野生の風色-55

悪循環

 遥との共同生活は、そうして、両親の緊張と僕の淡白の中で再開した。予定通り、遥は学校には行かず、制服や教科書、学校関連のものはすべて部屋から排斥された。
 夜遊びにも行かなかった──行けなかった、が正しいだろうか。遥の薬物摂取は、さいわい度重なるものではなかったらしい。それでも、医者は両親に強く注意するよう言った。眠っているあいだに遊びにいかれてました、では済まない。夜中、両親は一時間ごとに遥の部屋を覗きにいった。ひと言でいえば、監視だ。
 それでも、やろうと思えば、抜け出せたかもしれない。しかし、遥はどこにも行かなかった。無気力状態が強いのか、悪さをすれば病院送りなのが牽制なのか、部屋に落ち着いている。
 それなら、以前通りで不思議はなかった。遥はあくまで部屋に落ち着いているのであって、引きこもりはしなかった。つまり、食事のために一階に降りてきたり、リビングでテレビを眺めたりはするのだ。
 僕の隣で、夕食を食べたりもする。口はそんなにきかないし、前髪に陰った顔は無表情だ。でも、そういう、僕たちと関わる場にみずから踏みこんでくることは、以前の遥にはなかった。
 学校から帰宅してリビングを覗くと、かあさんが洗濯物をたたむ隣で、ドラマの再放送を眺めていたりする。そんな遥に直面するたび、僕の胸には、どうも怪訝という斜影が垂れこめた。
 はっきり言って、胡散臭かった。これまでがこれまでだっただけに、あっさりおとなしくなるのは不気味でしかない。何か企んでるんじゃないかと思っても、両親は僕の猜疑をたしなめる。
 ふたりは、病院の治療で遥が安定したと解釈しているようだ。カウンセリングではだんまりだったのに、医者が遥に何ができたというのだ。もしかしてめちゃくちゃ強い薬とか出されてるのかな、とも思ったが、服薬の様子もない。
 いろいろ怪しんでも、僕は遥についてどうこう意見するのもやめていた。両親の説明に「そうだね」と手っ取り早くうなずいて、懐疑すら捨てる。僕は遥が来たら入れ違いに部屋にこもり、徹底的に遥の命令通りにしていた。
 何となく、分かっていた。遥は、両親を僕ほどには憎んでいない。両親なら、別に関わってきても嫌ではないのだ。僕が関わってくるのが嫌で、以前の遥は部屋に引きこもっていた。
 だとしたら、遥の行動の原理をほどくのはたやすい。現在、僕は遥に無視を決めこんでいる。遥は僕と関わらずに済む確信によって、一階や食卓に混ざれるようになったのだ。
 遥に関しては、何も気にしないよう努めていた。でも、そんなふうに思われるのは、それなりにつらかった。遥に好かれたいわけではなくても、そんなにくっきりと嫌われると、心がちくちく重くなる。
 僕も遥を嫌いになれば、せいせいするだろう。そう思っても、嫌いになるなんて、好きになるより感覚的で意識して実行するのはむずかしい。遥に拒まれていることにいらつこうとしても、僕の心は、癪に障るより早く哀しくなった。
 両親が僕の機微に気づいているかは謎だ。ふたりは遥に必死だった。遥のご機嫌を損ねないのに心血をそそぎ、僕のことはいささかないがしろにしている。完全に投げうっているのではなくとも、天秤は水平ではなかった。関心は遥に流れがちだ。
 遥が僕を受け入れないのは僕がそっけないせいだとか、なるべく遥に庇護を、僕に非難を向ける。僕より遥を愛しはじめたわけではないと分かっている。僕への信頼には余裕があるので、この場合、それに甘えているのだろう。頭では分かっていても、僕は初めて、頭の認識と心の感情が疎通しないもどかしい痛みを知った。
 遥の精神が何かの拍子で砕け、鬱や暴発状態が来るときもあった。落ち込んだときはかあさんが付き添う。暴れたときはとうさんがなだめる。それでずいぶん、闇や炎が無軌道に蔓延るのを食い止められた。
 僕はそれにいっさい構わなかった。隣の部屋が無音でも放っておく。隣の部屋で破壊音がしてもヘッドホンをかぶる。僕がそうしても、何の支障もなかった。遥の乱れた精神は、両親の介抱で落ち着く。遥は僕と溝を深め、そのぶん両親に警戒を緩めていった。
 両親は、遥のそんな変化を単純に喜んでいる。僕が何をしても聞き入れなかったくせに、両親の介護には遥は素直に心を開いている。嫉妬はなくても、それだけ彼に嫌われていると思うと瞳が沈んだ。
 両親は見えてきた遥との関係の光に根気を得て、いっそう彼に尽くした。僕は家にいると虚勢が増え、その演技はみじめなぐらい窮屈だった。部屋に逃げこんでも、疲労にのしかかられて、僕は学校や希摘の元にさっさと逃げこみたいようになっていった。
「今の遥くんなら、悠芽も受け入れてもらえるかもしれないぞ」
 鬱に沈殿した遥は、その日はかあさんと部屋で夕食を取っていた。柔らかい匂いのシチューのテーブルで、それぞれ隣を空席にしながらとうさんは僕にそんなことを言う。
 僕もそこそこ現代っ子だ。こらえ性には富んでいない。自分を放置し、遥にのめりこみ、間柄の絶望性を無視して楽観的にくっつけようとする両親に、反感を形成していた。
「なれないよ」
 ロールキャベツのかんぴょうを取りながら、陰気な目を普通に繕って、僕はとうさんを見る。
「夏休み前の遥くんとは、だいぶん違う」
「僕が関わってこないせいでしょ。訊いてみれば?」
 かんぴょうはホワイトシチューに浮かばせ、ロールキャベツにフォークを突き刺して食べる。煮たキャベツは甘い。
 以前の遥じみた不吉な雰囲気を発する僕に、とうさんはやりきれない息をついた。
「悠芽は、遥くんが嫌いか」
「遥が僕を嫌いなんだよ」
「その遥くんの気持ちを変えさせてみようとは──」
「したよ、たくさん。全部ダメだった。僕が仲良くなろうとしたんで、遥は不良みたいになったんだ」
「悠芽──」
「僕は、とうさんたちみたいにうまくできないんだよ。無理するのはやめるって決めたんだ。無理したって、遥にも無理させるだけだって分かったから」
 ロールキャベツに咬みつく僕に、とうさんはシチューに手をつけず、あきらめきれない視線をそそぐ。僕はロールキャベツを胃に押し込むと、「遥と仲良くなってほしい?」ととうさんを正視した。
「ああ」
「それって、欲張りだと思うよ」
「欲張り?」
「遥に不良になってほしくないでしょ」
「まあな」
「それなら、今の状態が維持できればいいんじゃない? さらに僕ともうまくいかせようなんて、そんな、一気に全部よくなるのは都合よすぎるよ」
「………、」
「上ばっか見てたら、かえって落とし穴に堕ちるよ」
「……まあ、そうだが」
「今のままでいいんだよ。今のとこはね。僕は遥をほっといて、とうさんたちが気にかける。それで遥が落ち着いてるのが事実なんだ。僕は平気だから」
 とうさんは僕を見つめ、「そうか」とスプーンを取った。僕は微笑み、ため息は吐き気をこらえるように押し殺す。
 僕は平気? そうだろうか。遥とは沈没的で、両親はそちらに構いがちで、僕は家庭で孤立しつつある。
 それが平気なのか。分からない。平気でいようとはしている。だから、ちょっとはきついのだろう。本当に平気なら、平気でいようと努力したりしない。
 家があまりくつろげる場所でなくなり、僕の居場所は外部になった。学校でも殻は脱げるけど、やはり教室は多少の気づまりもある。くつろげる場所は、自然と希摘の家になり、僕は親友の隣でのびのびと深呼吸した。
 希摘がいるおかげで、今度は僕はグレるような事態にはならなかった。けれど、希摘がいるから僕は大丈夫だろうと、両親はますます遥ばかりに構う。そんな悪循環はできあがっていった。

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