野生の風色-52

彼が話したいこと

 一週間の盆の帰省では、特に変わったことはなかった。
 おじいちゃんもおばあちゃんも元気で、僕はしっかり良い子で小遣いをせしめた。田舎に行って、いつもいいと思うのは、空がずっと澄んでいて、生き生きしていることだ。あんまり綺麗なので、もらった小遣いでインスタントカメラを買って、青空や夕焼けを撮ってしまう。
 知らない土地での本屋で空の本を買ったり、車ごと乗ったフェリーで希摘へのおみやげを買ったりする。その隣で、両親は帰ったらまず行くという、遥の見舞い用のお菓子を買っていた。
 現在、両親の頭の中は、先祖が帰ってくることより遥が帰ってくるかどうかなのだ。そんな両親に、希摘の家で取れた愁いを何だか胸の奥に再発させながら、僕は疲れと一緒にいつもの町に帰ってきた。
 遥の見舞いに出かけた両親を見送った僕は、音楽とクーラー、おやつと共に宿題をした。数学でいくつか解けない問題があり、卓上カレンダーで二十四日を調べる。夏休み最終日の一週間前だ。
 桐越の家は知っているし、行くか、と僕はこの日を予定に組みこんだ。国語や英語は済んでいて、成海に写させるのに問題はない。日暮はバイトするとか言ってたっけ、と僕は面影の遠い友人たちを思う。
 彼らとは夏休みに落ち合うほどの仲ではないし、僕は登校日には登校しなかった。遥といざこざがあったあの夜が、登校日だったのだ。久しぶりに会うのって恥ずかしいんだよな、と僕はブラウニーのナッツを噛みしめ、社会の歴史を消化していった。
 明日は午前中に電話を入れ、おみやげを連れて希摘を訪ねるつもりだった。が、その予定は、冷やし中華の夕食どき、遥が僕に会いたいと言っているという両親の話で狂った。
「遥が?」
「悠芽と話がしたいって」
「冗談でしょ」
 真に受けず、醤油とレモンが香るスープに浸る麺を箸に絡め取ると、「本当なんだ」ととうさんはまじめな瞳と声で言った。僕は上目をして、食べるのもはばかられて箸を下ろす。
「何の話?」
「それは、遥くんしか分からないよ」
「あの夜のことなら、あいつが自分で解釈してた通りだよ。僕に説明することなんかない」
「会いたくないのか」
「………、僕が行ったら、あいつまた切れるよ」
「遥くんが、自分で悠芽に話があるって言ったのよ。会ってあげてほしいの」
「いつ?」
「明日にでも」
 僕は箸を持ち上げ、麺をすすった。麺にかかるスープの酸味を、たまご焼きの甘みやきゅうりの水気が中和している。
 明日。明日は希摘のとこ行くからダメ、と言ったところで、あさってになるだけの空気だ。
 遥が僕に話がある。和解とか譲歩とか、状況がマシになる話ではないだろう。ケチをつけてくるならありうるが、だったら進んで聞きになんて行きたくない。
「遥って、さ……どうなの? 帰ってくるわけ」
「まだ聞いてないわ」
「あいつ、ここより病院のがいいって言ってたよ」
「あれは、感情が昂ぶったところもあっただろうし」
「かあさんたちは、遥に帰ってきてほしいんだ?」
 かあさんはとうさんを見て、「悠芽は帰ってきてほしくないんだな」ととうさんが引き継ぐ。
「どっちでもいいけど。事あるごとに僕のせいになるのは嫌だよ」「誰もそんなこと責めてないだろう」
「医者が責めてるよ」
「そんなこと──」
「目とか口調とか、分かんないの? 敵意すごいよ。ほっといたらほっといたで、あの人たち文句言うし。どうしろっつうわけ」
「悠芽」
「医者に頼らなきゃいけない時点で、僕たちはろくに家族じゃないんだ。というか──帰ってきて、結局つらいのは遥だ、ってことにならない?」
 とうさんたちは口ごもり、僕は氷の浮かぶ麦茶を飲んだ。行動では何もできないくせに、相変わらず僕は口先はえらそうだ。冷たさで胸を鎮めて謝罪すると、とうさんたちは僕を見た。
「悠芽が……遥くんに会いたくないなら、無理も言えないが」
「………、別に、どっちでもいいよ。遥が僕を呼んだことで、問題を起こさないなら」
「遥くんが悠芽を呼んだんだ。何があっても、悠芽は悪くない」
 僕はグラスを置き、正面のとうさんを見つめると、「分かった」と小さく肯諾した。両親は顔を合わせて安堵し、僕は無言で麺を食べる。また希摘に愚痴んなきゃいけないな、と早くも親友に申し訳なくなりなる。遥に面会する義務感は、やはり胸を暗雲で騒がせた。
 そうして僕は、蝉の声もすたれてきた八月下旬間近の水曜日、とうさんは仕事なのでかあさんに連れられ、遥がいる病院におもむいた。
 高速道路を使って県境も越え、車で二時間もかかる場所だった。市街地をずっと離れた辺地で、騒音もなく、夏の日射しにさざめく緑に囲まれている。かなり規模の敷地で、環境は良さそうだった。
 いくつも建物があり、かあさん曰く、心傷治療や薬物治療に病棟が分かれるだけでなく、食堂や遊戯場、リハビリ施設や隔離施設も完備されているらしい。僕の家に来るまで、遥が通っていた学校もある。
 駐車場を出て、すぐそばに総合病棟があった。正面玄関は植木に守られたしっかりした造りだったが、病院内は普通の病院と差はなかった。窓口があり、待合室があり、自販機がある。
 ここは入院患者ばかりでなく、通院患者も受け入れているそうだ。何列もの待合室の椅子には、瞳を虚ろにした人、ぶつぶつとせくぐまる人、付き添う人に落ち着かない手足をなだめられる人──見つめていると、「悠芽」と窓口にいたはずのかあさんに呼ばれ、ついで奥をしめされた。
 合流した事務の女の人が僕を通したのは、面会用の部屋だった。学校の客間など、比ではない。広く、テーブルもソファも品が良く、ブラインド越しに日射しが床に落ちている。観葉植物が四隅に置かれ、左右の壁には森や湖の絵がかけられていた。全体的に、色が優しい。病院の消毒臭さもない。静かで、エアコンが効いて蒸し暑くも肌寒くもなかった。
 女の人にうながされ、僕は綿製のふかふかのソファに腰かけ、かあさんはその右に座る。今は空っぽのテーブル越しのソファに、気の進まない、吐き気の前兆のような息苦しさを覚える。
 医者は、簡単に僕に遥を会わせなかった。出されたお茶をすする僕に、遥が失踪したときに会った記憶のある男の主治医のひとりが、遥を連れてくる前に厳重注意してきた。
 遥を逆撫でないこと、遥を傷つけないこと、遥の安定を揺るがさないこと──そこで「安定してるんですか?」と素朴な疑問をぶつけると、白衣を着た医者は口ごもった。そうでもないらしい。
 まあいいや、と僕が従順にうなずいているうち、「では、呼んできます」と医者はソファを立って部屋を出ていった。
「結局、問題が起きたら僕のせいになりそうだね」
 ブラインド越しの日射しを見ながらつぶやくと、身なりを整えたかあさんは気まずく口をつぐんだ。正直うんざりしても、この期に及んで逃げ出すこともできない。
 話がしたい。本当に遥の意思だろうか。僕のせいでめちゃくちゃになったとか言っていたのに──思い出しても気分が陰るあの夜を思い返していると、ノックがしてかあさんが振り返った。
 続いて僕も振り返る。さっきの医者のあとに、紺のフリーツの上着を羽織った遥がついてきた。下は黒いパンツで、足元はスリッパだ。ひそかに予想していた、手枷や足枷などはない。
 あの日以来、二週間ぶりだった。うなだれて長い前髪に顔を隠し、心なしかやつれた。前髪の隙間で、遥は怯えるような、でもトゲのような瞳を僕にじっと向けた。
 遥に対しての医者の態度は、腫れ物相手だ。わずかに足元がおぼつかない遥を、正面のソファに誘導して座らせる。
「おばさんはいたほうがいいかい?」
 医者の質問に、遥はかあさんを一瞥して、首を横に振った。前髪がばらついて、表情にさらに見づらくなる。医者はかあさんに顔を向け、かあさんはうなずいて荷物を手に立ち上がると、僕の肩に手を置いて事務の人と出ていった。
 医者と二対一か、と不利な状況に内心で渋面していると、「先生はどうしようか」と医者は続ける。遥は医者には一瞥すらせずかぶりを振った。「分かった」と医者は食い下がらず、「終わったら、廊下におかあさんにいてもらうから」と僕を見ると、室内をふたりきりにした。

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