襲う嵐
「遥!」
遥の部屋は、明かりはついていても、平穏だった。相変わらずがらんとして、何かが破壊された様子はない。遥もいない。定着した匂いはあっても気配もなく、小雨のささやきだけが響いている。
一瞬拍子抜けた僕の耳に、小さい物音が届く。遥の部屋ではない。僕の部屋からだった。
僕の部屋から、明かりはもれていないけど──まさか、と引いた血の気に冷たいめまいを覚え、遥の部屋を開け放ったまま、僕は自分の部屋のドアを乱暴に押した。
スイッチをたたく。明かりがつく。真っ先に目に入る正面のベッドが、乱れていた。ふとんが引きずり落とされ、シーツが剥がれ、まくらが消えている。ベッドスタンドの時計やポストカードブックは乱暴に床にはらわれ、マットレスには、カバーを脱がされた漫画が無数に投げ出されていた。
首を左に捻じると、もっとひどかった。ガラス戸にかかっていた制服が、ハンガーから剥がされて床に引き裂かれ、中央では椅子が引っくりかえって、電気スタンドはフローリングにたたきつけられている。教科書やペン立ても床一面に薙ぎはらわれ、キャスターつき本棚が引き出されて、空の本もめちゃくちゃになっていた。
漫画の本棚も隙間だらけで、その奥でゲームのハードが裏返しになってコントローラーも投げうたれている。CDロムのケースや中身もばらまかれ、クローゼットも開かれて引っかきまわされ、そのクローゼットとCDロムのラックのあいだで、遥が身を縮めていた。
「てめえ、いい加減にしろよっ」
床に散らかるものは足蹴にして駆け寄る。遥は素早く身をひるがえし、白熱燈をぎらつかせるものを僕に突きつけた。
裁ちばさみだった。家庭科で購入させられたものだ。
遥は泣いていた。頬や喉元、胸元が涙にくしゃくしゃになって、口元は呼吸をこわばらせている。まだ湿る瞳は強かった。燃え上がる憎悪はなくも、鎧をかぶったように強い。
はさみを握る手は、食べ物にべとついていた。雨音から隔離された張りつめた緊迫に僕は唇を噛み、かかとに当たったスタンドを、素早く取り上げた。
「何なんだよ」
過ぎた加熱に、頭の中は真っ白に凄涼だった。麻痺した感じがする。切断された神経がショートを起こしている。
「何が言いたいわけ?」
振りかざすとき、コードが邪魔なので、ぶちっと引き抜いて床に投げ捨てる。
「僕が親みたいに、お前の演技にだまされると思ってんのか」
遥の瞳が、もろい硬さに変化していく。僕が一歩、にじり寄ると、遥は肩をわずかにこわばらせて後退った。
「何ビビってんだよ。演技だろ。鬱陶しいんだよ。僕は親みたいに、お前になびいたりしない」
裁ちばさみをつかむ、遥の汚れた手は震えていた。袖口がめくれ、左手首の包帯が取れていることに初めて気づく。震動に合わせて、遥の腕は縮み、僕へと向かっていた刃が頼りなく落ちていく。
「分かってるって言ってるだろっ。とっとと突っかかってきたらいいじゃないか。僕は、お前を可哀想だと思ってる大人じゃないんだよっ」
僕のきつい大声に、遥の軆はびくんと痙攣し、がしゃんっとはさみは床に大口を開いて落ちた。遥は剥いた目から、涙をぼろぼろと流す。隅に後退して、発作のごとくおののく軆をせくぐまらせる。腕で頭をかばって、喘ぎのような虚弱な声をもらす。
僕は眉をゆがめて、殺意に近いいらだちにスタンドを握った。何なのだ。それは演技か、本心なのか──。
「……ごめんなさい」
「……え」
「ごめんなさい。もうしません。怒らないで。たたかないで」
「………、」
「もう、何も言いません。おとなしくしてます。悪い子です。ごめんなさい。ごめんなさい。たたかないで……」
「……ふざけんなよ、いい加減にしろっ。広田みたいに引っかかったりもしないんだよっ! そんなに僕をバカにするのが楽しいのかっ」
スタンドを振り上げた。明かりがさえぎられた。遥は悲鳴を上げて、床に這いつくばった。
床に顔を押しつけて、頭をわななく手でかばい、背骨を剥き出しにして柔らかい部分をぎりぎり守る。生々しく全身が震駭し、嗚咽をどうにか静かにしようと呼吸を抑えている。
とまどいに心臓が彷徨い、抜けた力に僕の手からスタンドがすべり落ちた。はっとしたときは、ひどい音を立ててそれは床に砕け散った。それをかき消すような悲鳴を上げた遥は、身を床に押しつけて何とか隠れようとする。
「遥……」
「ご、ごめんなさい。僕のせいです。ごめんなさい。たたかないで」
「遥」
「ごめんなさい。僕が何も言わなかったらよかったです。嫌、痛い。ごめんなさい。もうおとなしくしてます。お願いします。僕なんか死ねばいいです。分かってます。ごめんなさい……」
僕は、そろそろと遥のかたわらに歩み寄り、しゃがんで彼の肩に触れた。遥の軆は打たれたように震え上がり、何とか身を守ろうと、手足で窮屈に軆を縛る。
僕は腕に力をこめて、無理に顔を上げさせた。遥は僕に抗おうとしたものの、起こさせるのもばたつきを制するのも簡単だった。遥の手足は、脱力した上にがくがく震え、力が抵抗に統一されず、無力に等しかった。
遥は子供っぽく目をつぶり、それでも涙をどくどくと頬から顎、喉元に垂れて服や床に飛び散らせている。顔は前髪にもつれるホコリに汚れ、うめく口は息遣いを引き攣らせている。
名前を呼んでも声をかけても、強い声を使っても優しい声を使っても、クローゼットに追いつめられる遥は、いやいやをしてうわごとを口走る。顫動でからまわる手足で僕を押しのけようとし、僕はどうしようもなくて、歯噛みする。
遥の左手首をつかむ僕の右手は、あまった力と遥の震えに小刻みに揺れていた。それを一瞥した僕は、考えるより遥の手首を離すと、その手で思い切って彼のびしょ濡れの頬を引っぱたいた。
投機だった。逆効果か。さもなくば──
遥は目を開いた。黒い瞳に僕が映った。ものすごい恐怖が焼きついた瞳だった。深くて、傷んで、そんな傷口を持つには明らかに不条理に幼い瞳だ。
僕はその瞳を見据え、本物だ、とようやく確信を持った。
遥も僕の瞳を見つめた。見つめているうち、僕の瞳を飲みこむように恐怖はほどかれていく。錯乱していた呼吸も、閉ざされていくように収まり、怯えた震えも鎮まっていく。
「遥……」
「……悠芽?」
少し、どきりとした。遥に名前を呼ばれたのは初めてだった。けれど、返事を遅らせて遥の心の陰りを入れてはならなかったので、「うん」と僕は声にも出してうなずく。
「僕だよ」
僕の返事に、遥はもう一度喉を開き、ずっしりした息を吐いた。僕も息をつき、知らずに早くなっていた鼓動が、左胸へと落ち着いていくのに気づく。
衝撃がじんじんと名残る湿った手を握り、胸に押しつけた。遥はクローゼットに重くもたれ、骨が折れたように首をぐにゃりと垂れた。僕はなおもぽたぽたとする遥の涙を見つめ、病気は病気なんだな、と彼の傷口のむごい深さを知った。
遥の心には、いまだに凄まじい裂け目が横たわっている。もちろん、僕の嫌味のせいもありうる。けれど、もしかしたら親をなびかせるため傷を操作していた、負担の爆発とも考えられる。
そんなにべたべたと血を流す傷をあやつるなんて、尋常でない精神力の浪費だっただろう。傷が暴れるままになっていたほうが、どんなにマシだったか。遥はゆがんだ傷をさらにゆがませ、苦痛に苦痛を重ねていたのだ。
利用するたび、蓄積する痛みや疲れはないがしろにし、まだ包帯を巻いておくべき傷を細菌も舞う風にさらしていた。そこまでして──僕を憎んでいた。
僕は瞳を半眼に傷めて、視線を下げた。スタンドの電球が割れ、足元に鋭い破片が転がっている。
部屋を見返ると、ひどい有様だった。片づけは数時間で済みそうにない。一階も片づけないと、宿敵の黒い奴だって冬眠していない時期だ。僕は長い吐息で、冷静な声を出せるよう喉をこしらえると、遥に顔を上げた。
「遥」
遥は前髪は揺らしたけれど、顔を上げようとはしない。
「ちょっと、休んだほうがいいよ。僕、別にそばにいたりしないから」
髪とホコリにべとべとの頬に雫を流しながら、遥は小さく顔を上げる。
「片づけも、静かにやるよ。とうさんたちには、言ってほしくなければ──」
「あ、頭の中では」
「え」
「頭の中では、冷静、なんだ。全部、分かってるんだ。次、何をするかって、分かりながらしてるんだ」
「………、」
「こんなのしても、意味ないって、それも分かってる。こんなことやって、壊しても、いらいらは取れないって。こんなのしてどうなるんだよって。やめようと思うんだ。でも、やるんだ。やってる。やらなきゃいけないから」
僕はいくらか沈黙に雨音を置き、「やらなきゃいけない」という言葉を拾った。「分かんないけど」と遥は泣きそうな声で訴える。
「そんな感じなんだ。やりたくなくても、やってもしょうがなくても、やらなきゃいけないから。壊すんだ。壊したらどうかなるかもって、そんな感じもして、なるわけないって思うのはそれに負けて、やらされるんだ。だから、分かっててもやるんだ」
「………、それで、落ち着くの」
「お、落ち着くときも、ある。ならないときも。怖いんだ。しなかったら、自分の中に殺されそうで」
遥を見つめた。遥は口を閉ざしてうなだれた。言葉と昂ぶった息遣いが、口の中にしおれていく。僕はいったん床を向くと、「僕、しばらくは一階片づけてるし」と腰をあげた。
「動くのだるいなら、ここにいてもいいよ。僕のベッドに寝ててもいい」
「一階……」
「あれ、ゴキブリとか出るかもしれないし」
「……ひとり」
「ひとりになりたいでしょ」
「嫌だっ。怖い。もう、ひとりはやだ」
震える声に遥の涙がどっと増え、狼狽えた僕は、「じゃあ、一緒に一階行く?」と訊いてしまう。当然かぶりを振られると思ったが、遥は裏切って、取りつくようにうなずいた。
僕の胸には、困惑から猜疑が発芽しそうになる。
しかし、よく見ると、遥の瞳は朦朧としていた。きっと、今、彼の脳内には血が氾濫し、僕を自分が渾身で憎む相手だと識別できない混沌にあるのだ。誰でもいいから誰かにいてほしいだけで、僕だからほっとしたわけではない。
そう思えば納得できて、僕は丁重に長袖の腕を取って、遥を立ち上がらせた。おぼつかない脚に、その腕を引きながら、僕は彼と一階に降りていく。
【第六十二章へ】