紅の悪夢
寝ようとした。しかし、数分後には起き上がり、暗闇に浮かぶドアを睨んでしまっていた。
僕の部屋の窓とガラス戸は、表の通りに面している。僕は音を無音に吸いこませてベッドを降りて、ガラス戸のカーテンをめくった。鍵を開けてガラス戸をすべらせると、だるい空気に肌を舐められる。日中にたっぷり熱されたアスファルトが、熱を蒸発させているのだろう。それでも、室内でこもった空気より軽かった。
サンダルに足をさしこみ、僕はベランダに降りる。汚れた手すりに身を乗り出し、電柱の街燈と月明かりに物静かな通りを見渡した。右にも左にも人影はなく、足音もない。風が寝起きの寝返りのようににぶく流れ、消えいりそうに芝生の青い匂いがした。
行ってしまったのか、一階で食べ物でもあさっているだけか。後者なら、迷わず放っておくのだけど──
と、ふと左腕に止まる蚊に気づいて悲鳴を上げかけて、慌てて口は抑えて腕をはらうと、僕は部屋に逃げこんだ。
そっと鍵を締めて、カーテンの隙間も埋め、僕はベッドスタンドの明かりをつけた。ベッドサイドに腰かけ、じっとりと浮く汗の中、空耳だったのかと考える。
だが、空耳を聞くほど僕は寝ぼけていない。両親は何も聞きつけなかったようだ。しかし、大人というのは疲れや酒が入ると、ときに驚異的な爆睡をする。
僕はベッドを立ち上がった。このまま寝るのは、気になって神経に悪い。様子を覗き、それで放っておくかどうか決めよう。もしおかしな行動を取られ、その責任を僕に押しつけられたら、最悪だ。響く搏動以外の音は抑えて、僕は部屋を出た。
生温い廊下は闇に包まれ、階段の脇の窓だけが月明かりにほのかに明るかった。物音はなく、いろんなものが静止して、眠りについている。
僕は生唾を飲み、胸に雑音を抱えて廊下を階段へと抜けた。手すりで下を窺っても、一階は真っ暗で静かだ。長年住んでいるおかげで、階段は月明かりでじゅうぶん安全に降りることができた。
一階に着くと、階段から見て正面奥に玄関がある。右にはリビングや和室がある廊下が伸びている。その廊下を向いた僕は、目を開いた。廊下突き当たりには、ダイニングへのドアがあり、その手前に洗面所のドアがあるのだけど、その隙間が橙色の明かりをもらしていたのだ。
シャワーを浴びているのか。が、それらしい水音はしない。予測がつかず、しばし躊躇したけれど、僕は深呼吸で肺を入れ替えると、慎重なさし足で廊下を進んだ。
バスルームからは水音どころか、何の音もしない。とうさんかかあさんの消し忘れだろうか。だとしたら、消しておいていいだろう。消し忘れかと思った、と言い訳を作ると、僕はゆっくりドアを押し開けた。
正面に、浴室のすりガラスの戸がある。右には洗面所がある。明かりのつかないバスルームを見て、何も考えずにふっと洗面所を向いた僕は、途端、突き刺さる心臓に穿たれて真っ白になった。
その真っ白に飛び散ったのは、深紅だった。白い陶器の洗面台を染める鮮紅、側面を伝い落ちる茜色、床に広がっていくどす黒い赤──ついで、生臭い、なのに金属的な匂いがした。
汗ばんでいた肌が、すうっと氷に染まり、腐っていくような震えが膝から生まれて、筋肉がほどける。心臓が息を吹き返し、どんどん恐慌に陥って、呼吸を痙攣させた。脳内が現実の拒絶に停止する。はじけて受容したら、悲鳴が上がりそうだ。
そこでは、遥が洗面台に頭を突っ込み、ぐったり床に膝をついて大量の血にまみれていた。
「遥っ」
僕は遥に駆け寄って、床に飛散する血も気にせず、ひざまずいた。遥はうめき声をもらす。生きていることに、僕はいったん安堵する。
でも、すごい血だ。どこの血だろう。何でこんな──。
見ると、陶器に放られる遥の手が眉剃り用のカミソリを握っていた。洗面台の棚が半開きだ。かあさんのものだろうか。僕は立ち上がって遥の足元も覗き、視覚と嗅覚で吐き気をもよおした。
そこは黒いといっていいほど真っ赤だった。壁も床も血に汚れ、長袖をめくられた遥の腕は、血みどろで、火傷の痕も欺いて洗面台に横たわっている。手首がいまだ血に血を吐き出し続け、洗面台、床、垂れる遥の首を真っ赤に染めている。
ぱっくりと裂けたその傷口は、独立して生きているように血を吐いていた。剥き出しになった脈打ちが、作り物じみて真っ赤な液体をどくんと押し出している。
このあいだ、遥がフォークでつけた傷とは別物だ。あふれる勢いに煮え立った熱湯のように血はあぶくを立て、剥かれて凹凸に浮きでた白い肉をぐつぐつとおおっている。
このあいだのフォークの傷は、その傷口をおおう血のねばりが流血をせきとめていた。今、目の前の流出には、そんな自己再生はない。
生きているからこそ壊れていく傷だ。切断された血管が表面化し、傷にかぶさろうとするねばつきを強い脈拍が突き破る。心臓が根気よく動いてめぐらせているゆえに、血はどくどくとあふれていく。
死なない限り、止まらない。そこには死があった。放っておけば間違いなく死につながる。
その傷口は、死へ突き進むため、生命から分離して息づいていた。
「何で……」
低い息切れにまぎれてつぶやき、すぐ右手の洗濯済みのタオルが詰まれたラックを手探りした。毒々しい鮮血が、血管の断面から迷い出て、空気に犯されては黒血に死んでいく。何枚かを一気につかみ、僕は遥の背後と洗濯機のあいだにまわるとその傷口にタオルを押し当てた。
「ここまでするほど、僕たちが嫌なの?」
腋に腕をさしこむと、虚脱する遥を洗面台から引きずりおろした。遥の指先がぴくんとして、かみそりが血まみれの洗面台に弱い音を立てて落ちる。
僕は遥を赤い床に横たわらせ、立ちのぼる生き血の匂いにせりあげる吐き気をどうにか飲みこんだ。遥の少しこけた頬には血がべっとりついて、前髪も血に湿っている。僕はその前髪をほどき、新しいタオルを取って頬の血をぬぐった。
手首のタオルはすでに真っ赤に身を染めている。僕はべったり重くなったタオルを床に放ると、今度はバスタオルを取って傷口にあてた。
「遥……」
遥は薄目を開けた。口がかすかに開き、けれど、おののく呼吸しかもれない。ひどい生血の匂いとおぞましい深紅の仲で、僕はよく分からないまま泣けてきた。
ぜんぜん分からなかった。どうして。何で。なぜ僕は、ここまで遥を追いこむしかできないのだろう。彼の心に何もできないのは分かっていた。でも、何もこんな──
遥に首を絞められたときみたいに喉が締まり、熱くなった瞳から雫が落ちる。それは遥の雑に血をぬぐわれた頬に落ち、遥は驚いたようにもう少し目を開いた。
「ごめん」
僕は目をこすり、遥の頬に落ちた涙もぬぐった。
「……ごめんね。僕が悪いんだ」
バスタオルも一気に血を吸いこみ、どろどろに赤くなる。
「遥が死ぬことないんだ。僕のほうが消えればいいのに」
遥の黒い瞳は、僕を見つめた。僕はまたこぼれた涙をぬぐい、鼻をすする。たくさん浮かぶ言葉はあっても、気持ちが追いつかなくて言えない。「ごめん」とそれしか言えなくて繰り返し、僕はタオルを取ってバスタオルははがずに傷に重ねた。
「ごめんね。……ごめん」
少し呼吸を上げる遥は、何も言わなかった。瞳も無言だった。けれど、いつもの敵意もなかった。あの虚脱もなかった。立ちすくむように、涙をこぼして謝る僕をじっと見ている。
僕の謝罪を受容も拒絶も、バカにもしない。僕と同じぐらい、どうしたらいいか分からないように見つめていた。僕は初めて遥の瞳を見つめ、「ごめん」とやはり自分の何が悪かったかは分からないままつぶやいた。
遥の血は止まらなかった。本気で死ぬかもしれなくて、僕はやっと救急車や両親を思い出す。僕は涙を拭くと、「とうさんたち呼んでくる」ともう一枚、遥の手首にタオルをかぶせた。
「止めないと死んじゃうよ」
僕が血に濡れるまま立ち上がりかけたとき、「俺なんか死んだほうがいい」ともろい声が鼓膜をかすった。
僕は遥を見返る。遥は瞳を痛切にして、僕を見つめ、喉を引き攣れさせながら言った。
「俺なんか、……死ねばいいんだ」
「……そんなことない」
「死ねばいいんだ。誰にそんなの違うって言われても、」
傷ついた手首のわななきに、遥は眉をゆがめて、いったん言葉を切る。
「言われても、信じられないよ。俺は親にそう言われて育ったんだ。お前なんか、……生まれなきゃよかったって。毎日、いつも引っぱたかれながら、お前さえいなければ、って──」
手首の傷と心の傷のとめどない血に、遥の瞳が苦痛にひずんだ。僕は再び遥の脇にひざまずき、「生きてていいよ」と傷に縛られる遥に呼びかける。
「『生まれなきゃよかった』なんて、そんなの言うなら、その人たちは遥の親じゃないよ。信じて言うこと聞く必要ない」
血とは対照的に澄んだ液体にゆがむ遥の瞳に、僕が震えながら映る。
「遥が生きたいと思うなら、生きていいんだ。僕も、僕の親も、遥に死んでほしいなんて思ってないよ」
「嘘だ」
「思ってないよ。うまく遥を分かってあげられてはないけど」
「じゃあ、何であんなこと言うんだよ。人を傷つけて奪った金なんかいけないって……俺にはあの金が必要だったんだ。何も食べてなかったし、あったかいところで眠りたかったし、あの金がないと──」
涙をこぼす遥に、刹那とまどっても、とうさんが数時間前に言った言葉だろうと独断する。
「分かってるよ。とうさんだって、それは分かってると思う。でも──」
「人を傷つけるぐらいなら、俺に死ねっていったんだ。だから死んでやるんだ。ここも同じだ。俺に死ねって、」
「そういうわけじゃ──ごめん。そうだよね。元はといえば、僕のせいなんだよね。僕たちが遥を追いつめなかったら、遥はそんなのする必要なかった。追いつめた僕たちに、そんなの言われたくないよね。ごめん」
昂ぶりかけた遥の息遣いが、僕の言葉にぎこちなくおさまる。しかし、残った息遣いも荒い。傷口が痛んでいるのだ。タオルはいまだ飽和するほど吸血している。
僕のほうが恐怖に狼狽え、「やばいよ」と今すぐ救急車を呼びに立ち上がりたくなる。なのに膝はがくがくで、「明日医者も来るし」といとけなく泣きそうな声で遥が引き止めもする。
「医者?」
「ここに来たら、あいつらとは話さずにすむと思ってたのに」
「遥がそう言えば、あの人たちは来ないよ」
「来るんだ。ずっとそうだった。何であんな奴らに寄りかからなきゃいけないんだ。あいつらに頼らなきゃ生きていけないなら、死んだほうがマシだ」
「僕も近づいてこないように言うよ。とうさんたちだって──」
「嘘だっ。お前らは俺をあいつらに押しつけてばっかりだ。すぐあいつらを呼ぼうとするんだ。お前らは嘘ばっかりだ。もう嫌なんだ。死にたい。死んだほうがいい。死んだほうがマシだ。俺なんか、どうせあいつらの言う通りなんだっ」
遥は急に身を起こすと、左手首を右手で作ったこぶしで殴りつけようとした。僕は遥の右腕に取りついた。遥は僕を振り落とそうとし、けれど僕は、全身に力を張って遥の右手と左手を引き離す。しかし、遥は右腕の力を抜くと、左手を床にたたきつけはじめた。
「バカ、やめろよっ」
僕は遥の左腕をつかみ、すると、ひねった筋肉に傷の痛みが燃えあがったのか、遥はねじれた声を上げた。けれど、それでも左腕を振りまわして、出血をあおろうとする。僕は飛び散る血に手や頬を汚しながら、ほとんど遥の軆に乗るようなかたちで彼の自殺的な自虐を止める。
「何で分かんないんだよっ。お前に死んでほしかったら、こんな血まみれになってまで助けるわけないだろ、僕はお前に死んでほしくないんだよっ」
「嘘だっ」
「嘘じゃないっ。いい加減にしろよ、誰もお前に死んでほしいなんて思ってないっ。僕たちはただ──」
ほとんど頭が絡まない、心のままの言葉を、突如甲高い悲鳴が引き裂いた。
びくっと顔を上げると、かあさんととうさんだった。「何やってるんだっ」ととうさんは遥から僕を引き離し、真っ赤に染まった壁や床やタオルに目を開く。「何があったの」とかあさんはとうさんに放り出された僕の脇にしゃがむ。
手足を血にぬめらせる僕は遥を見つめた。遥も僕を見て、唇を噛むと首を垂れる。
「何でこんなこと……」
かあさんはショックに泣き出してしまい、僕は振りまわすのを止めたとき手にべったりとした遥の血を見下ろした。とうさんはとっさに、僕が遥を襲ったのかとでも見たようだが、洗面台のカミソリとタオルにのぞけた遥の手首の傷に、その判断は即座に改める。
とうさんは動顛している証拠にかあさんを名前で呼び、救急車を呼ぶよう命じた。かあさんは泣きながらも壁に手をついて立ち上がり、洗面所を駆け出していく。僕は脱力して壁にもたれこみ、胸が痛むほどの深い吐息を吐いた。
すると、光景が知覚された。そこは、入ったときより深紅に染まっていた。床も、壁も、洗面台も、洗濯機も、遥も、僕も──血の匂いにむせかえりそうで、今すぐ胃をからっぽにしたくなった。
遥に荒い息遣いにうめきがもつれる。とうさんの呼びかけには応じていない。僕も頭がぐらぐらして、このままめまいに取りこまれて意識を失いたかった。
疲労感に骨が分解され、呼吸がすさんで口内は酸っぱい。寒気と熱が綯い混ぜになった奇妙な感覚が全身に蔓延し、鼓動や震駭が死んでいくみたいに虚ろにおさまっていく。遥も瞳を濁らせて虚脱し、洗面台にもたれてすでに精神は死なせていた。
心身に感電を受けて朦朧とした僕は、そのあとの記憶をかすんだ瞳のように漠然とさせている。遥が連れ出されて、僕も連れ出されて、一応、僕だけ詰問される差別はなくベッドに休まされた。消毒液のにおいで、そこが病院だとかろうじて理解した。
カーテンが引かれて、ベッドのほんの周りしか窺えなくても、個室ではないのは気配のざわめきで分かった。かあさんが左のベッドサイドに伏せって眠っている。とうさんはいない。遥のほうにいるのだろうか。
僕はパジャマのままだったが、誰かによって手足は綺麗されていた。ベッドに沈み、いつもと違う天井に朝陽らしき光が射しこんでいるのを見つめる。かあさんの寝息と鳥の声の静けさに、贅肉のように全身が重い。僕はそれに引きずられてまぶたをおろすと、何も考えず、暗紅の悪夢にひりつく心を深い眠りに逃げこませた。
【第四十五章へ】