逃げるしかできずに
希摘を訪ねた日曜日はけっこう晴れたのに、月曜日は空は灰色に陰り、下校途中には頬に雫も跳ねた。電線にたむろしていた鳥たちが、雨の気配に急いで逃げ出していく。
家も近いし、折りたたみ傘を出すのが面倒だった僕は、相変わらず肩をもぎそうなかばんを抱え、似たような家に囲まれた通りを駆け抜けて家に到着した。
庭にはためく洗濯ものを横目に、「ただいま」と鍵のかかっていない玄関のドアを開ける。足元を見ると、今朝にはなかった遥の黒いスニーカーがあった。帰ってきたのか、と靴を脱いでいると、「おかえりなさい」とかあさんが顔を出す。
「ただいま。遥、帰ってきたの」
「お昼前にね。制服じゃなかったし、学校にいたわけじゃ──」
「いなかったよ」
「……そう。それから、ずっとこもってるわ」
「それはいつもでしょ。そういや、雨降ってきたよ」
「え、ほんとに。洗濯物、干しっぱなしだわ」
かあさんは僕に謝って、ガラス戸から庭にまわるのかリビングに入っていく。僕は肩をすくめて、家にあがった。
遥はまだ、この家にいっさい帰ってこないというところには来ていない。だが、帰ってこない日もあるわけで、そんな日はどこに泊まっているのだろう。眠らずに街を徘徊か、仲間とたむろか、女の子とどこかに──
不透明な遥の生活を思うと、家庭の差異以前に、彼は自分と人種が違う気がした。荒んでるの似合ってるけどね、と遥の影のある秀麗を思い返しつつ、僕は二階に上がって制服を着替えた。
ヘッドホンで音楽を聴きながら宿題を終わらせた頃、外は霧雨に曇っていた。ヘッドホンとポータブルCDプレイヤーは脇に押しやって、僕は上体を倒してつくえに頬を当てる。十二星座をたどった卓上カレンダーに、あさってには七月なんだな、と気がつく。
遥が来たのは、三月の十三日の金曜日だった。彼と暮らしはじめて、三ヵ月半になる。
春先、僕は遥とうまくやっていけそうにないとは感じていた。見事に的中した。が、遥がここまで逸脱するとは思っていなかった。いったい、ここにやってきた遥の終局は何なのだろう。
遥は部屋にこもって、物音ひとつ立てなかった。いつもの引きこもりなら、隣の部屋にいる僕になら聞き取れる音は立てている。ベッドの乗り降り、クローゼットの開け閉め、足音、どんな言葉かは聞き取れなくても、稀にひとり言──
その夜、僕は夕食を食べたあと、配付された期末考査の予想問題を暗記していた。遥の部屋は、無人であるように何の音も立てない。気配も感じられないほど静かだ。いないのだろうか。いや、靴はあった。そこにいるのに、遥が部屋を無音に没するときは──
それが何なのかは僕は学習していて、そっと廊下に出て、遥の部屋が明かりをもらしているのを確認する。それから、かあさんに報告してお粥を作ってもらった。
ノックと断りを入れて、そろそろとドアを開けると、案の定、遥はベッドで死んでいた。ふとんをかぶり、頭をまくらに沈ませ、瞳も頬もぐったりと弛緩している。僕に一瞥くれた視線も、出ていけというトゲを発さない。
「お腹空いてない?」と僕は湯気を立てるたまご粥が乗ったお盆をしめした。
「昼から何にも食べてないんでしょ」
言いながら、覚醒剤をやっていると空腹にならないとかいう、あやふやな話を思いだす。もしや、今も鬱状態でなく、バッドトリップという奴なのだろうか。そのへんに無知で妄想だけは広げていると、遥は全身が荷物になったようなにぶい動作で起き上がる。
「た、食べる?」
「……ああ」
「えと、飲み物、お茶でよかったかな。お粥、ねぎ入ってるけど」
「食えりゃいい」
そうかな、と好き嫌いのある僕は思っても、遥は好き嫌いとか言っている場合ではない環境にいたのか。僕は、背中でいつぞやのこぶしの痕が残るドアを閉めると、今日は片づいてがらんとする室内を横切ってベッドサイドに近寄った。
だいぶ、遥の匂いや雰囲気が壁や空気に馴染んだ。けれど、いつこの部屋も放り出されることか──。窓を見ると、カーテンは閉まっている。
うつむく遥は、子供っぽく目をこすった。遥のまぶたは、泣いたように腫れぼったい。その下の無感情な目は、普段のすべて押し隠した冷めた感じとずいぶん違った。隠すより、むしろ剥き出しに感情の死体を映して、虚脱に腐っている。
髪や服には、くせや皺がいっぱいで、頬にはまくらの痕も残っていた。遥はふとんをなるべく平らにすると、僕がさしだしたお盆を膝の上に受け取った。
「食べ終わったら、廊下に出せる?」
白熱燈を映す銀のスプーンを取った遥は、もつれた前髪の隙間に僕を見る。
「ベッド降りるの嫌だったら、取りに来るよ」
「……ああ」
「じゃ、三十分ぐらいで取りに来るね。僕はいないほうがいいでしょ」
遥は答えず、スプーンに柔らかい匂いのお粥をすくった。訊かなきゃ分かんないのかってことですね、と僕は内心で毒づき、「じゃあね」と残すと部屋をあとにする。
薬のことを訊いておきたくても、どう切り出せばいいのか分からない。霧雨の気配がただよう暗い廊下を抜けて部屋に帰り、ベッドスタンドの時計を覗いてちょうど二十二時なのを確認する。どうせなので、二十二時半に目覚ましをかけておくと、僕はつくえに戻って数学の公式の応用のリズムを頭に組み込んだ。
遥の鬱状態は三日間続き、期末考査が始まった七月一日の夜に豹変した。急激に暴走に裏返ったのだ。
僕は部屋で、音楽を聴きながら歴史の年号をくだらない語呂合わせで憶えていた。前触れなく隣の部屋に何かたたきつける音がして、駄洒落じみた暗記に飽き飽きしていた僕は、びくっと身を打って、驚きに顰眉もほどいた。
何だ、と音楽を止めて遥の部屋のほうを向く。ヘッドホンを首に落としたところで、みしっときしめきまで大きく伝わる音が届いた。
僕は改めて、眉間に皺を刻む。また“来た”のか。外は雨こそ降っていなくても闇夜だ。鬱状態が続いていると思っていたけど──
藁半紙の予想問題をつくえに置き、その上にヘッドホンを置いた。また何かぶつける音がして、それは僕の部屋との境の壁への攻撃だったのか、ひときわ生々しくこちらをすくませた。
時刻は二十一時前で、かあさんもとうさんもいた。とうさんがいるときに遥が切れたのも初めてだ。椅子を降りようとしたとき、階段をのぼってくる音に廊下を横切る足音が続いた。ふたりぶんだ。
僕の部屋にもノックがあり、椅子を降りるとドアに駆け寄る。開いた隙間にいたのはかあさんで、とうさんが遥の部屋のドアをノックしていた。消えろ、ということかどうか、そのドアに何か投げつけた音が砕けて僕たちは顔を合わせる。
「遥くんは、ここのところ閉じこもってたんだよな」
とうさんが抑えた声で言い、僕とかあさんはうなずいた。
遥が切れるとき、これまでは首肯できる外因があった。今回は遥の神経が毛羽立つ理由が見当たらない。学校には来ていない、家ではこもっているだけ、外で仲間と何かあったのか、あるいは鬱状態の反動か──
しかし、考えれば遥は外因で切れるほうが、少ないのではないか。遥の問題は遥の中にある。僕がそのへんを言っていると、布でも引き裂いている音がして、「開けるぞ」ととうさんがドアノブを下ろした。
明かりのついた部屋は、まだ、引っくり返したほどには荒れ狂っていなかった。遥は床にべたりとうずくまり、はさみで切れ目を入れては服を引き裂いていた。手を止めた彼が、開かれたドアに向けた陰気にとがった眼は、真っ先に部屋に入ったとうさん、その後ろのかあさん、その隣にいた僕をたどる。そして、僕に行き着いた途端、燻ぶる陰気を剥いで強烈な憎悪を煮えたぎらせた。
何だ。僕。僕が何かしたというのか。
「遥くん──」
「失せろ!」
あの声だった。とうさんは遥のこの声を聞くのは初めてで、一瞬口ごもる。殺意を突き刺された僕は、自分がでしゃばれば悪化するかと引っこんでしまう。
「遅いんだよ、いまさら来るんだったらとっとと出ていけっ。お前らの顔なんか見たくないんだ、早く! とっとと出ていけよ、俺の目の前に出てくるな、もう、何でだよっ。聞こえないのか、出ていけって言ってるだろっ」
遥は手の中の服を投げつけ、だが、それはこちらに届かずにふわりと広がって床に落ちた。それにいらだった遥は、がつっとはさみを床に突き立て、茫然とする僕たちに今度は背後の乱れたベッドにあるまくらを投げつける。それはぶん投げた反動でこちらに届いたものの、どんっと壁に当たって床にずりおちた。
「お前らは口先ばっかりじゃないかっ。こっちを騙すしかできないんだ。初めしか何にもしないのか。肝心なときはほっといて、終わったあとに来るんだ。そんなんだったら、最初から最後まで無視されてたほうがマシだ。お前らは俺の親ぐらい汚ねえよっ」
遥は腕を振り上げて、はさみをこちらに投げつけた。はっとしたとうさんが、とっさにドアを引いて僕とかあさんをかばう。はさみはドアに体当たりし、がしゃんっと床に落ちる。とうさんはドアを開け直すと、遥のかたわらに駆け寄った。
「ものに当たるのはやめるんだ」
とうさんは遥の手に残っていた服を取り上げ、すると、遥は深く突き刺すためにぐっと剣をこちらに引くような眼をとうさんに向けた。ベッドの毛布を引っ張りこみ、かぶせるようにそれをとうさんに浴びせると強く床に惜し退ける。
「そんなん知るかよ、お前に言われたくないんだよっ。ものに当たらなくてどうするんだ。お前の息子を殺していいのか。あんな奴、俺はあいつを殺したいんだよっ。何なんだよあいつは、全部あいつのせいだっ。あいつがいなければ、こんなのせずに済んだのに、お前は俺の父親と一緒だな、俺にあいつを殺すのを許したんだ、お前は自分の子供を殺すんだっ。俺に殺させるんだ。ものを殺せないなら、あいつをぶっ殺してやるっ」
遥は僕を視線で斬首するように睨み、僕はわけが分からないまま後退って壁に行き当たった。とうさんが止める前に、遥はこちらに疾走してきて、あいだにいたかあさんが反射的にドアを閉めた。遥は野獣じみた人間ではない声を上げてドアを殴り、かあさんは僕を振り向くと「危ないわ」と早口に言った。
「え」
「いったん家を出て。早く」
「そんな、だけど──」
「いいからっ」
とまどうまま、僕は震えかけて絡みそうな脚で、廊下を抜けて一階に降りた。本気で殺されそうな気がした。二階のものすごい暴力の音に、僕は追い立てられるようにスニーカーを履いて家を出た。
【第四十二章へ】