くつろげる時間【2】
「ないんじゃない? そんなん考えて、切れた状態でもなかっただろうし。自分の過去が、突然さしだすだけ、相手をヒカせるとも分かってんじゃないかな」
「……そっか」
「君はいろいろ考えるのね」
「遥が分かんないし。制限なくて、妄想が広がるみたいに考える。いや、みたいじゃなくて、ほんとに妄想かな」
自嘲して嗤うと、「何も考えないよりいいだろ」と希摘は肩をすくめる。
「その火傷って、ひどかった?」
「うん。くっきり残ってた」
「すごい経験抜けてきたんだよなあ、遥くんってのは。今生きてるだけで、褒めてやっていいんじゃない?」
僕は希摘と瞳を重ねたのち、「うん」とクローゼットを向く。
そうかもしれない。家庭を疎外しても、学校を唾棄しても、遥は生きているだけですごいのだ。
おそらく彼は、生きていく、という基本からむずかしい状態にある。基本なんて、意識もせずやれる僕たちは、“普通”にも必死な遥の精神力を考慮せず、あれこれ自分たちの感覚を押しつけすぎているのだろうか。
遥は人生を投げ出しはじめている。彼が非行に走るのは、もしかすると過去なんて関係なく、彼を“当たり前”に急かす僕たちのせいなのかもしれない。
「遥くんは、その女教師を境にさらに不良化。で、算数の形容しがたいおっさんが出るわけね」
「あいつは、何ていったらいいんだろうね。ほんと形容しがたいよ」
「アホかな」
「間抜け」
「バカ」
「どうしようもないね」
「同感。教師辞めたほうがいいよ」
「ぶん殴りたくさせるなんて、中学生向きじゃないし。あれが殺意ってもんなんだよね」
「君が少年院行ったら、お外に出れない俺は会いにいけなくて困る」
「はは、それは大丈夫。けど、遥にあんなにバカにされて、広田に同情いっさいないもんなー」
「遥くん、究極にコケにしてますね。悠芽、演技って見抜けたのすごいんじゃない?」
「前に泣いたの聞いたことあったし。あれがなきゃ騙されてたよ」
「そうかな」と希摘は脚をぶらつかせ、僕もやや謙遜かなと思う。
慢心があるのではなく、見分けられた自分に少し驚いている。あのときの遥の闇に虚脱させる嗚咽が、あまりに鼓膜に印象深かったのもあるけれど──
「悠芽がマジで切れるって、わりとめずらしくない? 君っておとなしい上に冷めてるし」
「うん。でも、あれは誰だってムカつくでしょ」
「そいつ、人間的に問題があるよな。切れやすいってのが中坊の手本面してちゃまずいよ」
「ほんと。嫌いだとは思ってても、あんなにタチ悪いとは知らなかった。もうやだなあ。顔も見たくない」
「重症。おばさんたちには話したのか」
「うん。また関わってきたら、校長に言うってさ」
「校長じゃねえ」
「校長が保身取るなら、もっと上にいくと思う」
「教育委員会でもねえ」
「とにかく、広田から遥を守るとは思う」
「そっか」とようやく納得する希摘に、僕は笑ってしまう。
「広田に切れて必然だったのは、僕も自分のそれで分かっても、遥がそんな態度取ったってのは意外なんだよね」
「そうか? 遥くんは、そのつもりで会いにいったんだろ」
「だとしても、あんな手段選ぶなんて思わなかった。あいつっぽくないよ」
「まあ、いささか小賢しいですね」
「でしょ。ほんとに傷ついてんのかな、とか思っちゃうし。訊いても答えてもらえなかったけど」
「それが狙いだったんじゃない?」
「えっ」
「そういうので、ほんとに傷ついてんのかって思わせたかったとか」
僕はきょとんと希摘を見て、希摘はその僕を映す瞳でにやりとする。僕は臆面を怪訝に移らせ、「どういう意味?」と首をかしげた。
「ま、俺の想像ね。傷を人を動かす武器にすんのは最低だよ。遥くんは、それとは違う感じがする。だって、そういうタイプにしては、自分の傷に酔ってないもん。何もされなかったんで虐待とか、自分なりに過去を客観視してるみたいだし」
「……うん」
「傷ついてるから、傷ついてるって知られたくなくて、そんなんしたのかもしれない。傷を自虐的に乱暴にあつかって、傷ついてないじゃんって周りに思わせて、傷ついてるっていう真実を隠した。悠芽とかおじさんたちには、傷自体は知られてるわけだろ。だったら、傷の深さを紛らすしか真実は隠せないじゃん。それに、遥くんは分かってんじゃないかな。傷を誇示して人を従わせるのは、被害者が一番やっちゃいけないことだって」
僕は希摘と見つめあう。風が窓をたたき、「買い被りかな」と言った希摘に僕は首を振った。
やはり希摘は、遥と会ってみる価値がある気がする。でも、希摘は遥を直接知らないので、客観的でいられるのか。
希摘は、他人と触れ合うとひどい拒絶反応を起こす。希摘も一種の傷を持っているので分かる、という面もあるのだろう。
「俺なんか、見ようによっちゃ、わざわざ傷つけられて利用してんだよね。やだー、さいてー」
「泣き落としとかはしないでしょ」
「まあね。何かイジメられるんで学校辞めるよって、そんな感じか。ああ、かわいくないイジメられっこ」
希摘は笑ったあとに、僕と顔を見合わせる。
「遥くんは、みんなが何気ない毎日を忘れていくみたいに、もっと記憶を流していきたいのかもしれない。俺が言い切れたもんではなくてもね。傷ついてなくて利用した、とかではないと思うよ。だって、そんな家庭で、傷つかないわけないもん」
明快な事実に、僕はこくんとする。
そうだ。傷つかないわけがない。遥自身も言っていた。あの環境で頭がおかしくならないほうが異常だ。そして遥なら、傷ついているなんて知られたくない、と弱みを死守するのもありえる。
「しかし、根本的な話、遥くんの精神状態ってどんどん錯綜していってない?」
「錯綜」
「遥くんって、元は単純だったじゃん」
「そ、そう?」
「防御か攻撃だったんだろ。それが、グレたり裏をかいたり」
「……そっか。悪化だよね」
「遥くんの本質がつかみにくくなったのは確かですね」
僕はうつむき、「僕たちのせいだよ」とつぶやく。
「僕たちが遥にずぶとかったんだ。自分たちと遥を同じように見過ぎてた」
「特別視はしないんじゃなかったっけ」
「気遣うとこはあるでしょ。僕たちと遥では、きっと、精神力の消費がぜんぜん違う。僕たちは何の苦労もなくこなせるのが、遥には死にそうな努力でやらなきゃいけなかったり。遥に学校だの家だの押しつけて、グレさせたのはと僕たちなんだよ。だから、遥は僕たちに心を閉ざすんだ。僕たちに自分の気持ちは分からないって、あんなにきっぱり言えたんだよ」
希摘は僕の未発達な肩に温かい手を置いた。うなだれた目を上げると、希摘はため息混じりに言った。
「そこまで分かってて、なぜ遥くんの友達になれない?」
「何でかなあ」
「そういうの、言えば」
「話す機会ないもん」
「悠芽は機会を作れるだろ」
「知ったかぶりとか言われそう」
「そのときはそのときで、遥くんを分かってやれないんだって見捨てればいいじゃん。態度でしめさないと、考えごとしか進まないよ」
「馴れ馴れしくすると、もっと変なほうにあいつ逃げるんだよ」
「わざと自分を追いつめて、それでもつきあってくれる人を探してんのかも。きつい言葉を、まともに受け取っちゃいけないのと同じ。不良化は、言葉だった試験が態度になったのもあるかもしれない」
「それって悪いこと?」
「どうだろ。不信感が進んで確信が欲しくなった投機とも言えるし、最後の仕上げで難題を提示した堅実とも言える」
「どっち?」
「分かりませーん。ま、自分と遥くんの視点は食い違ってると思うなら、遥くんの目線に近づくほうがいいんじゃない。同じ目線になるのは無理でも、近づくことはできるよ。それで遥くんの心をつかめるようになれば」
「できるかな」
「やってみるのはね」
僕は希摘の穏やかな色の瞳と見合う。「えらそうかな」と希摘は羞恥を混ぜてシーツで膝を抱え、僕は首を振った。
「希摘さ、遥に会ってみない?」
「えー。やだー」
「希摘なら、遥のこと分かってやれそうだよ」
「そうか?」
「だって、すごい分かってるもん」
「これは悠芽と遥くんの仲への意見だよ。俺と遥くんじゃ、またいろんなもん変わってくると思う」
「そうかな」
「うん。へへ、引きこもり人間の言い訳ですが」
「……そっか。ごめん、希摘も他人は嫌なんだよね」
「謝らなくてもいいよ。まあね、できたら俺がでしゃばって仲立ちしたってよかったけど」
僕はかぶりを振り、「聞いてくれて助かってるよ」と微笑む。「ほんとに?」と希摘は不安を混ぜた上目をして、「ほんと」と僕は見つめ返す。すると希摘も微笑み、「悠芽と仲良くなったら会えるかもね」と雲の切れめに青空が覗く窓を見やった。
希摘は、横顔だと穏やかな印象が強まる。でも、それは見ためで、あっけらかんとした口振りやあの蛇の狂暴性が、希摘の性質なのだろう。
個人を味わわずに飲みこむ。僕は“遥”と向き合ったことはあっただろうか。“遥の過去”、“遥の行動”という形式ばかり見て、主体として在る遥の実質は無視していた気がする。
僕は遥が分からない。それは、遥を知らないからに過ぎないのだろうか。噛み砕かずに飲みこんだ遥を喉に詰まらせて、何も残さず排他しようとしているのだろうか。味わって知っていたら、何か栄養があったかもしれないのに。
周りの人は、僕が希摘とつきあえるのも不思議がる。ほかの人には、希摘も遥に似た打ち解けにくい人間なのだろう。でも、僕は希摘が分かる。彼の心を知っているからだ。希摘とつきあえるから遥ともつきあえる、とは思わなくても、知って理解できれば栄養になる関係が結べる──それは僕は知っている。
遥に近づいてみるべきなのだろうか。放っておく道が切り開かれる恐れもあるけど、万一に賭けるのは僕次第だ。
遥を見切るのは、せめて、自分が無力だとどん底に堕ちてからにしよう。今だって、じゅうぶん遥には無力と宣告されていても、僕にはいっぱい遥にやればよかったこと、やればいいことが思い当たっている。全部ダメだったとき、縁がなかったとあきらめるのだ。遥にさしさわらないよう受け身でいたが、それでは思索がもつれるばかりらしい。
僕がそれを言うと、希摘もうなずいた。
「じゃ、ひとまず方針決まったとこで、ゲームでもしますか」
辛気臭い話はくくって、床に下りた希摘に僕は笑んで、「うん」と電源のつけられたテレビを覗きこんだ。
【第三十五章へ】