熱帯夜
その夜は、暑さで寝苦しかった。何度寝返りを打っても、意識は遠ざかることなく、暗闇に目が冴えている。
考えごとが頭に包帯みたいに巻きついてしまった感じだ。こんなにもやもやするのは、やはり、遥に対してどうしたらいいのか悩んでいるせいかもしれない。
ここまでどう接したらいいのか分からない相手なんて、僕の人生では初めてだ。接したら、下手をすれば死のうとする。放ったら、遥の生活は壊れていく。どうしろというのだろう。
そう、遥自身は僕にどうしてほしいとかあるのだろうか。いや、そんなのあったとしても、素直に言ってくれるわけがない。せいぜい、「ほっとけばいいだけだ」とか「そんなことも分からないのか」とか。
ため息が出てくる。眠れないなら、もう朝が来たらいいのに、まだ午前一時にもなっていない。時計を睨んだあとに、ふとんをかぶる。考えなくていいのに、これまでのことがちらちら脳裏をよぎり、眠気もさえぎる。
またふとんから頭を出して、思わず「あー、もうっ」とつぶやいてしまったときだった。隣の遥の部屋で低い物音がして、はっと息をのんだ。慌てて口も手で押さえる。
そう、今夜は遥が家にいた。何て言ったかは聞き取れなくても、何か言ったのが聞こえるのは遥も同じだろう。まずかったかな、と息を止めたままでいると、低い足音がした。
まさかこっちに怒鳴り込んで──いや、わざわざ絡むようなそれはないか。まさか、こんな時間にまたどこかに出かけるのか。
隣の部屋から足音が出ていった。そして、階段を降りていく。僕はゆっくり身を起こし、真っ先に、あの真っ赤に染まった洗面台を思い出した。あるいは、と思いついたのは、遥の腕にあった注射の痕だ。
それでも、放っておいたほうがいい?
めげることなく、声をかけたほうがいい?
分からない。分からないけど──もうひとつの可能性、自殺行為じゃないのだけ確かめるのは、たぶんいいだろう。
こわばる心臓を抑えて、深呼吸すると、僕はベッドを降りて部屋を出た。
廊下は暗かった。一階を覗いても、ついている明かりはない。首をかしげながら、僕は忍び足で階段を降りていく。
スニーカーがあるかどうか、玄関に向かって確かめようとした。が、家の中で小さな音がして、僕はびくりと振り返る。
まだ、家にいる。
小さく生唾を飲みこむ。本当に、話しかけていいのか。また遥の逆鱗に触れてしまったら?
ふうっと息を吐いて、躊躇をはらう。それから、音がしたキッチンをおそるおそる覗いてみた。
そこでは遥が、グラスにミネラルウォーターをそそいでいた。僕は音を立てなかったつもりだけど、たぶん気配で、遥はこちらを振り返ってくる。
遥は寝る前の服装ではなくて、このあと、どうするつもりなのかは察することができた。
「あ……、えと」
口ごもる僕に、遥は厭わしげに眉をゆがめる。
「いや、……また、何かしてたら、……その」
歯切れ悪い僕を無視して、遥はミネラルウォーターのボトルを冷蔵庫にしまった。
僕、何しに来たんだろう。ついそう思ってしまったけど、ミネラルウォーターを飲む遥を見つめて、これは確認して、……否定しておいてほしいと思った。
「……あの、さ」
言わないほうがいいのかもしれない。僕が立ち入っても、ろくなことにはならない。そんなことは分かっているけれど。
遥は半分飲んだグラスをテーブルに置いた。突っ立っている僕を、黒い瞳が威嚇する。何も言わないけど、何を言いたいのかは、こういうときは分かる。
──俺に関わるな。
僕は思い切って顔を上げた。
「ひとつ、訊いておきたいことがあって」
忌まわしそうな遥の瞳は容赦なく、そこまで剥き出しの嫌悪を向けられたことがない僕は、正直すくみそうになる。
「してなかったら、こんなこと言って悪いと思うけど」
静かなキッチンに、僕の声と小さな秒針だけ響いている。鼓動が吐き気みたいにせりあげる。
「く……薬、とか、やってない……よね?」
遥は、僕をかたくなに見つめた。が、ほんの刹那、左腕に目を走らせた。
僕はそれで分かってしまった。
何を言えばいいのか分からなかった。薬。薬なんて。そんなもの──
僕は、とっさに噛みしめてしまった唇をほどき、震えそうな声を発した。
「治らないよ?」
遥は僕の苦々しい表情を見た。
「そんなんじゃ、遥は治らない。もっとダメになるだけだよ」
「………、」
「こういうのうざいと思うし、特に、僕はこうやって口出しするから遥も腹が立つんだと思うけど。遥は、薬に耐えられないと思う。やったら、そのまま堕ちていくだけというか……。だから、その──やめときなよ」
遥は目を開いた。そののち、顔を伏せた。グラスを持つ手がわななきはじめ、前髪の奥で目が黒く濁っていく。
「遥がどういうふうに生きるかは勝手だけど、」
「……い」
「薬は遥の傷を治さないし、むしろ死ぬ──」
「うるさいっ、死んだほうがいいんだよっ!!」
そう叫んだのと同時に、遥は水の入ったグラスを振り上げ、こちらに投げつけてきた。僕は反射的によけたものの、壁にぶち当たったグラスは、派手な音を立てて砕けた。水もガラスも、ばらばらに飛び散る。僕がそれに驚いてかたまっていると、「お前が!」とわめいてこちらに大股で近づくと、乱暴に僕の胸倉をつかんだ。
「そんなふうに鬱陶しいから、俺はいつも死にたくなるんだよ! 何で治るとか治らないとか……そんなんお前に分かるっていうのか、ふざけんなよっ! お前に分かるわけねえだろ、俺を決めつけるなっ。そうだよ、俺はお前に腹が立つんだ、お前なんかに治されるぐらいなら、薬で腐って死んだほうがマシなんだよっ。お前に癒されるぐらいなら、飲みこまれて食われて、イカれて死んだほうがマシなんだっ。お前がムカつくんだよ、何でお前みたいな奴がいる家に来なきゃいけなかったんだ、お前さえいなければ、俺は薬なんかしなくてよかったのに!」
「遥くんっ」という声が割って入った。同時に、胸倉を引っつかむ手がほどけた。目を開いて放心する僕は、そのままへたりこみかけ、誰かの腕に支えられる。
かあさんだった。捕獲されそうな動物のように暴れ狂う遥をとめるのは、とうさんだ。
「放せっ。今度こそそいつを殺すっ。殺してやる、こいつがいる限り、こんな家には絶対に落ち着いてやらねえっ。こんな奴がいる家なんか嫌だっ。もう病院のほうがマシだ。あの牢屋のほうがずっといい、お前のせいで俺はもうめちゃくちゃなんだよっ」
かあさんの匂いと温かい腕の中で、僕は茫然と遥を見ていた。遥に茫然としているのではない、自分に茫然としていた。
ここまでの破壊に駆り立てるほど、遥を憎悪に染め上げる自分に──。
「先生を呼べ」
押されたり蹴たくられたりしながら、遥を抑えこむとうさんが、早口にかあさんに言う。かあさんはうなずき、僕をさっき飛んできた水で濡れた壁にもたれさせると、リビングに走った。
「またあいつらを呼ぶのか」と遥は怒鳴りすぎて引き攣れた笑い声のようなものを上げる。
「お前らは、いつも同じだな。いつもあいつらに頼って、だったら何で俺をこんなとこに連れてきたんだっ。あいつらに頼るなら、俺のことなんか初めからほっときゃよかったのに。何でこんなとこ来なきゃいけなかったんだ。こんなんだったら、死ぬまであの牢屋にいたほうがマシだった。どこだってあの家と同じなら、病人あつかいされてるほうがよかったっ」
遥は言葉に紛れながら、泣き出してしまっていた。とうさんの腕をずるりと抜け落ちると、床で哭しはじめてしまう。まるで瀕死の動物が上げる鳴き声だった。のたうってものたうっても、起き上がれず、死の恐怖に喉自体がえぐりだす血まみれの嗚咽だ。
僕には真似できない、凄まじい泣き方だった。僕がこれまでもらした嗚咽に、そんなにも痛みがこもっていたことがあっただろうか。僕の今までの人生での涙など、遥の悲鳴に較べたら何と安く薄かったことか。
そうだ。遥の言う通りだ。僕になんか、遥の痛みは分からない。なのに、またでしゃばってしまった──
ゼリーに閉じこめられたような息苦しい時間が停滞し、医者が駆けつけたときも、遥はすすり泣いていた。今日は女の人で、ウェーヴのセミロングをひとつに束ねていた。彼女のすがたを見た途端、遥は再び暴れ出しそうになったけど、長いあいだ嗚咽をもらしていた疲れに支配されて、すぐ無抵抗になった。
遥は二階に連れていかれて、薬を飲んでベッドで休んだ。かあさんがベッドサイドに付き添うと、うなだれる僕と硬い顔のとうさんは、一階のクーラーをかけたリビングで医者と話した。
また責められるな、とあきらめながら、僕は遥の腕に注射の痕があったのから順に話していった。薬をしているのかと思い、でも分からないので確認し、それから──。隣のとうさんと正面の医者は、黙って僕のぼそぼそとした告白を聞いていた。
「なぜ、薬物を使用していると思ったとき、私たちやご両親に相談しなかったんですか」
夜更けに見合わない明瞭な口調で問われ、首をかたむけた僕は、「分からなかったし」と胸の靄に頼りなく答える。
「何がですか」
「薬の痕かどうか。違ったら、深読みするなって遥を怒らせそうで」
「腕の痕、確かなんですね」
僕はうなずき、「医者がやったにしては、刺した痕が残りすぎてたし」とつけくわえる。僕も薬をした経験があり、それで痕を見れば察せたと思われたらかなわない。「ご存知でしたか?」と彼女はとうさんに目を移して、とうさんは心苦しそうに首を横に振った。
医者は、僕やとうさん、遥は眠ったと言って降りてきたかあさんに質問を続けた。徹底的に遥の動向を掘り返した。遥が教室で切れたり、説教を逆手にとってバカにしたのも伝わった。
それでも僕は、知られずに済んでいることは黙っておいた。初夏に遥が中庭でした同級生への虐待や、鬱状態のとき彼が語った闇への恐怖──。
午前四時、しばし口をつぐんで考えた彼女は、じっくり遥の様子を見たいという結論をくだした。
「精神が不安定になってるようですし、私たちが直接話して、整理させたほうがいいと思います。今はちょうど夏休みですか」
「はい」
「でしたら、夏休みのあいだは私たちの元にいてもらいましょう。話し合ってみた結果次第では、こちらに帰すのも考え兼ねますが」
「……分かりました」
「私は一度帰ります。空きのベッドに準備ができ次第、連絡が来て、迎えも来ると思いますので」
立ち上がった医者に合わせ、僕たちも立ち上がった。僕たちがショックや眠気の疲れでくたくたなのと対照的に、彼女はきびきびと玄関に向かい、軽く頭を下げると帰っていった。
息をついたとうさんと、鍵を締めたかあさんは顔を合わせ、一歩後ろの僕を向く。僕はうつむき、「ごめん」と泣きそうにぽつりとした。
「いや、よく言ったよ」
とうさんが僕の肩に手を置き、かあさんもうなずいた。それでも、僕は遥の言葉に突き刺され、泣きそうな情けない顔をあげられなかった。
今回ばかりは、遥の言う通りだ。彼は僕に嫌悪をたぎらせて当然だった。遥の暴言を突っぱねるほど、確かに僕は遥の心を知らないのだから。
両親が遥の部屋に行っているあいだ、僕は自分の部屋に戻らず、リビングのソファに座っていた。情けない。薄っぺらい。安っぽい。分かっていても、鼻の奥が絞られてぽろぽろと涙が落ちた。もし僕がこんなふうじゃなくて、獣のように泣ける人間なら、もしかして遥を理解できたのだろうか?
遥の迎えは、後日の昼下がりに来た。とうさんは仕事に出ていたので、かあさんが遥の身支度を整えた。遥は虚脱しきって、言われるがまま、かあさんがまとめた荷物を持って車に乗りこんだ。
頭の上の太陽は、遥の憎悪した瞳のごとく燃え上がっている。その元で汗を流す僕のことを、遥はふと、前髪がかかる鬱に沈んだ目で窓越しに見てきた。僕は寝不足で腫れぼったい目をそらし、うつむいた。車はむせそうな排気ガスを残して、出発してしまう。
気を狂わせるようにがんがんする蝉の声の中、僕はやっと顔を上げ、遥の垂れた頭を見送った。
【第五十章へ】