野生の風色-45

赤をたどって

 僕の入院は一日だったけど、元いた精神病院に移された遥は、一週間入院することになった。
 精神科医たちは、無理に僕らの家に帰らなくていいと提案したそうだが、遥が帰ると言ったらしい。帰らなければ、遥の行き先は病院だろう。あのとき遥は、医者と接さずに済むと思って僕の家に来たと言っていた。
 遥の治療に役立てるため、僕もカウンセリングを受けた。とはいえ、内容はあの夜の光景をたどるのみで、平面的だった。どうせ、精神科医たちが知りたいのは遥の心情で、僕がそのときどう思ったかなど、どうでもいいだろう。
 それに、遥の失踪中は彼の傷に傷をつけたと責め立てる目をしたくせに、今回は自殺の制止を褒めるような彼らに、僕はすっかり不信感を募らせていた。彼らに心を打ち明けるなど冗談ではない。僕のはけ口になったのは、今回も一風変わったあの親友だった。
 蝉も鳴きはじめた晴天の日曜日、僕はデニムのリュックを連れて、自転車で希摘の家を訪ねた。両親は僕の精神状態を気遣ってなるべく休んでおくのを諭していても、希摘に会いにいくのは勧めてくれた。両親は、まだ帰っていない遥の様子を見にいくそうだ。
 目を細めて仰ぐ空は、すっかり夏だ。外なのに密封されたように蒸し暑く、どこからか聞こえる風鈴と自転車で切る風に冷やされる汗だけが涼しい。ぎらつく太陽の光を、自転車のメタリックな紫が白く反射している。
 ちゃんと待っていてくれた希摘は、「痩せたね」と目敏くにやっとして僕を出迎えた。
「そうかな」
「いつもは女の子みたいにほっぺたふっくらなのに」
「……嬉しくないよ。またごたごたがあってさ」
「毎週、何かあってるな。毎週というか隔週」
「飽きた?」
「いや、そういう意味では」
「今回すごいよ。僕まで病院連れていかれた」
「えー。あんま入院とかすんなよ。会いにいけないし」
「はは。それは大丈夫」
「そっ。あー、しかし暑い。満月の夜より人殺したくなるわ。入って」
 うなずいた僕は、「お邪魔します」とリュックを抱えて玄関に踏みこんだ。後ろ手にドアを閉めると、希摘の家の匂いがする。あの夜以来、嗅覚に血の匂いがこびりついている気がする僕は、意識的に違う匂いを嗅ぐように努めている。
 スニーカーを脱ぎ、「ゲーム買った?」と思い出して訊くと、「何で知ってんの」とフードを跳ねさせてドアマットに飛び乗った希摘は、首をかしげた。
「買うとか言ってたじゃん」
「そうだっけ。うん、昨日、兄貴につきそってもらって出かけたんで」
「あ、そうなんだ。平気? 来てよかった?」
「今日、悠芽が来るから出かけられたんだよ」と希摘はちょっと羞色して言い、「そっか」と僕もおもはゆく笑んでドアマットに上がる。
真織まおりさん、来たんだ」
「うん。昨日の夜泊まって、今朝帰っていった。らしい。朝、俺は寝てたんで」
「元気だった?」
「相変わらず。あれがおっとりしてるんで、俺は引きこもりのくせに悪ガキみたいな性格なんじゃないでしょうか」
「もしかして、新しい本出したの?」
「いや。でも、もうじきひとつ原稿は仕上がるって」
「僕にも一冊ちょうだい。お金出すから」
「言っときます」と希摘が咲うと、僕たちはだるい空気の廊下を抜け、ゆだる階段をのぼっていった。
 真織さん、というのは、希摘の十七歳歳の離れた兄だ。希摘は絵を志しているけど、真織さんは文学を志して作家をやっている。爆発的に売れてはいなくて、母親にならって在宅の仕事を持ちながらの生活だそうだ。
 今年で三十一になるはずだけれど、二十代で通るぐらい見た目は若い。希摘の顔つきをもっと柔らかく整えた細身の人で、僕も何度か会ったことがある。
 遥の精神科医のひとりに初めて会ったとき、僕は真織さんを思い出した。それは彷彿とする物腰柔らかさのせいでも、真織さんの過去のせいでもある。
 希摘は幼い頃から絵が好きだった。真織さんはそうではない。書きはじめたのはここ数年の話で、賞を獲ってデビューしたのなんか去年だ。そして、その前は真織さんは精神科医だった。
 二年前になぜかぱったり医業を辞め、その後、小説に身を入れた。月城家の人たちは真織さんが医者を辞めたわけを知っているようでも、当然ながら、僕は知らない。
 クーラーのかかる希摘の部屋は、汗をかいてきた僕には天国だった。喉も渇いていても、人の家で飲み物をねだることもない。「蝉鳴きはじめたよね」と汗はぬぐうと、「マジ?」と希摘はまばたきをした。耳を澄ますと、確かにここでは鳥の声しかしない。蝉時雨が降り出すのはこれからだろう。
 つくえもゲームも片づいていて、ベッドのまくらもとに本が伏せられている。「思い出して読んじゃった」と希摘が照れ咲って手にした本は、僕も持っている真織さんの本だった。
「それ、虐待された人の話だよね」
「母親の再婚相手にね。で、人間不信になって落ちこぼれた世界で仲間に逢うの」
「落ちこぼれるのは、遥みたいだね」
「確かに。つっても、これは落ちこぼれはじめるのは高校になってか」
「母親は何してんだっけ」
「見てみぬふり。愛情のひとつと勘違い。とにかくかばわない」
「嫌だねー」
「ねー。患者の実話ですかって訊いたら、答えてもらえなかった」
 希摘はハードカバーのその本をぱらぱらとしながらベッドサイドに腰かけ、僕も希摘の隣に座る。封筒が入っているリュックは脇に置いて、本を覗いた。
 希摘は文章に親しんでいても、僕はダメだ。漫画や写真という視覚で済むものが主体で、その文字の鎖には目が疲れる。
「真織さんって、精神科の医者だったんだよね」
「うん」
「真織さんだったら、遥をどうかしてあげられてたかな」
「えー。無理じゃない?」
「そんなあっさりと。こんなん書いてるわけだしさ」
「できないから書くんだよ。と、兄貴は言ってたよ」
「ふうん。あ、封筒持ってきたよ」
「えー。もー、嫌ー。夏休み始まったんじゃないの?」
「まだだよ。今週の土曜日が終業式」
「ケチケチせずに、試験終わったら休みにすりゃいいのに」
 僕は希摘に封筒を渡す代わりに、真織さんの本を受け取った。目が疲れる、とはいっても、真織さんの本はひと通り読んでいる。
 真織さんの書く物語は、精神的に傷を負った人の話が多い。そういう人が分かりあえる人を持ち、孤独から癒されていく。これまで、真織さんの小説を読んでも、心の傷なんてぼんやりとした感想しかなかった。今、僕は遥と接していて、作品の中に散らばっていて思い返る断章にはっとする。
 封筒の中身に飽き飽きした希摘は、「遥くんは特にむずかしいんだよ」と言った。
「虐待だろ」
「精神科に来る人って、そんなのされた人ばっかじゃないの?」
「仕事がうまくいかないとか、恋人ができないとか、日常的な悩みも多かったらしいよ。重い過去の人もいた。初めは人づきあいがうまくできないとかって相談で、話し合ううち、昔と今がつながる人もいたそうだし。兄貴が言うには、過去が原因だって分かってるほうが、相談しにくいんじゃないかって」
「そう、なんだ。まあ、確かに遥は虐待の中でもむずかしいか。殺人とか心中とか」
「だね。って、何、精神科医と何かあった? また非難っぽいことされた?」
 僕は希摘に本を返し、膝に息をついた。「そうへこむな」と希摘は僕の肩に手を置く。肌にはずいぶんクーラーが浸透し、希摘の手が温かくても不快はない。
「あの、ね」
「うん」
「血を見たんだ」
「血」
「そう」
「君が流したの」
「遥が流したの」
「刺したの?」
「切った」
「誰が」
「自分で」
「どこを」
「手首」
 僕と希摘は、顔を合わせた。「それは痛かったね」と希摘は述べ、僕はうめいて上体を折ると膝に顔をうずめた。
「思い出すの怖いー」
「無理して語らなくていいのよ」
「医者に話すより、希摘に吐き出すのがいいもん」
「君まで医者にかかったのか」
「遥の治療のためにね」と僕は女々しい息をつき、身を起こして芝居がかったことはやめる。
「すごかったよ」
「カウンセリングが?」
「いや、血がね。すごいよね。人間って、あんなに軆の中に血を入れてんだね。軆が重いはずだ」
「自分で手首をカミソリで切るっつうと、自殺か。あ、遥くん、死んだの?」
「死んでないよ」と僕は怖いことをさらっと言う親友に、眉を寄せる。
「ふうん。じゃあ、自殺未遂か。怖いね。俺は死ぬの怖いんで、自殺はしないよ」
「いつかみんな死ぬんだよ」
「そんなの言わないでください」
「幽霊とかあるなら、気持ちは残るね」
「残るといいよねー。で、残したくないと思う人が自殺とかするんですね。遥くん、残したくなかったのか」
「遥の人生って、振り返って楽しいものではないよ」
「じゃ、死なせればよかったのに」
 無頓着な希摘と、やや唖然とする僕は見合う。「何」と希摘はしっとりした髪を流して首をかたむけ、「遥には希摘なのかなあ」と僕は空中につぶやいた。
「死にたいなら、死なせりゃいいじゃん。死んで片がつくなら、お安い悩みだよ」
「……まあね。でも、僕は止めちゃった」
「正義漢」
「あのとき、遥が好きで手首切ったとはとっさに思わなかったんだよね。遥、自殺する前に失踪しててね」
「何それ。知らん。待ち。話すのはいいけど、できれば順序よく話しなさい」
「はい」と答えつつ、僕もどこまで希摘に話しているのか憶えていない。それほど、最近の遥の問題はめまぐるしい。
「注射の痕があったのは聞いたよ」と希摘は言って、そういえばそんなんもあったな、と思い出す。入院して気づかれるだろうか。
 僕は記憶をたぐり、抑鬱と暴動の豹変、僕を罵倒した挙句の家出、補導による発見ととうさんの叱責を経て、やっと自殺未遂に話を戻せた。
 あの真っ赤な光景や遥の傷んだ言葉、なぜか僕が泣いてしまったのも希摘になら話せる。救急病院に連れていかれ、僕も一日入院し、遥は一週間入院することになったのまで吐き出すと、僕の胸はだいぶ軽くなっていた。
 まじめな話はまじめに聞いてくれるこの親友は、むずかしい顔でベッドの上であぐらをして腿に頬杖をつく。「鬱陶しい?」と脚をぶらつかせると、「作り話なら」と希摘はつぶやいた。
「ほんとのことだよ」
「分かってるよ」
「で、精神科医は遥がいないあいだは僕を責めてたくせに、今回のでは褒めるわけ。そういうの、感じ悪いんだよね」
「確かに腕の良さそうな精神科医じゃないな。なるほど。それなら、悠芽が自殺を止めたのは、正義のひと言では片づかないな。俺はてっきり、遥くんは暴れながら切ったのかと」
「遥は死にたかったのかも。よく分かんない」
「何、遥くんが家出したのって、ほんとに悠芽のせいなのか」
「遥がそう言ったし」
「今んとこ、遥くんの気持ちは、遥くんが一番つかめてないんじゃないかなあ。鵜呑みにしないのがいいよ」
「でも」と僕が卑屈にうなだれると、「心当たりあるのか」と希摘は僕の横顔を覗く。

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