預かり物
「天ケ瀬」
金曜日の帰りのホームルーム前だった。チャイムが近いのもあって、クラスメイトは教室に集結し、午後のだるさを間近の帰宅で打ち消してにぎやかにしている。僕は緩い陽が射す教卓で、友達数人と雑談していた。
声をかけられて振り返ると、英語教師なのに体育教師みたいにジャージを着た、担任の古賀がいた。
古賀は僕に校名の入った大きい茶封筒をさしだしてくる。
「ラブレター」
すかさず茶化した元村の頭を小突き、「今週は月城のところに行くんだよな」と古賀は小さい僕を見おろす。
「あ、はい。行きます。渡すんですね」
僕は教壇を下り、封筒を受け取ると、封のされていない中身を覗いた。藁半紙のにおいがする。二週間ぶんのもろもろのプリントだ。勉強関連はもちろん、連絡や通信もごちゃまぜで、けっこう重みがある。
隣の崔坂も覗いてきて、「それ、全部勉強?」とヒイた顔になる。
「おしらせとかも入ってますよね」
「ああ。で、月城はどうなんだ」
「どう」
「終了式くらい来ないのか」
「来ないと思います」
先生は参った息をつき、窓際一番後ろの空席に目をやる。僕もカーテンに陰るその席を見、一学期しか来なかったな、と突拍子のない親友を想う。
「来週には担任じゃなくなってんだしさ、いいじゃん。気にすんなよ」
陽射しで茶髪を金色に透かす深谷は、教師にもタメ口を使う。「そう言ってもな」と深谷の言葉遣いはあきらめている古賀は、情けないように眉を寄せる。
「何にもしてやれなかった」
「先生が何もしなくても、月城には天ケ瀬がいますって」
「そうそう。へこんでるわけじゃないんだろ」
「引きこもってれば元気だよ」
「複雑だな」
「二年になっても、来そうにないか」
「たぶん。大丈夫ですよ。あいつは学校に来なきゃ普通です」
みんなげらげらとして、古賀も仕方なさそうに納得した。「いとこの子も来たそうだな」と古賀は表情を教師らしい締まったものに切り替え、僕は改めてうなずく。
「どんな感じだ?」
「むずかしそうです。次元が違う感じで」
「しゃべんないんだよなー」
「うん。──学校とか合いそうにないです。親は合わなければ無理させないって言ってました」
「そうか。そうだな。彼はちょっと特殊だしな。よし、じゃあもうチャイムが鳴るぞ」
「はあい」と僕たちがそれぞれの席に散らばると、ちょうどチャイムが鳴った。
今日の日直が、いやいやといった感じで教卓の前に出る。僕は日直となった男女が睦まじそうに並ぶのを見たことがない。嫌悪のような、ばつの悪い空気をあいだに置き、極力離れている。
僕も女の子を嫌いだと思うのはなくなっても、話したり咲ったりすることはできない。高校生くらいになったら変わるのだろうか。
ホームルームが終わると、起立、礼、を済まして解散になった。
ひと足先に終業したクラスの生徒で、廊下は混雑していた。封筒をしまったかばんを引きずる僕は、さっきの面々と制服の波を縫って靴箱に降りる。
校門でふたりと別れ、団地への脇道でひとりと別れ、僕はひとりで住宅街への通りを進む。
つぼみで桃色がかった桜の枝越しに天を仰ぐと、太陽は照っていても、雲が多くて水色も陰っている。雨が降るだろうか。意識すると空気が冷たく、雨の前の土っぽい匂いがする。
明日も学校なのに、と内心ぶつぶつして、大通りを横切ると制服の集団がぐっと減る。急に蒼ざめた天気のせいか、よくこの通りを駆けまわっている子供もいない。空の感触も手伝って僕は早足になり、あたりが不穏に灰色になりはじめた頃、家に着いた。
きしめく門を開け、郵便受けの夕刊と郵便物を取った。庭の芝生に立つ物干し竿の洗濯物が、水気を含む強めの風に揺れている。
くすんでいく空に目を細めて、門から玄関への敷石を抜けると、「ただいま」と玄関のドアを引いた。
荷物をどさっと下ろしても、返事がない。首をかたむけて足元を向くと、遥の大きい黒いスニーカーはあっても、かあさんの靴がなかった。
考えれば、こんな天気ならかあさんはすぐ洗濯物を取りこむ。買い物だろうか。かばんは置いて、新聞と郵便物を持ってリビングを覗くと、わずかに臆した。
そこには、黒いフリーツの上着を着た遥がいた。明かりをつけてテレビの前に座り、振り向いて不信感のこもった灰色の目を向けてくる。
僕は手の中の新聞と郵便物を持ち直し、「かあさんは?」と意識して明るく訊いた。遥は再放送らしきドラマの女優の台詞に紛れる低い声で、「買い物」と小さく答える。「……そっか」と僕は躊躇いそうなのを殺して、絨毯に踏みこみ、遥に歩み寄ってテレビの前に夕刊を放る。
居心地の悪さに、動作が引き攣りそうな僕は無視し、遥はテレビに向き直る。
そういえば、遥が身にまとうものって、ほとんど黒だ。
「めずらしい、ね」
ぎこちなく言うと、遥は最低限の義理といった感じで、こちらを一視する。
「部屋じゃなくて、ここにいるの」
「おばさんが、雨が降ったら洗濯物取りこんでくれって」
「あ、そっか。なら、取りこんだほうがいいんじゃない?」
「あんたが帰ってきたら、あんたにそう言えって」
反射的にどう返すのか迷うと、遥は窮屈そうに立ち上がって、テレビを消す。僕と遥は、身長に三センチくらい差がある。
「おばさんは、俺なんかに家族の服には触ってほしくないんだろ」
無彩色な平坦な口調で言い、遥は僕の右脇をすりぬけて、リビングを出ていった。ぱちぱち、と消されたテレビが静電気の音を立て、その細かな音にしめやかな音が混じる。
レース越しの窓の向こうには、雨粒がちらついていた。僕は郵便物も放ると、ダイニングのガラス戸から庭に降りて、本降りになる前に洗濯物をかきあつめた。
十六時過ぎにかあさんが帰ってくると、雨は本格的になり、僕は湿った制服を自分の部屋の窓辺に吊りさげた。ガラスに雨が打ちつけ、見渡せる通りの景色を滲ませている。季節の変わりめの雨だろう。
雨が降ると冷えこみ、僕は暖房を入れて、迷彩柄のベストに腕を通した。ヘッドホンで音楽を聴きながら、宿題を片づけ、温かい飲み物を作りに一階に降りる。
ホワイトシチューを煮こむかあさんに、遥の言葉──俺なんかに家族の服には触ってほしくない──を繰り返し、「何か言ったの?」と問うと、かあさんは当惑した面持ちになった。「そんなふうに聞こえたかしら」と心当たりはないようだった。まあ、おおかた遥の曲解か。
僕は砂糖を入れすぎた甘ったるいココアをすすり、古賀に遥について訊かれたのも話す。
「あいつは特殊だって言ってた」
「学校には、遥くんのこと伝わってるのよ」
「親が死んでるって」
「その親に何をされてたか。無神経にあつかわれたら困るでしょう」
「被害者あつかいしすぎるのもどうかと思うけどね」
シチューをかきまぜるかあさんは、「クールね」と意外そうに息子に目を向ける。「分かんないけど」と僕は照れ咲ってはぐらかす。
「気にされたほうがいいのかもしれないし。あ、希摘のことも訊かれた」
「今週、行くのよね」
「うん。プリントも渡されたし。日曜も雨かな」
「明日は雨って予報では言ってたわ。何なら、車で送るわよ」
「そのときはお願い。で、ごはんできるのいつ?」
「十九時くらいね。今日は週末でおとうさん遅いでしょうし、先に食べましょうか」
僕はこくんとして、「時間になったら降りてくる」と湯気を燻らせるココアを連れて部屋に帰った。土砂降りが響く暗い廊下で、遥の部屋のドアを見、特殊か、と思う。
そうなのだろうか。僕は遥とどうつきあえばいいかに悩んでいる。この際、遥ではなく、被害者とつきあうという視点に置き換えたら割り切れるのだろうか。被害者とつきあうのは簡単だ。ただ憐れんでいればいい。
でも正直、僕には遥は遥に過ぎない。虐待されて親に死なれて、僕の中にその当時の遥は存在せず、それを引きずって現在に持ちこまれても困惑しかできない。言動と傷口をつなぐ理解がないのだ。現在に食いこむ苦悩を共有するには、心を開いてもらえていない。
理解を放棄して闇雲に傷口をいたわるのが憐憫で、被害者あつかいだろう。そっちのが簡単ではあるかな、と廊下の寒気に急かされて部屋に逃げこんだ。
部屋は暖房で暖まっていた。脱いだベストをベッドに放る。マグカップをつくえに置くと、クローゼットの手前の車輪つき本棚を引っ張り出した。
ここに空の写真をおさめた本が並んでいる。ポストカードとしてちぎれる文庫から、画集ほどの大きさのものまで、さまざまな寸法の本にいろんな空が切り取られている。青空や夜空、夕暮れや朝焼け──写真集というのはけっこう高価で、それでもお金を貯めて買ったこの数十冊は、僕の宝物だ。
僕は世界中の夜明けを写した本を選び、絵本ぐらいのそれをつくえに広げると、雨音も忘れて空に見入った。
空の色の溶け合い方は、すごく不思議だ。絶対仲違いしそうな色が、中和の色を通してしっくり混和している。水色、桃色、橙、紫、白い金色、透明な光──繊細に絡みあわせて綺麗な色を映し、人工には真似できない精緻な色彩を奏でる。
僕は十歳の夏休みにこの家に暮らしはじめて、以前は団地に暮らしていた。最上階の四階で、夕暮れになると、ベランダに出て変化を織り重ねる空を眺めていた。もちろん、南中の水色を広げた光も、夜中のひっそりした闇も好きだ。
夜空が一番、自分をちっぽけに感じさせる。闇の向こうに、同じ闇を持った宇宙を感じるからだろうか。遠く突き抜けて、暗くて、きめ細かい風が流れて、あたりはしんとしている。
悩みを持つと、もやもやが全身に行き渡って頭がぱんぱんになるけど、そんなとき外に出て、空と自分を比較すると、大した悩みではない気がして冷静になれる。昔からそうだった。言葉や瞳を交わすわけではなくても、胸を軽やかにしてくれる空は、僕の立派な友達だった。
僕は、必要な笑顔や愛想で上辺の友人を作るのには事欠かなくても、じっくり心をさらしあう空のような友達は作れなかった。今は、希摘がいる。外の雨模様や、遥のことを思うと、憂鬱だ。でも、あさって希摘に会えるのを想うと、気分が晴れる。
二週間会っていない。どうしているだろう。状態が状態なだけに心配もあれ、まあ変わりないだろう。ココアで胃から全身に発熱を送り、いろいろ話聞いてもらわなきゃ、とページをめくり、異国の暁天に見蕩れて頬杖をついた。
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