殺意
外は闇にひんやりとして、湿った草と土の匂いに虫の声が響いていた。濃紺の空にまだらにかかる雲に月は隠れ、近所の家の明かりと、電柱についた白い街燈が頼りだ。
門扉への敷石の上で、二階建ての家を振り返ると、外からでも不穏な音が聞こえた。僕は理不尽ながらも、罪悪感に胸を傷つけ、きしむ門を抜けると近所をとぼとぼ彷徨う。
遥の猛烈に逆巻いた眼がよぎった。彼の殺意は本物だった。何でだろう。僕は遥に何かしただろうか。今日、僕は昼前に家に帰ってきて、遥と顔を合わせなかった。何もしなかったほどなのだ。
勉強で暗記をぶつぶつしていたのが耳に障ったのか。鬱状態のとき、食事をお節介したのが気に障ったのか。だとしても、今日は僕は遥に食事は持っていかなかった。勉強がいそがしかったので、かあさんが持っていったのだ。かあさんが持っていったのが気に障ったのなら、かあさんを罵るだろうし──
それでも、何かしたんだろうけどなあと首を捻り、妙にみじめさをかきたてられて虚ろな息をつく。
遥が落ち着くまで、僕はどこにいよう。あれを落ち着かせるのが手軽に済むとは思えない。医者も来るかもしれない。夜にふらふらしていて、男だからと安心できないご時世だ。どうしようかな、と周囲を見まわす。
商店街の裏通りだった。僕には夜中に街に出歩く習慣はない。夜の街なんて、野暮ったい感覚だが、怖い。希摘のとこ行こうかなあ、と思っても、あの生活が不規則な親友が、今起きているか定かではない。どうしようと答えを出せずにいるうち、希摘を訪ねるときいつも渡る石橋にたどりついていた。
暗闇に細い水音が聴こえ、湿っぽい臭いがしていた。この短い橋の縁取りは手すりでなく、かかとの高さの段で、二メートルも置かずに川におりられる。
僕が幼かった頃には、めだかを追いかける小学生もいた。今は見かけない。子供が川遊びをしなくなった以前に、川が濁ってしまったのだ。水面に虹色のマーブル模様がゆがみ、めっきり減った魚の死骸が浮かんでいることもある。
川は橋をくぐった直後に光を切断され、商店街の地下へと続き、ずっと向こうで他流と落ちあって、また光を取り戻す。住宅街に囲まれる以前は、海に流れつくまで、光のもとでせせらいでいたのだろう。かがみこんで目を凝らすと、芳香とは言えない湿った臭いが強くなり、水面の揺らめきが暗がりにかすかに見取れた。
遥は水の中で死に近づいた。僕たちに彼をあつかう資格はあるのだろうか。このまま行けば、非行を飛び越して彼を再び水中を追いこんでしまうのではないか。
それとも、僕ひとりが悪いのだろうか。僕さえいなければ、遥はここに順応できていたのか。あの罵倒はそんな感じだった。僕がいなければ──そんなの言われたってさ、と泣きそうになりつつ、虚勢で負け惜しみを吐くように思う。
遥は僕を殺すと言った。やられたくなかったら、やるしかないような環境に彼はいた。僕は遥を殺しているのだろうか。
鬱々と遥に対する自信を失くし、僕は立ち上がってゆっくり川沿いをのぼっていった。家を出たときは、水気で涼しく感じられた空気が、風をはらまないので少し蒸しているのに気づく。周囲の家の庭にいるのか、秋のようには澄んでいない虫の声が耳に障った。
試験中なんだけどな、と雲が流れる天を仰ぎ、予想問題用紙でも持ってこればよかったかと後悔する。仕方ないので、暗記していた年号を反芻してみた。いくつか思い出せないものがあって、何だったか意地になって考えこんでいるうち、川沿いの通りに面した公園に着いていた。
いつだか、遥のかばんを開いた公園だ。怪しい影がないか確認し、そこに踏みこんだ僕は、時計で二十二時をまわったところなのを知った。
結局、街燈以外は闇に包まれたその公園で、にぶい時間をつぶした。ブランコに座って、思索をふらつかせ、次第に眠気に襲われてくる。時刻は二十三時だったけど、何せ昨日は夜更けまで勉強していた。こんなとこで寝たらやばい、と思っても、頭がぐらぐらして、まぶたがずっしりくっつきそうになる。
思考力も失い、あくびを噛んで街燈を見上げて無理に目を開いていると、不意に名前を呼ばれて、僕は寝ぼけた動作で顔を上げた。
「こんなところにいたの」
安堵のこもった声で駆け寄ってきたのは、かあさんだった。間の抜けた返事をした僕は、目をこすってブランコを立ち上がる。
「大丈夫だった?」
「……何とかね。遥、落ち着いたの?」
言いながらあくびをすると、かあさんは街燈に愁眉を映した。
「ここには来てないのね」
「え、来るわけないじゃん」
「そう」
「どうかしたの? 医者呼んだ?」
「呼ぼうとしたわ。そしたら、遥くん、飛び出しちゃって」
「え」
「悠芽を探しにいったのか、それは分からなくても──無事だったならよかったわ」
「どこ行ったの?」
「分からないわ。おかあさんたちはこれから探すけど、悠芽は帰って休みなさい」
「勉強しなきゃ」
「今回は無理しなくていいわよ。何だったら、おかあさんが先生に説明するわ」
「そう」と僕はまたあくびをして、「ほら」とかあさんにうながされるまま歩き出した。
公園を抜け、川沿いをかあさんと並んでくだっていく。明かりの灯る家が減って、道は暗くなり、虫の声以外は閑静で響く足音が気になった。
「医者、来るの?」
「飛び出されてまで、嫌がられたのに」
「そう。そうだね」
「悠芽、遥くんにあんな、殺すなんて言われる心当たりはある?」
「ないよ。ずっと考えてた。昨日とおととい、ごはん持っていったのが癪に障ったのかって、そのぐらい」
「……そう」
「僕が何かしたんだとは思う。ごめんね。遥になってみないと分かんない、僕にしたら些細なことなんだろうね」
「謝らなくてもいいのよ」とかあさんは僕の頭を一度撫で、僕は弱く笑んで闇に吐息をついた。
家に着くと、確かに遥の黒いスニーカーがなかった。いったん帰ってきたとうさんにも僕は無事を確認され、休むように言われる。眠かったし、睡魔に罪悪感を飲みこんでほしかった僕は、素直に従って、勉強も放棄するとベッドにもぐりこんだ。
そして、その夜を境に、遥はここに帰ってこなかった。
あの夜、とうさんとかあさんは思い当たるところをひとしきり探し、自力をあきらめると警察や病院に連絡した。ただの家出ならまともに取り合わない警察も、精神科などが関わった届出なら危懼があるのか、家に事情聴取しにきたりした。けれど、遥の消息はつかめず、無論学校にも顔を出さず、遥は失踪同然となってしまった。
遥が帰ってこないほど、僕は自罰的な罪悪感に駆られ、期末試験も上の空に過ぎていった。遥をここまで暴発させるほど、自分が何をしたのかはいまだに分からない。でも、遥のあのときの眼や言葉が、僕のせいだとははっきり証明している。
僕は遥に何をしたのだろう。特定の行動でなく、三ヵ月半で降り積もった嫌悪が爆発したのか。それもありうる。
僕は、警察より医者に心当たりを問いただされた。とりあえず、遥が鬱状態になった頃からをたどってみたけど、遥をあんなに切れさせる要因は見つからなかったし、医者も見つけなかった。とはいえ、僕が悪かったのは事実で、医者も警察も僕をいかがわしく見て、僕は引きこもりみたいになってしまった。
家では遥の話ばかりで、僕は学校で息を抜くようになった。遥が来たばかりの頃、僕は学校を息抜きの場所だと思っていた。いつのまにか、それはなくなり、家に遥がいるのを許していた。馴れ馴れしかったのだろうか。唾を吐かれたほうがいいと言われながら、僕はけっこう遥に世話を焼いていた。それがいけなかったのかもしれない。
僕と遥は、家族ではないのだ。少なくとも、遥にとっては──
「くっらーい」と七月の席替えで前後になった成海に右頬をつねられ、つくえにべったりしていた僕は陰鬱な息と身を起こす。
「何ー」
「四時間目、終わったよ」
「えー、嘘。いつ?」
「今。はいはい、お昼ごはん食べましょ」
「食欲ない……」
「じゃ、俺に背伸びそうなおかず分けてね。──あ、こいつどうかしてよ」
弁当を連れて、桐越と日暮も僕の席に寄ってくる。成海がぐったりした僕をしめすと、「鬱ですねえ」と日暮はにやにやした。
「死体みたい」
「いとこが行方不明になったんだろ。まだ見つかんないのか」
「……うん。明日で一週間だよ」
「いまどき家出なんてねえ。誰だってするでしょ」
「お前したことあるのか」と日暮が問うと、「あるよ」と成海は得意そうに答える。
「六年のときにね、髪染めたら親にボロクソ言われてさ。二日で友達の家で捕獲されたけど」
「したことある?」と日暮は桐越を向き、「思ったことなら」と桐越は僕のかばんを開けて、弁当と水筒を取り出す。
「俺は家出以前に、バンド活動で外泊しまくりだしなあ」
「ほら、弁当。行こうぜ」
桐越はつぶれた僕の頭に弁当箱を置き、「死にそう」と僕は滅入ってうめく。
「あんな奴のために死ぬなよ」
「そうそう。だいたいね、そんな家出のひとつやふたつ、かわいらしい反抗だよ」
「僕のせいなのに」
「そんなんは開き直っとけばいいの。はい、行くよっ」
成海は華奢な腕で僕を引っ張り、残りのふたりも重たい僕を席から引きずりだした。僕は落っこちかけた頭の弁当を手に取り、彼らに甘えすぎる身分ではないのを自覚して、のろのろと教室を出る。
外に出て空を感じるのはいいことだろうか。月曜日の今日は雲もない快晴だった。昼食どきのにぎやかな廊下や階段を抜け、僕たちは上履きのまま、久しぶりのクラブハウスの前にたむろする。
安アパートもどきが建つここは今日も穴場で、雑音もなく日陰で涼しかった。頭上には真っ青に空が広がり、光をみなぎらせる太陽は、地上や肌を焦がして空中をむっとさせている。アスファルトなんて焦げつきそうに熱いけど、ここはずっと日陰なので、コンクリートはしんと冷たい。
開かれたプールのカルキの臭いが背後にただようのがやや難でも、悪臭と呼ぶほどひどいものでもなかった。右手の裏門への草地の緑も、水分には飽きていたのか、そそぐ日光に生き生きと鮮やかにしている。僕はサッカーゴールに遥がもたれていたのを思い出し、また沈みかけた心を、すっきりした青を見上げて癒す。それから、膝にかあさん手製の弁当を開いた。
遥が帰ってきたとき、どんな顔をしたらいいのだろう。そんな不安は、このまま遥が帰ってこなかったらどうしよう、という恐怖に次第にうつろっている。
そちらのほうが、後味が悪くて怖い。もしこのまま遥が帰ってこなかったら。万一、死体となって帰ってきたら──事態はそんな最悪も切り捨てきれない状況なのだ。そして、そんなことになれば、すべて僕のせいになる。
学校は桐越たちが構ってくれてマシでも、家は遥にかかりっきりで、僕はため息で陰るような内閉状態に塞いでいった。
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