野生の風色-32

生徒指導室にて

「お前が、学校や先生たちに反感を持ってるのは分かってるんだ」
 生徒指導室は本棟北の奥まったところ、渡り廊下のそばにある。客間より狭いそこは、やたら段ボールが積まれていた。くっついたふたつのつくえと、それをあいだに向き合ったふたつの椅子がある。僕が腰かける椅子がないので、広田は段ボールの隙間にあった折りたたみの椅子を出した。
 室内のにおいは当然段ボール、それとホコリっぽさだった。教師はだいたい自分の教室で説教をやるので、ここはそうたびたび活躍しないのだろうか。
 雨の音がないかわりに風の音が大きく、電燈が一定の低音を立てていた。それぞれ腰を落ち着けると、広田はつくえ越しに向き合った無愛想な遥にそう言う。
「どこが気に入らないのか教えてくれ。先生たちは、できる限りのことはするつもりだ」
 何だかなあ、と傍観者の僕は、広田にこうもへりくだらせる遥に畏れに似た気持ちになる。広田は遥の態度でなく、彼の過去の重さにビビっているのだろう。
 僕は遥の過去に感化されず、彼を普通の人間として見ようとしている。かの宮崎もそうらしかったが、彼女は普通を意識しすぎて、必要以上に厳しくなった。でも、僕は僕で躊躇って愛想じみている。
 遥と接するには、すべてにおいて度合がむずかしい。
「先生も、あのときのことは反省している。配慮が足りなかった。つい、普通の生徒と同じにしてしまって」
 僕は遥を盗視した。暗い瞳や整った眉は、頬骨をかする前髪の奥で、氷のように動かない。異常な生徒、とも取れる言葉には動じなかったようだ。
 にしても遥は、みずから会いにきたくせに、無言で何の反応も表さない。
 広田の注意はもっぱら遥に向かって、ヒマな僕は室内を見まわした。目のたしになるものはなかった。周囲の段ボールに、地震が来たらおしまいだな、とか考える。
 広田の背後の窓の向こうに、生徒用の駐輪場が覗ける。あさって希摘のとこには自転車で行けないだろうな、と思う。降っていたら当然のこと、どう出るか分からない空の下に自転車を置いておき、雨に降られたら帰りに荷物になる。
 希摘は今、何をしているだろう。先月に第五日曜日がはさまり、三週間も会っていない。元気かな、と電燈に上目をしていると、「天ケ瀬」と少し感情のこもった広田の強い声がして、僕は我に返った。
「どうしても先生たちが気に入らなくて、何もできないと見切ってるなら、学校に来なくてもいいんだぞ」
 決まり文句だ、と僕が緊張すると、遥もホコリがうっすら積もる床に放っていた白眼を広田にくれた。
「あのとき、お前の親御さんにも言われたんだ。何だったら、学校を無理させる気はないとな」
 遥に対して、僕の両親のことを“親”と呼ぶのは良くないと思うのだが。
「あんな妙な連中とつきあうぐらいなら、学校に来るな。お前もそのほうがいいんじゃないか」
 遥は広田を見つめている。毒を施されたねずみが、無様に苦しみだすのを俯瞰する目つきだ。
 遥の氷結は、爆風の前兆だ。今が自分の役目かと思い、僕が「先生、」と口をはさむと、「お前は黙ってろ」と広田はこちらを睨みつけた。
 そのでたらめに、僕はぴくりと眉を上げてしまった。何だ。こいつは遥を見張らせるため、僕を巻きこんだのではないのか。ふざけんなよ、とさすがにいらつく僕を無視した広田は、食言教師を冷然と観察する遥にたたみかけた。
「何が気に入らないんだ。こっちはかなりお前を特別にあつかってるんだぞ。俺も、ほかの先生たちもだ。なのに、何でそうやっていらだってばかりなんだ。学校がお前に何をした? ここはお前の昔の家とは違うんだ。いつまでも引きずってないで、新しい自分になろうと思わないのか。聞いてるのかっ」
 どんっ、と広田がつくえにこぶしをたたきつけたときだった。
 遥はその音に心臓を撃たれたようにびくんと身をはじかれ、途端、瞳の色にさっと無垢な怯えと驚きを綯い混ぜた。「何だ」と広田は遥のその顔に、彼を支配した確信を得たような、さっきのへりくだった声を裏返した思い上がった声を発する。
「いまさら謝っても──」
「ごめんなさい」
 僕も広田もぎょっと遥を見た。でも、遥は僕たちに気づかないような、放心に飛んだ目を空に開いていた。白熱燈を飲みこむその瞳が濡れたかと思うと、ぽろぽろと電燈の反射に大粒に映る雫が落ちる。
「あ、あま──」
「ごめんなさい。おとなしくしてるから。たたかないで」
 錯乱、している。つくえを殴る暴力的な音に、回路がショートしたらしい。
 広田の怒りに紅潮した額が、さあっと蒼ざめて後悔に染まる。彼は僕を見たが、止めようとしたのを無視された僕は、一緒に当惑などはしない。
「痛いよ。何にも言わないから。生まれてきてごめんなさい。ごめんなさい。お願いです。ごめんなさい……」
 遥は肩を狭め、椅子の上で膝に身を縮めた。広田は、またもやってしまった自分に焦っている。僕は驚きはしても、なぜか、そのあとにまごつきは来なかった。
 責任は広田にあるからか、もっとひどい暴れる状態を知っているからか、いつもどおり冷めているのか──。
 遥は肩を震わせ、嗚咽をもらしている。
 何か、違う感じがした。僕は遥の嗚咽をドア越しながら聞いたことがある。あのときの、こちらにもめまいを起こす深い痛みと暗い絶望がない。情感がないのだ。
 僕は眉を寄せ、もしかして、と遥を覗きこもうとした。すると、「おい」と広田が僕の肩をつかんでくる。
「どうするんだ」
「どうって、知らないですよ。先生が遥を追いこんだんじゃないですか」
「何のために、お前をここに」
「僕は止めましたよ。先生が『黙ってろ』って言ったから」
「何でもっと強く止めないんだ」
「は? 僕のせいっていうんですか」
 そう言いたげな広田の目に、言葉が追いつかないあまり、その頭でもぶん殴ってやりたい衝動に駆られた。
 そのとき、遥が喉を引き攣らせた声をもらした。僕も広田もそちらを見る。耳を澄ますと、それは泣き声でなく、笑い声だった。
 やっぱり、と僕が眉間に皺を刻むと、広田はまったく状況を分かっていない困惑と動揺をちらつかせた。拍子、遥は顔を上げて、広田に向かって皮肉に笑い出す。
「あはははっ、バッカじゃねえの。引っかかりやがって。お前の迫力なんか、俺の父親の比じゃねえんだよ」
 茫然とする広田を、遥は立ち上がって嗤笑の声と見下す。
「あんたは、俺を普通じゃないと思ってるみたいだな? 言っとくけど、あの環境で頭おかしくならないほうが異常だぜ。俺は正常だ。お前に俺のことなんか分かんねえよ。分かってねえくせに、俺が気に入る気遣いができるわけないだろ。二度と俺に口を出すな。近づいてきたら、今お前に言われたことをばらまいてやる」
 蒼白を青黒くしていく広田をあしらって置き去りにすると、遥は生徒指導室を出ていこうとした。が、ドアに手をかけたとき、思い出したように振り返る。
「あとな、学校は俺に何もしてない。だからいらつくんだよ。あの家と同じだ。俺は両親に何かされたんじゃない。何もされなかったんだ。だから、虐待なんだよ」
 遥は廊下に出て、広田につきあいたくなかった僕も、急いで生徒指導室を出た。廊下を左右に見渡すと、遥は渡り廊下を渡ろうとしている。
「遥」と呼び止めると、彼は振り向いた。僕は扉を後ろ手に閉め、渡り廊下に駆け寄る。湿った芝生の匂いが風に抜ける渡り廊下の途中から、遥は僕を見つめた。
「何だよ」
「最初からそのつもりだったんだ?」
「あ?」
「あんなことするために」
 遥は風に黒髪をなびかせ、冷たいというより鎮まった目を僕に向ける。こわばった警戒で見返すと、遥はポケットを探って煙草とライターを取り出した。慣れた手つきでくわえ煙草に火をつけ、煙も風に奪われる。
「ビビった?」
「何が」
「けっこう本物っぽかっただろ」
「別に」
 遥はほんのかすかに驚いて僕を見る。
「分かったよ、すぐ。演技だって」
「嘘だ」
「ほんとだよ。だって、前に聞いたのと違ったし。何か、今のは重くなかった」
「………、ふうん。わりと賢いんだな」
「ひとつ聞きたいんだ」
「何」
「お前って、自分の家庭をどう思ってんの?」
「どうって」
「つらかったと思ってる?」
 遥は煙草に長い指先を添え、訝った眼をした。が、そんな質問をされる心当たりはすぐ見つかったのか、瞳は虚ろに冷えていく。「単純なひと言で済むもんでもないだろうけど」と僕は渡り廊下への敷居をつつく自分の爪先を見る。
「あんな、利用みたいにできる程度だったの?」
 冷めていく遥の瞳は、昂揚したときの饒舌さを失くしていった。切れさせておくよりいいのだろうが、無口になれば質問に答えてもらえなくなる僕は焦る。
「ねえ」と言うと、遥はコンクリートの廊下に煙草を落とし、風に吹かれる前にその場に踏みつけて消した。
「お前を黙らせる機会も来たらいいのに」
「………、」
「お前に、俺のことなんか分かってほしくないね」
 音もなく身を返した遥は、中庭のほうに出て、北の裏庭へと抜けていった。たたずみそうになった僕は、物音がした生徒指導室に、慌てて強い風が当たる渡り廊下を通って、ドアの影に身を隠す。
 苦い顔で出てきた広田は、憎しみのこもった足取りで職員室に向かった。今回は墓穴としか言えない。しかし、僕まで懲戒される恐れがあるので、このことはあいつが脚色して言いふらす前に、僕が両親に話しておこう。
 広田のすがたが見えなくなると、僕は素肌の腕に冷たい感触のドアに背中をもたせかけた。
 風の唸りを聴く中、嫌われてるんだなあと僕は足元に目線を下げた。こうも相手に嫌われるのは初めてだ。いや、僕が心底嫌いな人なんて、これまでにもたくさんいただろうが、それを露骨にぶつけてきた人は初めてだ。
 遥は僕を嫌っている。家族になろうと思うだけ、無駄なのか。黙らせておきたい。分かってほしくない。広田への剥き出しな言葉より冷静であるぶん、遥が心から僕を嫌がっているのが感じられる。
 そして、そんなに嫌われると、やはり人間として心が傷ついてしまう。
 もちろん、遥の心の傷とは較べものにはならない。バカなことを訊いてしまった。つらかったに決まっている。でも、猜疑してしまうではないか。本当に傷ついていて、あんなふうに“使える”ものなのか。
 僕は窓に近づいて、天を仰いだ。空には黒くうごめく雲が憂鬱に垂れこめている。
 梅雨が明ける頃には、僕の気持ちも夏みたいに晴れているだろうか。いや、空ばかり晴れ、きっと僕の心はじめついた梅雨にはまりこんでいる。
 いつまでこうなのだろう。僕と遥の仲が、いずれやってくる青空のように、風を通す日は来ないのか。
 僕はもやもやした灰色の空を見つめ、来ないんだろうなあ、と天井に目を細めた。

第三十三章へ

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