一番の親友【1】
日曜日は快晴ではなくても、雨も降りそうになくてほっとした。
夕べの夜更かしが現れ、目覚めたのは十時前だった。希摘のところに出かけるのは昼過ぎだ。着替えたり朝食をとったりしていると、時間はすぐやってくる。僕は封筒やゲームのカードをベージュのリュックに詰めこんで、身支度を整えた。
「行ってくるね」とリビングから覗いたダイニングでは、とうさんたちが昼食を食べている。
「お昼ごはんは?」
とうさんの隣でピラフをすくうかあさんが、遥の隣の空席をしめす。いい匂いに胃を刺激されたけど、「朝ごはん食べたばっかだし」と僕は自戒も重ねて遠慮する。
「向こうでお菓子とか出されるかもしれないし」
「そう。あんまり遅くならないのよ」
「うん」
遥がかすかに怪訝の色を混ぜて僕を見て、「友達のところに行くんだよ」ととうさんが説明する。僕はあえて遥は無視し、「じゃあね」とリビングを引っこむと、玄関でスニーカーを履いた。そして、外出しなくて隅にある遥のスニーカーを横目に、ドアを開けた。
希摘の家は近所だけど別の住宅街にあり、希摘はそちらの六丁目に暮らしている。山からの小川にかかる石橋を渡れば、大通りにおりる必要がなくて近道だ。橋を渡ると広めの道路があって、ひとつ目の角を左に曲がれば月城家だ。
寒色の空が肌寒く、降らなかった雨にほっとしてインターホンを押す。僕の住宅地と同じく、ここも相似した家が四方に続いている。希摘の家もこれといった特徴はなく、白いコンクリートの壁、紺色の傾斜した屋根、綺麗な配置の窓──僕の家より庭が狭い代わりに、サンデッキがある。
道端にしゃがんだ子供が、道路に石で絵を描き、何だか歯軋りじみた音を立てている。どこかの昼ごはんの匂いを水気に冷えた風がさらった。青い格子縞の上着に身を縮め、この雨が終われば春が来るんだろうな、と思っていると、「悠芽」と声が降ってきて顔をあげた。
希摘が、二階の窓を開けて顔を出していた。「希摘」と僕が笑みになると、「門開けていいよ」と希摘は身を乗り出して門をしめす。僕がうなずいてかんぬきに手をかけると、希摘は身を引いて窓を閉めた。玄関を開けにきてくれるのだろう。
門を抜けて飛び石にそって玄関先に行くと、ちょうど鍵の開く音がした。開いたドアの隙間に、赤いフードパーカーに黒いカーゴパンツを合わせた希摘の顔が覗き、僕は笑顔になった。
「久しぶり」
「二週間だな。元気」
「そっちこそ」
「そこそこですね」
「来てよかった?」
「うん。さっき起きた。入って。今日寒いな」
「天気悪いもんね。昨日もすごい降ったし」
「雷も鳴ってた」
「え、知らない。いつ」
「午前三時」
「……寝てたよ」
希摘は楽しげに笑い、僕を玄関に招く。希摘の背は、僕より心持ち高いくらいで、体格や輪郭もやっと幼さが取れてきた少年体質で僕に似ている。瞳も鋭さがなく穏やかだ。ただし、眉の描きが凛としているので、僕ほどかわいらしい印象はない。
僕はドアをすりぬけ、ホコリをかぶるワインレッドの希摘のスニーカーの脇に靴を脱ぐ。
「おばさん、いないの?」
「いるよ。ヘッドホンして仕事してる」
「邪魔じゃない?」
「平気だよ。リビングでやってんだし。俺の部屋、来るだろ」
「うん。あ、先生にプリントもらったよ」
「またあ? いらんっつってんのに。ま、いいや。行こ」
希摘は陽に当たらなくて白い手で奥をしめし、僕は自分と違う匂いの希摘の家にあがる。階段を希摘は慣れた足取りでのぼり、僕は肩のリュックをかけなおしてそれを追った。
希摘と親しくなったのは、十一のときだ。五年生のとき、同じクラスの同じ班になったのが切っかけだった。当時は希摘は学校に来ていて、しかし、すでに変わった奴だとうわさされていた。
希摘も心をさらせる人を見つけられず、けれど僕のようにうわべの友人で寂しさをごまかしはせず、親しくなる価値はないと見切ったクラスメイトたちを黙殺していた。
誰とも交わらない孤高に対し、気取ってるとか、澄ましてるとかが大半の希摘への評だった。僕は同じ班になるまで、希摘の存在を把握していなかった。僕の中で、親しくないクラスメイトとはそんなものだ。
五月に十一になり、その翌月に同じ班になり、僕は初めてどうこう言われている希摘を知った。
「月城くんって、あんまりしゃべらないね」
同じ班の人がおとなしい僕に厄介な希摘を押しつけ、給食当番の“大きいおかず”で対を組んだのが僕たちの始まりだった。共同で熱く重い鍋をさげ、廊下のざわめきをかけはなれた沈黙に耐えかねて僕がそう言うと、希摘は何もこもらない瞳で僕を見た。
「俺がしゃべらなくて、何かある?」
「え、いや。別に。寂しくない?」
「虚しいよりマシだね」
「はあ。え、虚しいって」
「好きでもない人間ににこにこして、何か満たされる?」
「………、まあ、うん。じゃ、クラスの人みんな好きじゃないの?」
「うん」
「そ、そう。じゃ、僕のことも」
このとき、なぜそんな大胆な質問が出たのかは分からない。反射的か無意識か、単に沈黙が嫌で話題をつないでおきたかったのか。希摘は今度は僕に顔も向け、前髪の奥でちょっと咲った。
「悪趣味な質問だね」
「……ごめん」
「天ケ瀬くんは、俺のこと好き?」
「え、さ、さあ。好き嫌い決めるほど、月城くんのことよく知らないし」
我ながらずるい答えだと思ったが、先入観を持たないとも取れるこの言葉が、希摘のお気に召したらしい。このあと、僕たちは自然と親しくなっていった。
希摘が学校を休みはじめたのは、六年生のときだ。彼のつんとした孤立は、同級生の反感を買うのに申し分なかった。こまごま嫌がらせをされはじめ、希摘は戦うも傷つくもせず、とっとと学校を辞めた。
中学生になったら、いったん通学したものの、登校拒否が学校への違和感を強めていた。学校に構っているヒマはない没頭できることも希摘は見つけていて、彼はわざと生意気にきどってクラスメイトに自分をイジメさせておき、それを口実に再び学校を辞めた。
周りには、希摘はイジメを受けて心に傷を負った少年になっている。ゆいいつ心を許しているのが僕で、それで、僕は希摘と学校の架け橋になり、偶数週の日曜日にはここを訪ねるのを習慣にしているのだった。
階段をのぼって、右手前のドアが希摘の部屋だ。希摘はドアノブを下ろしてドアを開け、僕を中に入れた。
明かりがついた室内には、うっすらと暖房がかかっていた。普段は意識しない希摘の匂いが強くする。ドアの正面にさっき希摘が僕を見下ろした窓があり、その足元には低いチェストがある。つくえに向き合っても窓があり、絵の具や色鉛筆が雑然としていた。棚には本やCDが並んでいる。
希摘はベッドに乗り、僕も足元にゲームが散らかるベッドサイドに座って、上着を脱いだ。
「ベッドに置いといていい?」
「うん。で、プリントってどうなの」
僕はリュックを開け、茶封筒を引っ張り出した。「ぶあついねえ」と希摘は受け取り、束を取り出して倦んだ渋い目をする。
「美化週間のおしらせだって」
「それ、先週に終わったよ」
「いつのだよ……三月九日か。二週間前のおしらせもらっても、困るんだよなあ。しかもこんなの。俺、関係ないじゃん」
「裏に絵でも描けば」
「やだよ。君が描きなさい」
「いらないよ。勉強した? したのあったら持ってくよ」
「しようと思っても、気づくとしてないんだよな。だって、分かんないんだもん」
「関数って知ってる?」
「知らん」
「三人称単数形は」
「国語?」
「英語だよ」
「何でそんなややこしい名前をつけますかね。いいよ、英語なんて。日本に住む日本人だもん」
リュックを閉める僕は笑い、希摘は触りたくもなさそうに束を封筒にしまって、ベッドに放る。「捨てる?」と僕がリュックを上着のそばに置くと、「かあさんに渡しとく」と希摘はあくびを噛んで、脚を伸ばした。
さっき起きた、という玄関での台詞の通り、希摘の生活は起臥が定まっていない。朝に寝たり昼に起きたり。彼の自由な生活に、登校拒否という重い影はない。
「おじさんもいないの?」
「遊び行ってんじゃない?」
「僕のとうさんは、寝坊して昼ごはん朝食にしてたよ」
「対照的ですね。俺の親はあれだよ。いつまでも不良小僧時代の尻軽が抜けないというか」
「はは。でも、おもしろいじゃん」
「まあな。あんな親なんで、子供たちがアウトローと化してもほっといてくれるんだろうな」
詳しくは知らなくても、希摘の親は昔には不良であったらしい。希摘の十七歳離れた兄と八歳離れた姉は成人していて、この家にはいない。一風変わった家族であれ、それでかえって砕けて、みんな仲はいい。
「もうすぐ春休みだよな。学校どう?」
「んー、授業なくなって来週は短縮。大掃除とか入学式の飾りつけとか」
「中学生になって一年も過ぎてんだっけ。実感ないな。まだ小学生みたい」
「そう?」
「行ってないとそんなもんだよ。二年になるの、心配とかある?」
「クラス変わっちゃうんだよね。今のクラス好きってわけじゃなくても、それなりに話せる人もいるし。ばらばらになったら、新しい友達作らなきゃ」
「作ろうと思って作れるんですごいよな。俺なんかできないよ。受け身」
「そうかな」
「そうだよ。そのくせ虚栄心が強い」
希摘はからから笑う。希摘は歳のわりに自己に冷静だ。ときには非常識なまでに客観的で、そこも自身をかえりみない同年代と折り合いがつかない要因だろう。
何というか、希摘は大人びた深遠な思考を、ガキっぽい短絡な言動で表す。
「先生が、終了式ぐらい来ないのかって言ってたよ」
「行きません。終了式だけ行ったって何もないじゃん」
「成績表とかどうすんの」
「いらないもん。成績つけられますかね。試験だって受けてないし、ついたとしてもぼろぼろですよ。卒業できるかな」
「中学は留年ないでしょ。公立だし」
「今のご時世だと怪しいぞ。悠芽、二年になったらいそがしい?」
「二年はそうもないんじゃない。三年はいそがしいかな。受験生だし。けど、ここは来るよ」
希摘は僕を見て、はにかんで咲う。そういう感情をはらんだ表情は、希摘は心を開いた相手にしかしない。「ここに来て、気晴らししたいしね」と僕は放った脚の膝をさする。
「受験の?」
「いや、家がさ。言ってたじゃん、いとこが来るって」
「あ、来たのか」
「先週ね。十三日の金曜日に」
「不吉」と希摘は咲ったあと、「虐待されてたんだっけ」と瞳に少し緊張を張る。「そう」と僕はうなずいた。
【第六章へ】