血飛沫が走って
広田の呼び出しは、思っていたより、遥にとって不快な亀裂を入れていた。
激しくはなくも重く雨が降る数日、遥は部屋にこもって学校をサボっていた。うごめいてもうごめいても去らない暗雲が、昨夜から空一面に落ちこみ、朝が来ても陽射しはそれに飲まれて、湿った大気には闇の影がなずんでいる。
遥の鬱は暗闇を怖がる。鬱状態が来てんのかな、と閉ざされた遥の部屋のドアを横目に、僕は水色の傘をさして登校した。
そして、平凡な一日を過ごして帰宅すると、遥に発芽したいらだちが六日目にして大木になって、家中を薙ぎ倒していた。
「ただい──」
ま、と続ける前と、雫をかぶったかばんをどっと下ろしたあとの狭間に、何かが割れる音がした。かなり間近だったので、びくっとしてしまう。しかし、怪訝に眉を寄せる間もなく、「お願いやめて」とかあさんの泣きそうな悲鳴が続いた。僕は遥の靴があるのを確認し、そして、考えるまでもなく遥のドスのきいた声に頭を吹っ飛ばされた。
「何でみんな、俺が死ねばいいって言うんだ。あんただって、あいつだって、みんな俺に死ねって言いやがって。死ねなんて言うぐらいなら殺せよっ。とっとと殺せ!」
「そんなの思ってないわ、私は──」
「嘘だっ。じゃあ、何であいつを呼ぼうとしたんだ。来るかもしれない。来るに決まってる。そしたら俺は、またあいつにレイプされるんだ。お前に分かるか、何で俺があんな奴に心開かなきゃいけないんだ。あいつは俺の敵なんだっ。俺を犯すんだ。お前は俺をあいつに殺させようとしたんだっ」
また壊す音がして、どさっと何か崩れ落ちる音が続く。泣きそうというか、かあさんは泣いているみたいだ。
動揺した心臓が嫌な搏動にもやつき、生唾を飲みこむのにも吐き気がした。緊張に体温が上がったのか、雨に湿った服が余計冷たく感じられる。
ばらばらっと細かいものをフローリングに乱暴にまきちらす音に、遥の息切れて錯乱した雑言が飛びちる。
「何で俺はこんななんだ。分かんないよ。何でみんな俺の敵なんだ。こんなとこ俺の場所じゃない。みんな、何で死ねって。みんな俺にどっか行けって言うんだ。みんなあいつの味方なのか。そうなんだろ。お前、俺があいつに殴られ続けるために俺を引き取ったんだろ。あいつは死んだんだよっ。お前は死んでるんだ、殺してやる!」
その引き裂いた喉からのような声には、威しでない憎しみがほとばしっていた。僕は足がはまりこんだ濡れたスニーカーをもどかしく脱ぎ、急いで家に上がる。
リビングに踏みこむと、リビングとダイニングのあいだに遥とかあさんがいた。遥は開け放たれた食器棚の前、かあさんは僕に背を向けてガラス戸の前にへたりこんで、遥は本気でかあさんに飛びかかろうとしている。僕がとっさに遥の名前を叫ぶと、かあさんは振り向いても、遥は気づかずにかあさんの胸倉をつかんだ。
僕は舌打ちして、ふたりに割りこむ。こちらに気づいても、無視してかあさんの胸倉をつかむ遥の腕に、僕はほとんど無意識に肩に力をこめた手加減なしの肘鉄をくれた。
効いたのか、遥はびくんと身を打たせ、引いた腕を胸にかばってうずくまった。
胸倉をつかまれて腰が浮いていたかあさんは、また尻餅をつく。「大丈夫?」と息が荒い僕はその隣にしゃがむ。涙を頬から顎に流し、服に染みを作るかあさんはうなずき、「ありがとう」とわなないた声で言った。
あたりには割れた食器や食べ物、箸やスプーンが散らかっていた。テーブルクロスが引きずり落とされて、僕の席の椅子が倒れている。鼻につく臭いがすると思ったら、芝生にそそぐ雨を映すガラス戸に、べったりと牛乳が垂れていた。ガラス戸の元に転がった一リットルパックは、フローリングに白い液体を吐き出しきっている。さいわい残り少なかったのか、大きな水溜まりではなかった。
僕が遥に目を向けたとき、遥も顔を上げた。そして、瞳にすさまじく熱された殺意をはちきらせる。
「お前も俺に消えてほしいんだろっ」
「そうだね。僕のかあさんにこんなことするならね」
「じゃあ殺せよっ」
「僕には、僕が少年院に行っちゃ困るって奴がいるんだ。お前なんかにつきあって、殺しなんかやってらんないよ」
遥は肩をふくらませて僕を真っ赤に睨めつけると、素早くそばに転がっていたフォークをつかんで、僕に飛びかかってきた。僕は息を飲んでぎりぎりで飛び退き、フォークの先とフローリングが乾いた音にこすれる。
遥は野獣じみた機敏な動きで僕に焦点を定め直し、さらに向かってきてフォークをかざした。のしかかられかけた僕は、とっさにその右手首を抑えたけど、遥の力はものすごくて、僕を振り切ろうとあまった力に腕がおののいている。
「遥──」
かける力に、遥は僕の上にかぶさるかたちになり、前髪が下りて眼が剥き出しになった。すごい感情のたぎり方だった。眼がこうまでも心を通すなんて知らなかった。どす黒く真っ赤だ。噴き出す血のごとく真っ赤だ。真っ黒の瞳に点火された色が、あぶらにマッチを投げ入れたように激しく燃え盛っている。
そう、彼がこうなった切っかけは、小さいマッチのようなものだろう。いったい何でこうなったのか──。
僕は捨て身の気持ちで、遥を睨み返した。言うなりになっておいてなだめたって、こいつは演技と見抜くので効かないだろう。弱みを見せたら、文字通り負けだ。
「お前も俺が死ねばいいと思ってるんだ」
「思ってないよ」
「思ってる。みんな思ってるんだ。あいつだって、あいつだって、みんな、俺に消えろって言うじゃないか。俺の父親みたいに。お前、俺の父親知ってるんだろ。あいつに俺を殺せって命令されてんだな」
「されてないよ、あのね──」
「あいつ生きてるんだろ。それで、お前らはあいつに俺のこと全部報告してるんだ。あいつは俺を殺すんだよ。知ってるんだ。何で。どうして。だったら、何で俺を作ったんだ。お前が責任取れよ。何で俺を殺して死ななかったんだ!」
言葉をはさもうとしても遥は聞かず、引き攣れた呼吸に発音を乱して、無秩序な言葉を連綿と紡ぐ。
「俺の何がダメなんだ。どうして俺は殴られなきゃいけないんだ。何で助けてくれないんだよ。どこが悪いのか分からないよ。気遣ってるなんて、そんなん知るかよ。俺だって分かんないんだ。何でこんなにいらつくんだ。怖いよ。こんなののために生まれたなんて嫌だよ。殺したいんだ。殺さなきゃ殺されるんだ。殺してやる。どうしてあんな奴に命令されなきゃいけないんだ。そんなの俺が一番分かってる。俺だって、あんなこと忘れたいよ。新しくなりたいよ。でもできないんだ。嘘ばっかりつきやがって、お前らはあいつらとそっくりじゃないか!」
広田……だろうか。広田に言われたことが、また癇に障ったのか。確かに広田は、遥にそんな言葉を投げつけていた。あんなふうに持っていったのだから、気にしていないと思っていたが──
「殺してやるっ」
泣きそうに壊れかけた声に血気をよみがえらせ、遥は喉をつぶす声で僕の顔にぎらつくフォークを振り落とそうとする。
「遥、」
「殺してやるっ。お前なんか死ねばいいんだ。俺が殺してやる。お前を食いちぎって、お前に俺を体感させてやるっ」
もう、誰に向かった言葉なのか分からない。そのとき、脇で茫然とかたまっていたかあさんが、不意に後退って立ち上がった。テレビ横のチェストにある電話に駆け寄り、とっさに僕は、腕を折りそうに圧してくる遥の憎悪に耐えて叫ぶ。
「呼ばないで!」
さっきの遥の発言で、医者に見せてもしょうがないとは察せていた。かあさんは僕を振り向く。
「で、でも──」
「呼んだってしょうがないだろっ」
「呼べよっ。呼んでいいよ。俺を殺したいんだろ。あいつに俺を殺させろ。俺なんか投げだせよ。そうしたいんだろ。呼べ!」
「悠芽──」
「かあさんはこいつを殺したいの!?」
受話器に手を伸ばしかけるかあさんを向いていた遥は、僕を見た。かたくなにとがっていたその瞳は、一瞬、狼狽えたように揺らいでわずかに色を透かせた。
が、すぐ鮮紅を取り戻して、遥は僕の手首を引きちぎると、フォークを捨ててすかさず僕の喉に親指を入れる。突き刺さった急な痛みが脳天を一閃し、押し砕かれそうな喉の骨に狭まった息に僕は目を剥いた。
「この偽善者っ。お前が一番最低だっ。殺したい奴のほうがマシだよ、お前が死ねば全部よくなるんだ!」
「遥くんっ、」
「殺してやる! お前なんか死ねばいいんだっ。俺の前から消えろっ。お前は綺麗ごとしか言えないのか。お前が一番汚いんだよっ」
遥の圧迫は、容赦なかった。本気で殺す力だった。えぐるほど喉を指でにじり、突き破りそうに絞め上げてくる。視界が滲み、こめかみから頭の中が熱く腫れあがる感じがした。圧される骨の痛みは、塞がれる呼吸にどうでもよくなっていく。
息が吸えない。吐けない。それに気を取られ、遥を押し退けるとか、手を引っかくとかもできない。力が流出していった。唾液がざらつき、心臓が暴れまくる。脳内はひずんだ膨脹に染まり、渦巻いた眼前が急激に色あせて、ついで、真っ暗になった。
遥の荒い息がやけに生々しく、ずっと奥に遠い頭痛が響く。死ぬかも──漠然と、そう思ったときだった。
不意に、押しつぶされていた呼吸がふっと活路を得た。突如あふれた呼吸に僕は咳きこみ、涙が流れるよりも粒でこぼれ落ちる。頭がぐらぐらして、釣り合いが取れなかった。喘いで床に倒れこみ、上を見ると、遥は僕を凝視している。
「何でだ」
「……え」
「何で抵抗しない?」
「………、そんな、っ……」
「俺に殺しをやらせて、豚箱にたたきこむつもりなのか。そうなんだろ。それで俺を消そうとしたんだろっ」
荒く上がった息に、僕は何も言えなかった。ゆがむようなくらつきに、考えることもできない。肺と心臓がずきずきと伸縮し、通る息に喉が痛かった。
涙を落とす僕を睨みつけた遥は、いきなり僕を降り、捨てたフォークをつかむと長袖をめくって、自分の左手首にそれを強く突き立てた。
「遥くんっ」
止めようとしたかあさんをはねつけ、遥はフォークを手首に振り下ろした。鋭い攻撃に、フォークの先は肌を破って遥の手首に食いこんだ。引き抜くと、小さく赤い飛沫が飛んだ。
遥はそれをくりかえした。銀色のフォークで、手首を深く乱暴に傷つけ、いつのまにかぽろぽろと涙を落としはじめる。その涙は、その手首の痛みに対するものではないようだった。遥の手首には、さっきの瞳のような液体が伝い、ぴちゃん、と焦げ茶のフローリングで跳ねた。ついで、その深紅に、あんな色を浮かべていた瞳が絞り出したとは思えない、透明な雫がぱたぱたと落ちる。
脱力をおして軆を起こした僕は、遥のかたわらに身を這いずらせた。かあさんは向こうでへたっている。こちらに気づかない遥に、僕はやるせなく瞳を虚脱させ、彼のフォークをつかむ右手首をつかんだ。遥はつかまれても僕に気づかず、フォークを手首を突き刺そうとする。だが、さしとめられて当然手が動かず、彼はやっと僕に気づいた。
遥の傷ついた瞳に映る僕は、自分でも不思議なぐらいに泣きそうにしている。
【第三十六章へ】