野生の風色-47

終業式の日に

 遥は十五日の水曜日に帰ってきた。
 親に引きずられて、クーラーのきいたリビングで再会したとき、僕は彼に臆しがちになってしまった。自殺を止めるなんて、自殺しようとした人間には最大のお節介だ。あのときはそんな後先は考えなかったけど、遥の僕への憎悪はあおられたかも──
 そんな不安が、遥の瞳の直視をはばかった。彼は相変わらず長袖で暗色の格好をし、さりげない動作の中で左手首をかばっていた。ひどい傷だった。まだ治っていないだろう。遥も僕に礼も何も言わず、気まずさだけが事実として取り残された。
 彼が帰ってきた翌日、夏休みまであと三日という日になり、学校は短縮授業を午前中授業に切り替えた。僕は昼食を求める胃を抱えて帰宅する。
 遥は家にいる時間は増えたのだけど、いっさい顔を合わせていない。部屋にこもっているのだ。鬱状態ではないのは、聞き取れる物音で察せて、しばらくはこうかな、と推していたら、遥が家でおとなしくしていたのは三日と持たなかった。
 終業式である土曜日の朝、玄関で靴を履いていた僕は、遥の黒いスニーカーが消えているのに気づいた。夕べはあったはずだ。深夜に出かけたということは──
 僕は息をつき、「いってきまあす」と残すと、軽い手提げを取って、まばゆい朝陽に満ちた外にドアを開けた。
 小学校も今日が終業式みたいで、蝉より元気な子供たちもランドセルでなく手提げを連れていた。僕の青い手提げは、校章が入った学校指定のものだ。このかばんの使用については、リュックにできる左右の紐を、まったく無意味に垂れ下げるのが主流だった。そこにキーホルダーをじゃらじゃら下げる生徒もいるけど、僕はそれはしていない。
 朝早くなら、夜に冷まされた空気が残っていて、不快が少ない。からりとした青空とすずめの止まる電線の元、排気ガスの大通りや安全になった桜通りを抜けた僕は、だれたり浮かれたりしている生徒に紛れて、学校に到着した。
 僕は終業式と始業式の区別がついたことがない。お説教を蝉に邪魔されないため、全校生徒がいるというのに、体育館は閉めきられて熱気がこもっていた。
 いちいち言われるほうが癪に障る長談義は聞かず、遥の夏休みの動向や希摘の家に泊まる日づけを思って、幻覚のような感覚に耐える。盆には母方の実家にも帰るだろう。母方の祖父母は健在だ。そんとき遥どうすんのかな、と思っていると終業式は終わり、今度は教室で配布物の混乱が訪れた。
 無論、成績表も含まれる。遥が不在であるおかげで僕は初めに渡され、文系はまだしも、理系の結果には開き直るしかない渋いため息をついた。通信欄には、遥についても少し書かれている。
 思い起こせば、あの担任の媚に遥がぼそりと毒を吐いたのが始まりだった。ずいぶん昔に感じられていると、「ほい」と前の席の成海美がプリントを渡してきて、僕は受け取って一枚取ると後ろに流した。
「何これ」
「んー、夏休みの予定表? 図書館の開館日とか登校日とか」
「登校日来る?」
「サボるに決まってんじゃん。天ケ瀬さ、夏休み後半に俺と会える日ある」
「あるけど。何で」
「宿題写させてよ。国語と英語。数学は桐越に約束取りつけた」
「あー、僕も数学は桐越の写そうかなあ。一問で一日かかって間違えそう」
「はは。何だったら、一緒にやろうよ。八月二十四日に桐越んちだよ」
「やばそうだったら合流する」と予定表をたたんでいると、また配布物がやってきた。非行防止だの規則正しくだの、こんなにもらっても、目を通すと思っただけでうんざりする。
 資源の無駄だ、とか思いつつ、八月二十五日に成海と会うのを約束していると終礼になり、約四十日間は、制服や教室を解放されることとなった。
 ざわめきにほぐれた教室を、いつもの三人と共に出て、土砂降りの蝉しぐれが聞こえる靴箱で、上履きをふくろに突っ込む。白光の強い日射しを思いやっていると、「悠芽くん」と不意に呼ばれて、僕は顔を上げた。
 初めは桐越たちを見たものの、学校に僕を名前を呼ぶ人間はいない。「いつ聞いてもお前の名前ってお淑やかだな」と桐越は笑いすらして、僕は彼をはたくと周りを見まわした。
「あ」
 騒がしい生徒たちに混じり、教師とは思えないしなやかなスーツを着た女の人がいた。見憶えのある、髪を短いポニーテールに縛った、僕の親友の面影のある女の人──希摘のおばさんだ。
「こんにちは」
 生徒を縫って歩み寄ってきたおばさんに、僕は軽く頭を下げた。桐越たちも、僕の名前を呼んだ主がその人だとは悟ったようで、しかし、誰かは分からず顔を合わせている。
 線やかたちは希摘を柔らかく、でも印象は挑発的にした感じのおばさんは、四十台後半になるのだけど、女優が実年齢より遥かに若く見えるように、女を捨てていなくて綺麗だ。「若作りだよ」と希摘はあっさり言うけれど。
「今終わったところ?」
「はい」
「そう。じゃ、あの女も教室かしらね」
「あの女」
「あ、君の担任。あたし、あの女嫌いなのよ」
 希摘の母親だな、と思う。
 遠慮なく担任をこきおろす謎の女性に、桐越たちはややまごついている。「クラスメイト?」と煙草の匂いがするおばさんは三人を見て、僕はうなずいた。
「そう。邪魔だったかしら」
「いえ、別に」
「ごめんなさいね」とおばさんは気さくに謝り、こういうタイプの大人の女性に慣れていないらしい桐越たちは、どきまぎしている。
「あたし、一応、保護者ね。君たちのクラスで学校サボってる奴の」
「……月城?」
 バンド活動でいくらか世慣れしている日暮が言うと、「そうそう」とおばさんは微笑む。
「希摘は、来てないですよね」
「あの子は今、寝てると思うわ」
「そですか。担任、降りてくると思いますよ。何か話ですか」
「あの子が先公が家に来たら空気が腐るって言うからさ。成績表とか取りにきたのよね。もしかして、渡された?」
「いえ、さすがに。持っていくつもりじゃないですかね」
「嫌ねえ、お節介な女って。女は男に世話されるものだと思うわ。ま、いいや。じゃ、またうちに来てやってね」
 にっこりすると、おばさんは生徒に紛れて職員室のほうに歩いていった。僕のかあさんとは、明らかに別種の母親だ。
 希摘は一見破天荒でも、あの人に育てられたと思えば、平凡に育つほうが不気味だ。元ワルだもんな、と思っていると、「意外」と桐越がつぶやいた。
「登校拒否やってる子供の親って、あんななのか」
「いや、希摘んとこは変わってんだと思うよ」
「あんな母親いいなあ。おうち楽しそー」
「教師を先公呼ばわりする親って初めて見た」
「月城って奴、今寝てんの?」
 桐越はこちらを見て、「たぶんね」と僕は途中だった上履きを突っ込みなおす。
「昼頃に起きるんじゃない?」
「あいつって、イジメられて不登校してんだろ。何か、暗い奴じゃないのか」
 怪訝そうにする日暮に、「おもしろい奴だよ」と僕はふくろを手提げに押しこむ。
 いろんな意味で衝撃を受ける三人を、僕は昇降口に追いやり、夏の花を咲かせる花壇が沿う道を抜けて校門に向かった。そこで桐越と成海と別れ、日暮とも団地の途中で別れると、僕は飛びまわる虫をよけて肌を焦がす太陽の元を歩く。
 桜通りはざわめく緑が日陰を作ってくれても、代わりに蝉の声がすごかった。シャツと肌のあいだで汗がべったりとして、帰ったらまず何か飲まなきゃと思う。大通りを渡って周りに同じ制服が減ると、熱っぽい僕は、小走りになって涼しい家に飛びこんだ。

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