんな教師も文句はつけないだろう。僕たちだって、あんなのが日常的に目に触れていたらつらすぎる。頭から風呂に突き落とされて肘に火傷か、とそこにちょっと頭を捻っていたら、あの傷については両親が話してくれた。
 あれは、遥の家庭が両親の死に砕け散る直前に負わされたものそうだ。つまり、彼が十歳のときのものだ。心中させかけられたときは、水膨れが腫れあがった状態で、海に堕ちた衝撃で被膜が破れて傷口を海水が襲い、余計にくっきり変色が残った。
 痛めつける理由なんて、いつもあってないようなものだったので、その日父親が遥を浴室に引きずっていった理由もない。沸かしている風呂を放置して、あぶくも立つような煮えたぎる熱湯にした。そして、家のどこかでぐったりしていた遥を連れてきて、その中にたたきこもうとした。
 顔面から熱湯に溺れさせようとして、とっさに遥は壁にあったタオルハンガーをつかみ、それで曲げた肘が熱湯に浸った。なぜ父親がなお力をこめて遥を浴槽にたたきこまなかったかというと、あまりの熱に湯沸かし機が爆音を立てていて、沸かしているのを忘れているのではと心配した隣人が訪ねてきたからだそうだ。
 もちろん父親は、遥を殺すためだなどとは言わず、忘れていたそぶりで礼を言って隣人を帰した。入った邪魔に父親は興醒めして、その気紛れで遥は熱湯に全身突き落とされるのをまぬがれた。
 頭に描がいた心象に、聞かなきゃよかったな、と正直思った。
 遥の神経も、父親の神経も、僕には理解できない。そういう家庭が存在すること自体、僕には分からない。遥の父親は、いったいどうやってそんなむごいことを思いつき、実行して、繰り返したのか。考えるほどわけが分からなくて、砂を噛むような気持ちになってしまう。
 それでも、遥に猛烈な同情は生まれなかった。つらかったのだろうとは思っても、突き動かされるような憐れみはない。自分とはかけはなれた世界と感じているのか、遥に同情する義理がないと思っているのか──いや、僕ぐらいの年代は、他人の不幸に関して、猿みたいに喜ぶか、鬼みたいに冷めているのだ。
 僕は冷めている。だから、遥の過去のひどさは認めても、それに反応しようとは思わない。父親に、顔面から、熱湯に突き落とされそうになっている少年。心象の映像にはぞっとして、何でそんなのがありえるんだ、と思う。しかし、その少年のために涙をこぼして、虐待撲滅に燃えたりはしない。
 遥が友達なら、僕はいくらでも虐待に唾を吐く。しかし遥に好意もないのに、彼がそれをされたといって、虐待に関して労力をはらう気にはなれない。
 大切な人の体験なら、さしてひどくなくたって心をかたむける。でも、好きでもない人間のために立ち上がるなんて面倒だ。他人の痛みに感化された善なんて、胡散臭い。僕は僕の大切な人の心だけ理解していられたら、無関係の他人の心情になんて影響されない。
 僕が遥を大切だと認識すれば、仮に彼に過去を語られた場合、丸くおさまるのだろう。だが、あれにどうやって好意を持つのか。
 家族という戸籍で、完全に他人ではないので、僕は遥の過去に動揺しているふりはした。すると、遥はすぐさまそれを見破り、愛想はいらないと言った。だったら放っておき、遥の人生は遥に任せるしかない。
 今日も単調な雨を退屈の授業の中で眺める僕は、もうこんなん考えるのやめようかな、と力なく思う。
 というか、これまで何度もそう思って、実行しようとしてきた。けれど、数日で挫折し、あの厄介者とどうつきあっていくかと悩んでしまう。
 もはや、遥は学校にも家にもいなくて、僕には関わってこなくなっているのだ。なのに、こんなふうに考えて──
 片想いしちゃってんのかなあ、といつぞやの希摘との話に蒼ざめ、白熱燈を反射する艶々した教科書の表面にうなだれ、自己嫌悪の瞳を弛緩させた。

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