家族として
「たそがれてるな」
本日の日直で黒板を消していた桐越が、仕事を終えて僕の隣にやってくる。そう言った彼に、僕は陰気な息をつき、軆を返して曇った窓に背を向ける。「死にそうな顔」と桐越も手すりに背中を預ける。
「そうかな」
「いとこのことか」
「……まあね。それとか。いろいろ。天気悪いし」
「なめくじだし」
僕は桐越のがっしりした腕を肘で突いた。桐越は笑い、「あいつ、家では問題起こしてるのか」と向こうの遥の席を見やる。
「たまにね」
「学校はほぼ来なくなったな」
「あいつ、このまま落ちぶれてくのかな」
「引き止めたいと思う?」
「………、悪いことしたかなあ、とは思う。遥をそういうふうに追いこんだのには、きっと僕のせいもあるんだし」
「献身的」
「僕、ああいうのとつきあうには頭悪いんだよ。優しくないしさ。とか思う」
桐越は小さい僕を見おろし、「ちょっと変わったじゃん」と笑いを含んだ声で言う。
「前は、あんなほっとくっていってたのに」
「………、ほんと。あのまま冷酷でいたのがマシだったな。やっぱ、偽善的なのかなあ」
「丸くなったんじゃないの?」
「優柔不断になっただけのような」
卑屈を口にしつつ、確かに放置を誓っていたあの頑固さがなくなっていることに気づく。丸くなった。優柔になった。というより、遥の過去が生々しくなったせいかもしれない。
あの頃、僕は遥の過去に実感がなかった。今はずいぶんある。しょせん同情しちゃってんのかなあ、と思うと、自己嫌悪が燻ぶった。
「僕があいつをどうかできるとは思わないんだよね。でも、悪化に追いこまないようにはできたかなあって。自分のせいで誰かが最悪死ぬとか、感じ悪いじゃん」
「まあな」
「でも、僕がどうかしようとするだけ、あいつは変なのに走るんだよね。じゃあどうしろと」
「もう、好きにさせたら?」
僕は桐越の切れ長の目と見合う。「好きにねえ」と身を返して、窓に映る半透明の気むずかしい自分の顔を睨む。
希摘も、放るのは手だとは言っていた。が、桐越のそれと希摘のそれは、何となく違った。希摘の“放る”は選択のひとつで、桐越のは選択の放棄というか。放る──ぐらいしか、僕は遥に能がないのだろうか。
チャイムが鳴ると、教室じゅうに散り散りになっていた生徒が席に整う。三時間目が始まり、僕は要所だけ聞いて、上の空でいた。遥は現れない。桐越の言う通り、遥は学校に来ないに等しくて、希摘と並ぶ登校拒否児になりつつある。遥の場合、登校拒否というより、単にサボっている印象が強いが。
このクラスって問題児多いな、と思ったら、よく考えれば、ふたりとも僕と引き合わせておくために同じクラスになったのか。僕のせいなのか、と何やら理不尽な事実に突き当たりつつ、僕は教師の目を盗んで頬杖に沈み、物思いを彷徨った。
遥の素行の悪さは、彼の過去を気遣うとかいう以前の問題になってきていた。授業をサボり、学校で煙草を吸い、いかがわしい夜遊びをして。僕は知らなくても、夜遊びもふらつくだけのものではないだろう。
そういう裏の世界に詳しくない僕に、はっきりした光景は察せなくても、まあ、薬はしているのだ。薬はかなり致命的に境界線を越えている気がする。不良にとっては洗礼ぐらいのものだとしても、更生とか、そういうのと絶望感は高まる。
遥が薬をやっているという話は、まだ浮上していなくても、それでも目にあまってきているのは事実で、かあさんが呼び出されているときもあった。
「かあさんたちは、遥を息子だと思ってる?」
その日も、かあさんは担任との話し合いに呼び出され、放課後、桐越たちと靴箱にいた僕と偶然逢った。煙るような雨に車で来たそうで、僕は桐越たちとは別れ、かあさんの運転するメタルグレイの車で帰ることにする。
紫陽花も植わる花壇沿いの校門への道には、色とりどりの傘で土砂降りをしのぐ生徒たちが流れている。それを車で縫って校門を抜け、荷物や傘は後部座席に置いた僕は、かあさんに遥のことで呼び出されたのを聞いたあと、そう言った。
「息子って?」
「僕みたいにさ。思ってる?」
「同じに思っていいのかしら」
「同じに思わなくて、どうかなるの」
「………、思おうとはしてるわ。でも、遥くんは私たちを親なんて思ってないし」
「思われなかったら、思わないんだ」
雨の中の運転で、かあさんは僕を見たくても見れないようだ。僕はシートの上で、窮屈に身動ぎする。
濡れるよりマシでも、僕は車があまり好きではない。成長するごとに狭くなるし、においがこもっているし、何より乗りすぎると気分が悪くなる。
薄ら寒さに暖房が低くかかっているけど、暖まる前に家に着くだろう。左右の窓は、雨で景色をどろどろにしていても、フロントガラスは一定の調子のワイパーが雨粒をはらい、最低限の視界を保っている。
「悠芽の質問は、いつも鋭くて痛いわね」
「ごめん」
「いいのよ。悠芽は口ではいろいろいっても、態度では遥くんの味方ね」
「遥とつきあうって考えて、見方を客観的にしてるんだよ。主観的になったって、めんどくさくて放りだすのがオチだもん」
「……そう」
「かあさんたちは、遥とどうつきあおうとか考える?」
大通りの十字路で赤信号に引っかかり、かあさんはやっと僕を見た。学校に来るときは、いつもかあさんは化粧や身なりを綺麗にしている。今日は水色のアンサンブルにタイトスカートだ。僕が譲り受けた大きめの瞳を、車が行き交う正面に戻すと、「少し」とかあさんはハンドルを握る。
「遥くんを簡単に見すぎてたかって、思うときもあるわ。あんなにむずかしいとは」
「家の中に僕がいるのも良くないんじゃない? いきなりこんな、自分と正反対の環境で育った同い年がいたんじゃ、落差に複雑になるよ」
「そうかしら」
「大人だったら、そんなのなかったと思う。僕ぐらいの年代って、同世代に敏感だしさ。って、希摘がいつか言ってた」
「希摘くんね。悠芽は希摘くんとつきあえるからって思ったけど」
「僕はできても、遥ができないんだったら同じだよ」
「……そうね。遥くんを甘く見てたのね」
「まずは、遥くんってやめて、呼び捨てにすれば」
かあさんは曖昧に咲い、青になった信号にアクセルを踏んだ。
希摘とは、どちらからともなく名字はやめようかと名前呼びになったっけ。考えれば、僕が名前呼びするのなんて、希摘と遥ぐらいだ。
大通りを渡って商店街沿いの住宅街に入ると、車の通りはぐっと減る。
「かあさんたちは、遥とつきあうのに勝算があると思ってた。あんなにきっぱり、引き取りたいって言ってさ」
「放っておきたくなかったのよ」
「引き取るだけが、放っておかないってことじゃないと思うな。引き取るだけなら、ほっといたほうがよかったよ。病院に縛られてたら、いろいろ変なのに染まらずに済んだのに」
「……そうね。ねえ、おとうさんが家と問題あったって、遥くんのこと話したときに言ったでしょう」
「うん」
「おかあさんと大学で逢ったとき、おとうさんはそれを引きずって、心の病気だったわ。でも、ふたりで乗り越えようって、それでおとうさんは今はしっかりした人になれたの。おとうさんとおかあさん、ふたりでのその経験が、遥くんに応用できるんじゃないかって思ったのよ」
思いがけない魂胆に、「そうなの」と僕はまばたき、「でも」とかあさんは僕と対照的に睫毛を陰らす。
「悠芽が、希摘くんとのつきあいが遥くんに応用できないっていうの、本当は今は分かるの。それは私たちのやりかたで、遥くんには通じないのね。遥くんのための気遣いを見つけないと」
「………、僕にするみたいに接したらいいじゃん。かあさんたち、よそよそしいってのはあると思うな。僕が不良とつるんだり夜遊びしたりしたら、迷わずに怒るでしょ」
「……ええ」
「遥にもそうしたら? 僕にそうできるのは、きつく言うほど憎いんじゃなくて、簡単に縁が切れないって信じてるからだよね。遥をしかれないのは、遥を信じてないのと同じだよ。しかったあと、遥がどう出るか予想できないのも確かだけど」
息子の冷評にかあさんが息をついていると、車は家に到着した。「えらそうでごめんね」と僕が苦笑いと照れ咲いを混ぜると、「意見をもらえるだけ助かってるから」と車を屋根の下におさめたかあさんは微笑む。
僕は車を降りて、後部座席の荷物を引っ張り出し、傘はささずに門をまわって玄関の軒下に駆けこんだ。かあさんもそうして、革のトートバッグから鍵を取り出す。
鳥肌をざらつかせる轟音の雨を吸収し、庭は土っぽい匂いに蒸している。芝生は一見白銀の水を浴びて生き生きしていても、実際は酸性雨という毒を受けているのだろう。
鍵を開けて引いたドアの先に遥の靴はなく、僕とかあさんと一度顔を合わせると、家に入った。
【第三十九章へ】