反射する鏡
かあさんと車で話した日の雨が、梅雨最後の長雨だったようだった。
六月も残り数日となり、ようやく空は青い晴れ間を覗かせるようになる。陰った水を浴びすぎてうなだれていた植物も、久しぶりの太陽に顔をあげて、残る雫を陽射しにきらめかせている。
夏へと変貌した太陽は、直視できないまばゆい光で肌を焦がす。肌にべったり汗が滲む感覚を軆が思い出し、アイスを冷凍庫に常備しておきたくなる。太陽と照り返しのアスファルトにはさまれ、風もぐったり緩怠していくのだろう。これが駅前だと失せた風に排気ガスが鬱積するけれど、郊外のこのへんなら、まだ緑の匂いが立ちのぼる。
夜になると虫の声も聞こえてきたし、うるさい蚊や蝉が出没するのも間近だ。そしてあの黒いのも──せっかく空は雲は残しつつも晴れたというのに、げっそりした息をついて、僕は希摘の家へと自転車をこいでいた。
きちんと起きて待っていてくれた希摘の顔を見ると、僕はいろんなものが詰まった、重く吐息をついてしまった。「晴れてるよ」と希摘は雲の合間の青空をしめし、僕はうなずく。「来たくなかったなら無理しなくてもよかったのに」と言われて僕は首を振り、「すっごい会いたかった」と親友の肩に手を置いて玄関に踏みこんだ。
「じゃ、会いにきてもよかったのに」
「ほんと?」
「うん」
「じゃ、先週来ればよかったな。僕、悩んでるんだよ。何ていうか、僕の人生にあんなもんが関わってくるなんて」
「遥くんですか」
「遥の、まあ、行動。もうやだ。あいつとはおしまいの気がする」
「おしまい以前に何か始まってたか」
「そうだけど。はあ。上がっていい?」
「どうぞ」と希摘は身を引き、僕は彼の肩に置いた手をおろして月城家に上がった。
何だか僕は、連続ドラマのごとく、遥の話の続きを希摘に語っている。「こんな話ばっかでごめんね」とスニーカーを脱ぎながら謝ると、「来ないよりいいよ」と希摘は微笑む。それにほっとした笑みを返すと、僕は彼と共に階段を上がった。
「遥以外の話題ないのかな。あ、昨日駅前行って、やっとゲーム買えたよ」
「えー、ジャンル何?」
「RPG。新作の奴でさ、おまけでケータイストラップついてきた。いらない?」
「ケータイ用品を俺がもらってもね。学校のケータイ持ってる奴にあげたら?」
「あ、そっか。ゲームは終わったら貸すね」
「うん。あー、しかし蒸してきたね」
希摘がぱたぱたと手のひらで自分をあおぐ通り、二階は一階に較べて湿度が高い。僕の部屋も二階だから、エアコンがつく前は夏場はとてもいられなかった。希摘の部屋のエアコンも、まだクーラーとはいかなくても、ドライがかかってひんやりしている。
僕はベッドにデニムのリュックをおろすと、例によって封筒を渡して親友を顰蹙させた。いまさらもらっても仕方ない知らせや二週間滞納した学習プリントに、「いらんって断れないのかなあ」と希摘はぶつぶつする。それから、ベッドサイドに腰かけて封筒を床に放ると、「で?」とベッドに乗って壁にもたれる僕を見返った。
「え」
「『え』って。遥くん」
「あー、うん」
僕は膝を抱え、しみったれたため息をついた。「言いづらいならいいよ」と首をかたむけて、射しこむ陽射しに前髪を透かした希摘に、かぶりは振る。ただ、どう切り出せばいいのか──
深呼吸でひと置き置くと、遥が広田の呼び出しを逆手に取ってあざけったのを掘り返した。「憶えてるよ」とうなずいた希摘に、「バカにしたら、せいせいしたって簡単なもんじゃなかったみたいでね」と事を切り出す。
遥が切れたこと、首を絞められたこと、眠る遥の腕に注射の痕があったこと。「注射」と希摘もその事実の先にある行為は察せたのか、慮外そうに目を開く。
「マジで」
「うん」
「ほんとに注射の痕だったのか」
「と、思う。こう、針刺して、ちょっとケロイドっぽい痕だった。医者がやったなら、そんな痕は残んないじゃん」
「……まあな。何、打つっつうとやっぱ覚醒剤」
「よく分かんないけど、たぶん」
「中坊のドラッグっつうと、シンナーだったのにね。それも時代遅れになったか」
「いやはや」とつぶやく希摘に、言われてみれば、と僕もシンナーというものを思い出す。しているだろうか。シンナーはまず臭いが強そうだけど、遥にそんな臭いを嗅いだことはない。
「あいつ夜遊びもしてるしさ」と僕は膝ですれたジーンズの生地をいじる。
「学校より、そっちでやったのかも」
「そっか。ま、何にせよ薬ね。やばいじゃん」
「どう思う?」
「バカ。物好き。自滅的」
「………、そんなものに行かれたら、手に負えないよね。医者呼ぶしかないかなあ」
「医者」
「っていっても、遥が嫌がってんの呼んだら、ますますやばくなりそうでもあるんだよね。僕たちが追いこんだのかって思うと、ぞっとしちゃってさ。そんなひどいことしたかな」
右脚だけベッドに引き上げて、あぐらのかたちに曲げた希摘は、「まあね」と視線を空中に浮かす。
「親の再現じゃなきゃひどくない、ってことはないよな」
僕は膝に顎を乗せて、希摘に上目をした。両親には僕の指摘も痛いようでも、それ以上に希摘の指摘は鋭敏だ。僕はジーンズに顔を当て、「僕、こんなバカだったかな」とつぶやく。
「人づきあいに天才的ってわけじゃなくても、人ひとり、そんな道に追いこむほどひどいとは思ってなかった」
「何かしたってわけじゃないと思うよ。何もしなかったわけでもない。遥くんにしたら、そんな普通の感じが怖かったのかもな」
「……どういう意味」
「人づきあいうまくやれない人間には、悠芽みたいに、人の中で難なく生きられるのってちょっと怖いんだよ。悠芽は、わりと自分が一定じゃないじゃん。良くも悪くも、相手によって感じが変わる。親とか、先公とか、学校の奴とか、俺とか、みんなに同じ顔してるわけじゃないだろ」
うなずきつつ、「仮面とかはつけないよ」と弁解の口調で脚をシーツにほどく。「つける奴なら親友やってません」と希摘は僕と視線を重ねる。
「悠芽ぐらいが普通なんだ。当てる角度によって、鏡が反射の光の角度も変えるような、自然なもんだろうし。相手のための自分が、整理されてんだよな」
主体性がないだけの気がしても、希摘がそう言ってくれるのなら僕はこくんとする。「俺はそれができないんだ」と希摘は床に左脚をぶらつかせる。
「自分が一定で、それは良く言うこともできても、我を張ってるとも言える。遥くんも自分が一定じゃん。遥くんが悠芽を受け入れられないのは、自分を柔軟にできる人間への恐怖もあるのかもしれない。悠芽が正常なんだよ。人間って人間の中で生きてくんだし、ある程度、自分に柔らかくないと」
「何か、欺瞞っぽくない?」
「悠芽は、意識して打算的に変えてるわけじゃないだろ。相手にとっての自分を分かってるんだ。だから、俺も悠芽ならつきあえる。つっても、遥くんは悠芽ときちんと向き合ってるわけじゃないし、区別つかなくて脅威になっちまうのかな」
そうなのだろうか。対人できない人が世間を生き抜ける人間を怖く見る、というのは、希摘が言うなら事実だと思う。むすっと席を動かなかった遥が、対人をあやつれないのも明らかだ。
彼は僕の自然な接近にこそ、猜疑を発生させ、不信感を敵意にしているのだろうか。
「傷のせいもあっても、遥くんの人を見る目はゆがんでるんだ。悠芽は、真摯に遥くんに接してんだろ」
「嘘はついたことないよ」
「じゃ、遥くんが薬に手を出したのは、悠芽の落ち度じゃない。ま、傷に濁って目がつぶれてて、それで悠芽が見えないなら、遥くんだって悪くないんだけど」
「……そっか」
「お医者さんか。薬入ると、精神状態が純粋にそいつだけのものじゃなくなるんで、核心がつかみにくくなるよな。医者もありだけど、結局、なぜ薬に手を出したかって根本的な問題は、医者だけじゃなくて家族も分かってやる問題だよ」
僕はこっくりとして、遥が中毒していくようなら医者の介入も辞さないのを考慮に入れる。遥を不快にさせないと言ったって、それで死なせたら最悪だ。あいつが死んだって関係ないや、とはさすがに思えない。そのぐらいには、僕も遥に情がある。
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