野生の風色-62

風の色

 改めて来ると、明かりがつくままのそこは、ひどい臭いだった。
 ぐっちゃりした異臭がダイニングからリビングへと湿気に充満し、僕はとっさに眉を顰めてしまう。ぐずる遥は、内界が重たいのか無反応だったが、雨だろうと窓を開けて風を通さないと、空気や壁に臭いは染みつきそうだ。
 僕は遥をテレビの前のクッションに座らせると、留守電が待機する電話を置くチェストの真上の窓に歩み寄った。食べ物の惨殺に驚き、カーテンも閉めていない。
 レースカーテンをめくると、暗闇の中で小雨は弱々しく芝生に降りそそいでいた。僕は、ぼんやりしている遥を振り返る。
「窓、開けていいかな」
 にぶくこちらを向いた遥は、僕を見つめて、小さくこくんとした。僕は鍵を開けて窓をすべらせ、網戸はかけてカーテンは開けっぱなしにする。覗かれたって、やましいことをするわけでもない。
「テレビつける?」
 ほかの窓も開けると、僕は遥のかたわらに戻って、そう問うた。僕に殴られた左頬をほてらせる遥は、涙は止まりかけていても喉の震えは残している。僕の質問にはかぶりを振り、子供っぽく膝を抱えた。
「そ。じゃ、きつかったら、横になってもいいからね」
 遥がうなずいたのを見ると、僕はふうっと息を吐いて気合いを張ると、掃除に取りかかった。
 食べ物の匂いも、雑多に入り混じると、こんな胃物じみた臭いになるのだ。置いておくだけ、虫には甘い香りとなるのだろうが。黒いのたかってないよな、と僕は嗅覚を殺してテーブルや床をざっと確認する。
 大丈夫そうだ。ほっとしてカレーの沼を飛び越え、棚にあるもので掃除を始めた。
 魚、煮物、パン、すべてビニール手ぶくろですくって、ゴミぶくろに入れる。魚とか煮物を手づかみするのは変な感じだ。カレーはほぼ汚物に見えた。香辛料が鼻をつき、胃を酸っぱく刺激される。手ぶくろがぎとぎとになると、新しいものにつけかえ、僕は黙々ともう食べられない食べ物を拾っていった。
 ときおり背後を見ると、落ち着いた遥は、うなだれたり窓を見ていたりしていた。そういや暴れたあとに真っ暗に泣き出すのがなかったな、と僕は味噌汁の具もつかむ。でも、怯えることで剥き出しにはなっていたし、詐病ではなかったと思う。
 手でかきあつめられるものはゴミぶくろにやり、生ゴミの日に出そうと口をしっかり締めた。次は、陶器やガラスの破片を慎重に集める。カレーと味噌汁の鍋は、ひとまずシンクにやった。そして、床を洗剤で拭き掃除だ。
 夏にはぬるかった水道水は、冷たく響くようになっている。絨毯なんか引いてなくてよかったな、と思ったが、いずれにしろ布製のテーブルクロスは、洗濯するほかなさそうだ。磨いた床に立った僕は、味噌汁がたっぷり染みこんで臭うテーブルクロスに息をつく。
 一万円札は、味噌汁の色になって乾からびていた。トイレに落ちたみたいにつまみあげ、僕は白熱燈に透かし見える福沢諭吉に何とも言えない眇目をする。これはもう、受け取ってもらえなくて使えないだろう。
 皿の破片を案じて掃除機をかけたり、鍋を洗ったり、雑巾を洗ったり、掃除の片づけが続く。慣れない仕事で手間もかかり、ダイニングに暴動の痕がなくなったのは、零時過ぎだった。
 ひと息ついたのも束の間、僕の部屋だってものすごいのだった。もうやだ、と泣きそうになり、あれは明日やろうと決める。制服も破られていたので、どうせ学校には行けない。いや、このあいだ冬服が出されていたか。
 何にせよ、テーブルクロス同様、制服が破れたのなら両親に事を話すのは避けられない。一応遥にも断っとこう、と遥を見ると、彼はいつのまにか横たわって、クッションに頭をうずめていた。
「遥?」
 明かりの元で遥の背中は身動ぎし、起きてるのか、と僕は彼に歩み寄る。外では風が起きはじめ、網戸が非力な音を立てていた。それでも、空中に臭いは残っていたので、窓は開けたままにしておく。風が雨の生温さを奪って、リビングは半袖の腕には寒かった。
「お腹空いてない?」
 遥に僕に背を向けるまま、首を横に振った。「そう」と僕は自分の胃をさする。
 食べ物はゴミとなってしまった。デリバリーを取るには金は味噌汁色だ。キッチンに戻ると、炊飯器のごはんが無事だと発見した。僕はふりかけごはんを食べる。
 それから遥をかえりみると、引き出しをあさって、インスタントで雑炊をこしらえてみた。水を入れすぎたのか、初めはどろどろだったが、煮込んでいたら蒸発してそれなりにまとまった。匂いも味も悪くなく、遥がお腹空いたらこれを食べさせようと火を止めた。
「部屋で休んだら?」
 放置されていたリュックを取って遥の脇にしゃがむと、遥はぐったりとした動作で僕に目をやった。
「僕、今日、ここで寝るしさ」
「……何で」
「部屋がめちゃくちゃだもん。明日、学校休んで片づけるよ」
「………、ここにいる」
「じゃ、僕が遥の部屋で寝ようか?」
 遥は僕を見つめたのち、ごそごそと身を縮めて沈黙に没した。その挙動が述べるものに、僕は臆して口ごもったものの、「じゃあ、遥のふとんも持ってくるよ」と素直に立ち上がってリビングをあとにした。
 階段は少し蒸して、雨と風が不穏に暗闇を吹き抜けていた。せっせと使って、だるさが垂れさがった足でのろのろと階段をのぼる。
 遥に対して、真っ白になったのがよぎった。あんなのになったのは、初めてだった。自分にあんな面があるとも知らなかった。
 しかし、それも遥の聖域の表出に喪心してしまった。砂漠のような密林のような、安心できない聖域だった。
 僕のせいなんだろうな、と瞳が虚ろに泳ぐ。遥に憎しみなんて持たせたのは僕だし、いらない精神力の浪費をさせたのも僕だし、今日それを爆発させたのも僕の嫌味だし。やっぱ僕と遥ってダメなんだな、と吐息を陰らせ、僕は着いた部屋のドアを開けた。
 つけっぱなしの白熱燈が照らす惨状には、やってくれたよなあ、と怒るだけ疲れる想いに、かえってあきれる。リュックは崩れたベッドに置き、空の本は大切に集めておいた。
 さいわい、放られているだけで、破られたりはしていない。ハードカバーで装丁がしっかりしたものが多いので、とっさに破ろうと思わせなかったのだろうか。
 椅子を起こしたり、電気スタンドを隅にやったり、雑な片づけもすると、僕は思い出して制服を拾ってみた。
 スラックスは無傷で、開襟シャツにはさみが入れられていた。握っていた裁ちばさみだろう。夏服のシャツは二枚あるので、もう一枚が和室に洗濯物としてたたまれているはずだ。
 でも、明日は学校に行かない。遥を放っておくのが怖かった。明日様子を見て、あさっての登校も決めよう。
 すべて薙ぎはらわれて、のっぺりしたつくえに制服を寝かせると、僕は毛布を抱えて、遥の部屋に行った。こちらの毛布も抱えると、ドアは足で閉めて一階に降りる。
 僕と遥は、リビングの絨毯の上、クッションをまくらにして並んで寝ることになった。修学旅行みたいだな、と思う。
 だいぶ抜けた臭いに、僕は窓を閉め、作った雑炊を食べるか遥に訊いた。うなずいた遥がそれを食べているあいだに、シャワーで汗を流す。遥と自分の茶碗を洗うと、歯を磨いて、先に毛布をかぶっていた遥の隣に敷いていた毛布にもぐりこんだ。
 疲れていて肢体は脱力していても、頭と目は妙に冴えていた。神経が興奮しているのか、いつものベッドではないせいか。毛布はいつもの匂いなんだけどな、と身を丸めると、絨毯だけの床が骨にちょっと痛かった。
 静かだった。外の雨と風は遠く、息遣いしか聞こえない。ただ、自分の心臓の音が、絨毯をつたって全身に聞こえる。遥の気配のせいかな、と無意識に背を向ける遥を意識したとき、低い寝返りが聞こえた。
「……悠芽」
「……ん?」
「俺は、人間の中には風があると思うんだ」
「え、……風」
「俺の中にも風があって、その風が変になったとき、あんなふうになる」
「変」
「俺の風は、嵐とか吹雪とか、蒸し暑いとか冷たいとか、そんなんだけだ。……死んで、止まったほうがマシな風ばっかりなんだ」
 僕は毛布の中で、軆ごと遥を向いた。遥が仰向けになっているのが、潤いに光る遥の瞳が天井を向いているので見取れる。
「俺の家は、監獄みたいだけど、野生の草原みたいだった」
「草原」
「何にもない。猛獣がいるだけ。風が抜けてる。そこに俺は突っ立ってるんだ。誰も守ってくれない。気を抜けば、殺されて食われるだけ」
 遥の瞳は、ほとんどまばたきもしない。
「武器も味方もなくて、ゆっくり眠れない。肉食動物に囲まれた草食動物だった。親は爪とか牙とか持ってる。俺にはない。地平線しかない、気が遠くなる草原を逃げて、逃げて、隠れて、息切れだけ鎮めたらまた逃げる。休まるときがない。いつも神経質に張りつめて、生活のほとんどは敵を逃げること。死なないために生きて、周りはただひどい風が抜けてる。野生の中で、風って不安なだけで、ぜんぜん優しくないんだ」
 遥は向こうを向いて、肩を狭めた。息をひそめる僕は、暗闇に慣れた瞳で毛布のかかった遥の広い肩を見つめる。
「お前の風は」と遥は雨風に紛れて、聞き取りにくいほど小さい声でいった。
「……いい風だな」
「えっ」
「そよ風だ」
 僕の凝視に、遥は口をつぐんだ。毛布に身を隠し、僕も黙りこむ。
 狼狽えていた。そよ風。それは、単純に褒め言葉だろうか。のんきだという嫌味だろうか。
 遥の性格なら後者でも、話の流れから言えば前者だ。でも、遥がそんな言葉を僕に贈るなんて、信じられなかった。遥の無口な背中を見つめ、緩く仰向けになって動揺を鎮めると、複雑な気持ちで体温が移った毛布に軆をなじませた。
 遥が心のうちを形状する告白をしたのも意外だった。風。野生。言い得ていると思う。虐待された人は、家を監獄のようだったと言ったりする。けれど、監獄は閉じこめられているだけだ。監獄の中で行なわれることは、まったく正反対に、猛獣ばかりの野生の草原に放り出されるようなものなのだ。
 誰も守ってくれない。不安も恐怖も計り知れない。気が遠くなるように何もない。すべてが思いがけない。自分より力を持った者に対し、無力に逃げ隠れするしかできない。どんなに耐え抜いても、暴れるような風が、胸を虚しく穿つばかりで──
 たとえ草原を抜け出しても、受け続けた風の色は胸に染みつくだろう。そして、嵐や吹雪となって暴れまわり、いっそ死によって風色を凪に鎮めたくなる。
 僕の風色は、確かにそよ風だ。今はやや荒れていても、本質的に僕の風は優しい。両親に愛情をそそがれ、友達もいっぱいいて、不自由なくぬくぬく暮らしてきた。「人間」として、心も自尊心も尊重されて育ったのだ。
 遥はひとりぼっちで、構われても虐待で、心も自尊心もずたずたにされてきた。生きることだけに神経をそそいで、潤いをあきらめながら育った。
 遥の野生動物のようにかたくなな灰色の瞳は、錯覚ではなかったのだ。遥は野生の風に犯され、本能的に流れる心の風色も恐ろしいものにしてしまった。
 以前、遥は僕には自分の気持ちは分からないと言った。あれはよくある台詞をたどったのではなく、深い意味をこめて言ったのだろうか。僕のそよ風を感じ、絶対的な隔たりを感じた。遥の言う通りだ。僕には遥の心は分からない。遥に吹き荒れるひどい風色は分からない。理解するには、僕の心の風色は穏やかすぎる。
 雨が風に乗って窓をたたく音に、遥の寝息が重なる。僕は遥を見た。暗がりには、毛布と後頭部しか見えなかった。
 同情はなくても、何だか、哀しくはあった。なぜ遥の心には、そんな風が寄生しなくてはならなかったのだろう。遥には、そんな仕打ちを受ける必要はなかったはずなのだ。なのに──
 僕は息をつき、身動ぎして馴染む匂いに軆をくるめた。毛布の中は、体温に温かくなってきている。それに心を休めて、遥の寝息に耳を澄ますと、「おやすみ」と何となくつぶやいて、静かに睫毛を伏せた。
 本音を言うと、遥との関係に光を見た気がしていた。何だかんだでも、孤独より僕といるのを選んだし、僕の作った食事も食べたし、一緒の部屋でも眠った。何より、かなり心の中枢に近い告白もしてきた。
 さっぱりとした秋晴れとなった翌日も、遥はリビングでおとなしくしていた。僕は学校には、昨日の雨に濡れて風邪気味だと電話を入れ、荒れ狂った部屋の片づけた。つけおきしていたテーブルクロスの水を替えたり、軒下に干した雑巾を物干しに移したり、こまごまと遥の後始末をこなす。
 その日一日、遥が落ち着いていたので、火曜日は学校に行った。そして、その半日の空白で、ささやかな光は幻想に終わり、関係は元に戻ってしまった。
 つまり、こういうことだ。文化祭の用意に、その日の帰宅はいつもより遅かった。早まる夜に薄暗い中、明日の朝には親帰ってくるんだよな、と遥のことをどう話すかに悩みながら家に着き、玄関のドアを開けた。
 すると、正面の奥の階段に遥が座っていた。「何してんの」とかばんと取ってきた新聞をドアマットを下ろすと、遥はつかつかと僕に歩み寄ってくる。その瞳は硬く冷たく、弱く幼い感触を消し去っていた。
「お前、おととい、俺のこと殴っただろ」
「は?」
「殴っただろ」
「……ん、まあ──」
 言い終えるより早く、頬を強い破裂音と打撃が襲った。遥の平手だった。反射的に頬を抑えて茫然と彼を見上げると、「お返しだ」と吐き捨ててきびすを返し、唖然とする僕を残して、遥は階段をのぼっていった。
 わけが分からなかった。何なのだ。お返し? いまさら何を言う。昨日もおとといも、僕の行動にいらついたそぶりなんて一滴もなかった。むしろ、心を開いたように告白し、受け入れたようにおとなしく──
 それが、なぜいきなり裏返る。今になって、そんな、いったいどんな基準で。
 頬を熱と痛みで痺れさせ、たたずむ僕は、次第に渦巻く困惑を停止させ、もともとの敵意を回転させはじめる。
 しょせん、そういうわけか。遥は僕に対して、あんなものなのだ。身勝手で、気紛れで、昨日もおとといも、演技だった。引っかきまわしたことすら、演技だったのかもしれない。
 バカにしてる。あいつは僕をバカにしてる!
 言葉に追いつかないものがいっぱいにふくれあがり、憎しみというより、瞬発的な怒りで毒々しい顰め面が浮かんで、僕は床を蹴りつけた。スニーカーを脱いで、思わしくない手つきでかばんを取りあげると、遥に抱きかけていた情をかなぐり捨てる。
 風も野生も全部たわごとだ。もう絶対構ってやらない、と僕は今度こそ容赦なく彼を黙殺するのを決意すると、新聞はリビングに放って、どす黒く階段をのぼっていった。

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