くつろげる時間【1】
「わーお、久しぶり」
土砂降りだった昨日、こりゃ明日もひどいかな、と希摘の家にはかあさんに車で送ってもらうのも検討していたけど、今朝になって空は数日ぶりの晴れ間を覗かせた。一掃されたとはいえなくても、一面に這いまわっていた雲に隙間ができて、ちらほらと青空も覗いている。
それでも、夕方には雨になるという予報に従い、僕はデニムのリュックに折りたたみ傘を入れ、徒歩で希摘の家におもむいた。あたりの植物は、陽光に雫をきらめかせて、蒸し暑くても風は水分で涼しい。
インターホンに応答して迎えてくれた希摘は、そう言って笑顔で僕を招き入れた。
「三週間、会わなかったね」
「ね。つっても、その前一ヵ月ぐらい、何だかんだで毎週会ってたか」
「そうだっけ」
「運動会の振り替えとか、ゴールデンウィークとか」
「あ、そっか。運動会じゃなくて、体育祭ね」
「どっちでもいいの。鍵締めて」
僕は鍵を締め、ドアマットに乗った黄色のパーカーにジーンズの希摘に続く。僕は英文字プリントのTシャツにカーゴパンツだ。
三週間ぶりだけど、希摘の家の匂いは感じれば覚えている。
「静かだね。おばさんいないの?」
「さっきどっか行った。とうさんもいない」
「ひとり」
「うん。あー、君でよかったわ。宅急便とかだったら、不覚に他人と顔合わせてた」
「はは。三週間、誰にも会わなくて、絵は進んだんじゃない?」
「まあね。一枚できましたよ」
「ほんと」
「うん。しかし、おそらく嫌な感じ。何つうか、俺のお絵描きって飯の種になりそうにないよな」
「そう?」
「気分悪いもん。将来、お絵描きしながら何してんでしょうね。かあさんみたいな仕事がいいなー」
希摘の母親は、在宅で仕事をしている。そう頻繁な人づきあいもなく、対人が苦手というかできない希摘には、そういう仕事が精神にも逆らわない気がする。
「悠芽はへこんでない?」
「ん、どうして」
「お空が悪いと、気分も悪いって言ってなかったっけ」
「ああ。うん。そうだね。あと、個人的なことも重なって」
「遥くんですか」
「です。いろいろあったよ。希摘が聞いてくれると楽になれそう」
「へへ、そっか。聞くよ。二階行こ」
「うん」と上がった二階の希摘の部屋では、引かれたカーテンに明かりがついて、つくえが散らかっていた。スケッチブック、定規、もちろん鉛筆や消しゴム──僕が買ってきた百円の鉛筆削りもある。希摘の匂いに混じり、鉛筆を削った木と黒鉛の匂いがした。
「描いてたなら、来てよかったかな」と遠慮してしまうと、「何をおっしゃる」と希摘はざっとつくえを片して、カーテンも開ける。明るくなった部屋に、「電気は消そうか」と僕がベッドにリュックをおろして言うと、希摘はうなずく。
消したらちょっと薄暗いかなと思ったけど、そうでもなかった。雨の小休止に、いそがしそうに飛びまわる鳥の声がする。「描いた絵ってどんなの?」とカーテンをまとめる希摘に問うと、希摘はスケッチブックを取って、ベッドサイドに腰を下ろした僕の隣に腰かけた。
ぶあついそれをぱらぱらとした希摘は、ページを開いた。そこには、細かく色を塗りこまれた蛇がいた。とぐろは巻かずにこちらに牙を剥き、その牙には唾液と絡みあって血がしたたっている。憎悪に釣り上がった目は、毒々しく真っ赤だ。軆の基調色は緑でも、その軆にはあらゆる色が敷きつめられている。赤、黄、青、緑、橙、桃、紫、黒──ミリ単位の模様が、色合いを緩めたり深めたりしながら、うねる軆に合わせて綺麗に連なっている。
そして、何と言っても腹が胎児のかたちにふくれあがっていた。
僕は希摘と顔を合わせる。
「赤ん坊?」
「うん」
「妊娠、じゃないよね。この血から見るに」
「丸飲みです」
「テーマは」
「学校」
「学校?」
「個人を味わいもせずに飲みこんで、果てはみんな同じクソにする」
「……なるほど」
希摘らしい主題に唸るように言うと、「ちょっと理解しがたいと思っただろ」と希摘は僕にジト目をする。
「いや、希摘らしいよ。色がすごい細かいね。目がちかちかする。時間かかったんじゃない?」
「うん。模様を正確にするのもなー。円のぎざぎざ、同じ数ですよ」
「へえ。学校ね。それは一瞬見ただけだと分かんなくても、希摘が学校に持ってるイメージなら伝わってくる。怖いとか、嫌悪とか。飲みこむとかも」
「ほんと?」
「うん。精神的な感じ」
「そうかな。へへ。はい、おしまい」
希摘は照れ咲ってぱたんとスケッチブックを閉じ、つくえに置きにいった。
学校か、と思う。個人を味わいもせずに同じクソにする。遥は学校は自分に何もしていない、だからいらつくと言っていた。その言葉と希摘の絵を照らし合わせると、ないがしろ、という面で感覚が通じるだろうか。
隣に戻ってきた希摘に、僕は思い出してリュックを取り、担任に預かった三週間ぶんで特別に重たい封筒を渡す。
「ひゃー、何これ」
「三週間ぶん。テスト用紙も入ってる」
「テスト」
「こないだ中間だったでしょ」
「そんなん知らんぞ。あー、やばいなあ。進級できるかしらー」
受け取った希摘は、封筒の口に指を引っかけて中を眇目で覗く。そして、芝居がかった身震いをして、もう中身を取り出しすらせず、「こんなの俺の人生じゃないや」と封筒を放った。
「試験どうだった?」
「まあまあかな。頭の切り替えが大変だった。ほら、中間って体育祭の直後だし」
「んー。俺も言われれば、何となく思い出すんだな。最初は、まだ学校行ってたんで」
「あ、そう?」
「正の数、負の数とか習ったよなー」
「………、うん」
「何ですか、今の間は」
「いや、その──それって、勉強というより、勉強の前提というか。基礎というか」
「知らないよりマシ」
「まあね」と僕は苦笑して、リュックをまくらのそばに戻す。
立て膝に顎を載せる希摘は、「クロマニョン人とかなかったっけ?」と僕のほうが忘れていることを唐突に言い出す。そして、「スライムみたいな名前だよなー」と変な感想を述べる。
「何でかな。ニョン、のせいかな。ニョンニョン」
「ていうか、数学といえば、広田憶えてる?」
「知りません」
「くどくどした数学教師だよ」
「えー。数学。すーがく。数学って言葉使うの、漫画みたいだな。算数。あ、分かったっ。イジメについて熱血に語ってた奴ね。やだねえ。ああいう奴がそんなん言うと、かえってイジメ推奨したくなるんだよ。俺あいつ嫌い。だって形容しがたいもん」
「確かに。あれがね、こないだ遥とごたごたあったんだよ」
「ん、待てよ。前に遥くん切れさせたのも、広田とかいう教師じゃなかったっけ」
「同じ奴。自分で二の舞踊ったんだよ」
希摘はからからと笑い、「やっぱ君、きついよ」と僕の肩に手を置く。薄くなった服に、その手の体温は肩に伝わった。
きつい。そうなのだろうか。僕は自分を、煮え切らないおとなしい奴だと思っているけれど。「そういう部分もある」と立て膝をおろした希摘は否定はしなかった。
「宮崎のことは知らないよね。女の」
「うん」
「社会教師でさ、これがまた、形容しがたいんだよね」
「しがたいんですか」
「分かる?」
「ぜんぜん」
「好きな生徒と嫌いな生徒で、態度すごく違ったり」
「あ、やだねー。そういうのしていいの?」
「本人、自覚してないと思う」
「最悪。悠芽はどう? 好かれてる?」
「嫌われてるよ。つきあってる友達で、僕の人格も判断してるみたい」
「友達って、俺?」
「いや、クラスの奴。まあ、茶髪に染めたのとかいるから」
「やだね、個人を正視できない奴って。そいつがどうしたの」
「それも、遥といさかい起こしてさ」
「遥くん大いそがしね」
僕はその軽い言葉には微笑むと、遥の“悪魔の息子”や腕の火傷、その後、いっそう彼が教室を避けるようになったことを語った。話が深まるにつれて、笑えなくなってきたように、希摘はまじめな瞳になる。
おとといの広田の呼び出しについても話し、遥の僕への捨て台詞で締めくくると、「君も大変だねえ」と希摘は参った瞳と口調で同情する。
「俺なんか、引きこもりさんなんで、そんなん体験すると思っただけでやさぐれますわ」
「はは。遥って、本気で僕のこと嫌ってんだなあ」
「無関心よりはマシっつったじゃん」
「無関心になりつつあるよ。ほとんど顔も合わせないし、口もきかないし」
「やばいね。取り返しつかなくなるよ」
「っていってもさ。希摘は分かる? 両親は自分に何かしたんじゃなくて、何もしなかったから虐待って」
「さあ。ま、何にもされないのは、何かされるより精神的にしんどくはあるな」
希摘がそう言うのは納得できた。「にしてもさ」と希摘はフローリングに素足を投げ出す。
「悪魔の息子ってのは、捻りがないね。ベリアル天ケ瀬とか書けばよかったのに」
「……何それ」
「闇の息子の名前だよ。悪霊。あ、そしたら遥くん自身も悪魔ってことになるのか」
希摘は学校の勉強は放り出しているのに、さっきのクロマニョン人と言い、印象に残った知識はたくわえている。
「そんなのを名前として書いた理由は、悠芽の指摘が合ってんじゃないかな。精神的な自殺行為。自虐という奴ですね。助けてほしいのかなあ」
「と、僕は思ったけど。分かんない。近づくなって威しとも取れるし」
「うむ。その宮崎というのは、いただけないな。なぜそこまで侵害できる。そういう大人がいるんで、解放できずに日陰ができて、イジメなり虐待なりが発生するんだよ。遥くんは実に正しい。切れたのも変じゃないね。俺も切れそうだもん。『何で登校拒否してるんですか』、『先生たちをバカにしてるんですか』、『そんなこと同情されると思ってるんですか』、『先生たちはみんな軽蔑してますよ』……うわーっ。当てはまるーっ。ムカつくーっ」
宮崎の台詞をなぞったところは声色を変えた希摘は、脚をばたばたさせる。確かに当てはまっている。とにかくあの女教師は、嫌いな生徒への態度が一貫しているのだ。
「僕は、細かいことにつきあってたらキリがないってのにびっくりした。うまく言えなくても、境界線はあるじゃん。ほっとくのと、そっとしとくのって」
「何も考えずにそう思ってんだよな。悠芽くん、君は疑問を持って悩んでるだけ、賢いんだよ。元担任は、先公にしてはマシだね」
「あいつは、希摘のことで成長したんだよ」
「ふふ、そうか。君も度胸座ってんね。遥くんがそんな剥き出しにやったのに、クラスに対してはったりかますとは」
「お節介じゃなかったかな」
「え、何で」
「遥、最後の切り札で教室に溶けこもうとして、過去をみんなにさらした……って、ないと思う?」
希摘は瞳を渋くして僕と見合い、「そりゃあ」と首を捻る。
【第三十四章へ】