野生の風色-63

壊れていく絆

「それって、自分さしおいて、学校行かれたのがムカついたんじゃないの」
 文化祭も過ぎた十月のなかば、僕は希摘を訪ね、遅れた帰宅にかこつけて月城家に泊まっていた。希摘の服を借りてベッドでむくれる僕に、ゲームをする寝起きの希摘はそう述べる。
「何それ」
「何それって、そのままですよ」
「じゃあ何? 僕はあいつの家来? ベビーシッター? いつも侍って、お守りしなきゃいけないの」
「そういうんじゃなくて──だってさ、切れたのだって悠芽が出かけたあとだろ」
「嫌味が腹立ったんでしょ。どうせあんなんやられるなら、もっと言っときゃよかった」
「落ち着きなさい」と希摘はコントローラーを置いて、「ムカつくんだよお」と僕は情けない声を上げる。
「ちきしょう、僕もあいつに親みたく騙されかけたんだ。恥ずかしい」
「そうかなあ。切れたのだって、悠芽がいなくなってたのがショックだったのかもしんないじゃん」
「何で、僕がいなくてショック受けるの? ひとりぼっちが寂しかったっつうの?」
「それもあるかな。つっても、昼間におばさんが買い物とか行ってひとりになっても、暴れたわけじゃないよな。やっぱ、悠芽がいなくなったのが嫌だったんだよ」
「あいつは、僕のことバカにしてるんだよ。憎んでるんだよ」
「バカにしてるとか憎んでるとか、そういう先入観は抜きにして考えなさい」
「先入観じゃないもん。あいつ、くそーっ、もう嫌っ」
 僕はばったりとベッドに伏せって、息をついた希摘は僕を観察した。ベッドには希摘の匂いが強かった。学校帰りにここを訪ねた僕は、さっきまでおばさんと話していて、つまりこのベッドは希摘が起き出して間もないのだ。
 現在、時刻は二十時前だった。気候はようやく秋の心地よさに移り、外の虫の声も活性化している。希摘はあの絵が仕上がって以来、ゲームで息抜きをしているそうで、つくえは整頓されていた。
 僕は身を起こし、希摘のあきれ顔と顔を合わせる。
「俺と君ってさ、つきあい三年半近くになるじゃん」
「……うん」
「そういう君は、初めて見た」
「僕も初めて見た」
「けっこう、遥くんのこと、好きだろ」
「好きじゃないよっ。あんなん、もう、あーっ」
「俺のこと忘れないでね」
「僕のこと嫌わないでね」
「うん」と僕たちはうなずきあって、希摘はテレビに向き直った。僕はベッドに倒れて、まくらに頬を埋めこむ。
「何で僕、遥にああまで嫌われなきゃいけないのかな」
「だからあ、嫌ってんじゃないかもしんないじゃん」
「どこが」
「悠芽がそばにいるあいだはおとなしかったんだろ。離れたら切れた。そばにいてほしいんじゃないの」
「僕がいて何?」
「そりゃあ、悠芽のそよ風に当たってたいんじゃないですか」
「………、遥には、きっと僕のそよ風なんて、のんきで腹が立つんだよ」
 希摘はくたっとする僕を見て、「俺は、遥くんの風の話は本心だったと思うな」とテレビに戻した目を渋く細める。
「そお?」
「揶揄ったにしては、違う感じ。心には風が吹いてると思いますなんて、そんな、大半の奴はキザで笑っちゃうよ」
「そうかな」と首をかしげる僕に、希摘は前髪を揺らしてくすりとする。
「悠芽がそうやって自分の気持ちを笑わないって思ったんで、ちょっと恥ずかしい比喩も言えたんじゃないかな。過去を使ってバカにするなら、前、算数の先公にしたみたいのとか、親にやってるみたいな、可哀想を見せつけるやり方だよ」
「算数じゃなくて、数学ね」
「そんなんはいいの。そういや、そいつのとき、悠芽って遥くんが演技なの見抜いたんだろ。ほんとに演技だったら、悠芽はしっかり見抜いて、スタンド振り下ろしてたよ」
 僕はちろっと希摘を見、「怖いね」と言った。希摘はコントローラーを操作しながら笑い、「殴ってきたのは、心情語っちゃった照れ隠しもありうるな」と主人公に地下道を進ませる。
「でも、あんなんひどいよ。そばにいてほしくて、何でいちいち引っぱたくの? あれがなければ、友達になってたかもしれないのに」
「まあねえ」
「あいつは、僕と何か生まれかけるたびにぶち壊すんだ。これまでも、何回もあった。家出のときも、自殺のときも。つながりかけたって思うと、あいつから糸をちぎる。遥は僕と近づきたくないんだとしか思えないよ」
 希摘は発生した戦闘をこなしていた。「聞いてる?」と軆を起こすと、「聞いてるよ」と希摘は決定を押して攻撃を開始する。
「遥くんは、離れるとそばで築いた信頼が揺らいで、心を開いてる状態が怖くなるのかもな」
「信頼が揺らぐ」
「それが極端なのかも。普通、一日離れたぐらいで揺らぐなんてあんまりないよ。でも、遥くんの不信感ってすげー敏感だろうし」
「……うん」
「俺だって、悠芽としばらく会わなかったりすると、怖くなるときあるよ。忘れられてるかなあとか、俺のとこ来なくてよくて気が楽かなとか」
「……そなの」
「会えば治るけどね。遥くんのそういう、誰か信じるとかいう部分の損壊は、俺の比じゃないだろうし」
 僕は口をつぐんで、考えこむ。魔物は一ターンで全滅せず、希摘は険悪に舌打ちして、パーティの攻撃を設定した。
 そうなのだろうか。遥は僕を信じそうになったけれど、何時間も孤独に置かれるうちに猜疑に犯され、躊躇いがちな試みを打ち切った。いじらしい、という見方も成りたつけれど、つきあわされる側としては、たまったものではない。
 要は、遥は光が灯りかけてそれが本当に道を照らしてくれるか迷うたび、それにわざわざ水をぶっかけて闇にうずくまるほうを選ぶのだ。そう何度も水浸しにさせられていたら、僕でなくとも愛想を尽かす。
 といって、始終遥に付き添うのも無理だ。僕には僕の生活がある。
 そのへんを言うと、「まあね」と戦闘を終えた希摘は、地下道を進んだ。
「そのへんは、遥くんの健闘の問題だね。悠芽がつきっきりになればいいってもんでもないし。遥くんのためにもね」
「遥のため」
「悠芽とべったりになるのは、解決じゃないよ。甘やかしだね。悠芽の言う通り、悠芽には悠芽の生活がある。それを食いつぶす権利は、遥くんの傷にはない。悠芽は、遥くんの傷にしゃぶらせておくおもちゃじゃないんだからさ」
「うん」
「悠芽は、遥くんのそういうのに流されて、つきっきりになる必要はないんだよな。教えたほうがいいのは、待つことかな」
「待つこと」
「悠芽が学校とか行っても、帰ってくるって信じて待てるようになること」
「遥に『待て』って言えばいいの?」
「遥くん自身の耐久の問題だからなあ。周りから『待て』って言われるのは、また反発になるかもしれん。あ、宝箱」
 希摘は入口が壊れた牢屋に入り、宝箱を開けた。僕も覗きこむと、中身は羽の鎧だった。「よっしゃ」と希摘はそれを仲間に装備させ、探検を続ける。
 希摘の意見にも、一理あると思う。遥が僕に心を開こうとしたとして、平手になびいて、言いなりになる必要はなかったわけだ。しかし、遥が僕を信じようとした、なんて正直信じられない。遥の心に僕への好意があるなんて。だって、遥の態度は、両親を味方にして僕を疎外するものにも戻ったのだ。
 両親が帰ってきて、家庭は居心地悪い牢獄に戻った。制服とテーブルクロスの件で、遥が切れたことを黙ってはおけなかった。かくして話せば、あれだけ仲良くしろと言っておいたのにと、僕が責められる結果となった。
 ちなみに、新しい制服は僕の小遣いをさしひいて作るらしい。希摘の家に出かけた自業自得なので、それが正当なのだそうだ。
 それは夕食の席で、遥は隣にいて、彼は無表情に豚肉の生姜焼きをつついていた。「悠芽に放り出されたかと思って、驚いたのよね」と切れたことに関してかあさんに訊かれた遥は、僕を見て、しれっとうなずいた。それが決定打となって、すべては僕が悪者、家は何の変わりもない息苦しい場所になった。
 自分たちが追いつめているのを知ってか知らずか、両親は希摘の家に行き過ぎる僕を見咎めつつある。僕はふたりに、希摘の精神が不安定なのでついておきたいという弁解を押し通していた。希摘にも許可をもらった弁解だ。ふたりはそれを疑いはせず、むしろ信じている。「悠芽が希摘くんを想ってるのは分かるけど」とかあさんは昨日帰宅した僕に言った。
「縛られるように、通わなくてもいいんじゃないかしら。本来、希摘くんにそうしてついていてあげるのは、希摘くんのご両親でしょう」
 自分は息子を放ってるくせに、と思っても、それは言わずに「希摘が死んだら困るもん」と言っておいた。希摘が死ねば僕は孤独になるという、皮肉をこめたつもりだった。が、かあさんは見事に気づかなかった。「そう」と未練がましくこちらを見て、夕食の支度に戻り、ただ僕の不信感を煽った。
 遥は鬱と暴発を駆使し、両親との絆を深めていた。あのとき、遥はひどい精神力の浪費で傷をあやつっていると思った。だが、どうなのだろう。適度に「使って」いるのを見るうち、やはり、人をバカにできる気持ちいい遊戯にしている気もしてきた。
 遥に対し、認識がまとまらず、混乱しつつあった。はっきり言って、彼が何を考えているか分からなくて不気味だ。出逢った頃の不可解とはちがう、矛盾した言動に信用が置けない不可解だ。いらだちすら、矛先が定まらずにあやふやになっている。彼の頭も、心も、傷も、僕には得体が知れなくて気味が悪かった。
 夕食を取ったり歯を磨いたりすると、僕と希摘は彼の部屋に戻った。希摘はゲームせずに絵の整理をし、僕は宿題をする。一週間後は中間考査で、宿題は多めだ。僕は学校でも集中力に欠け、ちょくちょく教師に注意されるようになっていた。
 桐越たちには、無理に明るくしている。彼らに希摘に吐き出すどろどろな愚痴を並べれば、面倒はごめんだと捨てられるだろう。好きだけど、親友のようなつきあいはあくまでノリで、深くは関わらない。教室での友人とはそんなものだ。
 そんな奴しかいなかったらすでに切れてたかも、と僕は数年前の稚拙な絵に衝撃を受ける希摘を盗み見て、秘かに感謝した。
 遥が十六になれば本当に家を出ていくのか、僕にはそれも分からない。もしかしたら、十六を過ぎてもいるかもしれない。遥と同居している限り、僕はこうして希摘の部屋だけを安息所にし、いたたまれない窮屈に耐えて生きていかなくてはならない。
 そよ風にくるまれて育った僕には、逆境への免疫が著しく低かった。暴風にころころと吹き飛ばされるのが悔しい、自尊心のようなものだけが、今、僕の足を支えている。
 これから、風はいっそう荒れて、僕の神経を逆撫でていくだろう。それに対し、自分自身に黒い霧を感じることしかできなかった。

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