近づくために
やっと足を止めていたのは、この頃しょっちゅう来ていた家の前だった。希摘の家だ。咳きこみそうな息切れに激しく胸を上下させる僕は、くらくらする頭をもたげて月城家を窺う。
リビングに当たる部屋には明かりがついていても、二階の希摘の部屋はカーテンに閉ざされて明かりももれていない。寝ているのだろうか。それでも、ここしか宛てがない僕は、一度息を飲んで乱雑な息をこらえると、ドアフォンを鳴らした。
出たのはおばさんだった。ちょっと変な声で名乗ると、「あら」とおばさんは客用の声をほどき、希摘はリビングで食事を取っているところだと教えてくれる。怪訝がる質問もなしに、「希摘を出すわね」とおばさんは言って、勝手に門も開けてきていいのも添えると、インターホンを切った。
僕がここに来ると親が予想するのは、想像に難くない。僕は急いで門をすりぬけ、虫が合唱する庭を横切ると、玄関のドアの前に立った。同時に、ふっと中で玄関の明かりがつき、ついで外燈もつく。鍵を開ける音がして、「はろー」と希摘はいつもの笑顔でドアを開けた。
「今日は来ないかと思った」
そう言って微笑んだ希摘に、息をはずませる僕は、自然と咲い返せそうになった。が、表情をかたちづくろうとした途端、こわばっていたものが緩み、顔は笑顔より感情がこもったものに崩れてしまう。僕の痙攣するような表情に、希摘も瞳を止めて表情も消した。
「……悠芽?」
瞳がかっと熱くなり、希摘の顔が見えなくなった。頬に幾筋もの水滴があふれ、あふれだすと止まらない。柔らかい塩味がして、顎から雫がしたたった。喉と胸を抑えこむようにして、僕はその場にがくんとうずくまる。
「な、何? どうしたの。何かあったの」
同じ目線にしゃがんだ希摘に、僕はびっしょりの睫毛を上げる。
「希摘……」
「ん」
「……もうやだ」
「やだ」
「もう嫌だ。死にたい。全部めちゃくちゃだよ」
「めちゃくちゃ」
「何で。もうぐちゃぐちゃだよ。つらいよ。苦しい。何でこんな、もうやだ。助けて……」
「悠芽……」
「………っ」
「肩にこおろぎがいるぞ」
僕はびくっと右肩を見た。何もいない。左肩にもいない。希摘を見ると、彼は得意気に笑んで、「助けた」と言った。
僕は涙を流しながら希摘の瞳をぽかんと見つめ、そののち、今度はついその冗談に笑ってしまう。すると、親友は笑みに笑みを重ね、「おいで」と僕の腕を取って家の中に招いてくれた。
震えそうな膝で立ち上がり、指で両目の水分をはらうと、家に入る。涙も止まっていない顔で、おじさんもおばさんもいるリビングには行けない。玄関の段差に腰かけさせてもらうことにした。
持っていた箸に刺さるごぼう天を食べて、玄関の鍵をかけた希摘は、一度食卓に箸を置きにいく。
玄関は涼しくて、静けさには息遣いが飲みこまれていった。希摘の家の匂いが、馴染むわけではなくも、優しい。戻ってきた希摘は、外燈を消して僕の隣に座り、次はちゃんと心配した色を瞳に通した。
「何かあったんだ」と彼は背をかがめて僕を覗き、僕はこくんとして鼻をすする。
「……喧嘩、して」
玄関先で慮外に響いた声に、僕はうつむいた。「喧嘩」と希摘は睫毛をしばたく。
「って、遥くんと?」
「親と」
「親」
「こないだ、中間だったでしょ」
「そ、そうなのか? 知らん。ま、そうなんだね」
「僕、それで成績下がってたんだ。いろいろあって集中力なくなってたし。それで、かあさんが担任に呼び出されて、とうさんに伝わって、成績落ちたの引き合いにして、このごろ変なのは何なんだって訊いてきて」
希摘は口ごもり、「それがやだったの?」と遠慮がちに訝しむ。
「気にしてもらえたんじゃん」
「もう遅いよ。でも、それで怒ったんじゃない。希摘の具合が悪くてここに来てることになってるでしょ。こんな成績落とすほど構うことないとか言われて、それはむっとしたけど。それでもない。最近、勝手すぎるって言われたんだ。目にあまるって。遥にいそがしくて目をそらしてるからって、自由にやりすぎだって」
希摘は瞳を硬くした。僕は目をこすり、涙でべたべたになった手の甲をジーンズになすりつける。
「僕が変になってるの、分かってたんだ。でも、遥にかかりきってるせいとは思わずに、僕を自由にさせてやってるって。ひどいよ。どうして。そんなに遥しかかわいくないの? 僕なんか、普通だからダメなんだ。可哀想じゃないから、もう何とも想ってないんだよ」
再度あふれてきた涙をぬぐう。希摘は瞳の力を抜き、「んなこともないだろうけど」と温かい手で僕の背中をさする。
「的外れには、なったみたいだね」
僕は希摘を見、小さくうなずいた。そうだ。そちらのほうが正しい。僕の両親は、僕を想わなくなったわけではない。でも、その愛情が的外れになった。焦点をぶれさせたのが遥、という点は変わりないけれど。
「遥くんは?」
「いつのまにか、リビングにいた。で、僕、一方的に怒鳴り散らして……最後、こんなとこ僕の家じゃないとか言って、出てきた」
「あらあら」
「どうしよう。もう帰れないよ。どこも行くとこない」
「ここに来たじゃん」
「………、ごめん。邪魔だよね。鬱陶しかったら」
「家、帰りたくないんだろ」
「ん、うん」
「じゃあ──」
希摘が言葉を続けようとしたとき、ドアフォンが鳴った。僕はびくっとして、「待った!」と希摘はリビングのほうに叫ぶ。そして、「ここでお待ち」と僕の肩に手を置くと、立ち上がって家の中に駆けていった。
僕は身を竦め、何にも隠れていないのがいたたまれなくなる。僕の親に違いない。帰りたくない。家族の誰の顔も見たくない。
おののく心臓に唇を噛んでいると、「悠芽」と希摘が顔を出して手招きしてくる。僕はスニーカーを脱いで家に上がり、希摘に駆け寄った。
「僕の親だよ」
「当たり」
「どうしよう」
「かあさんは『存じません』って言ってる」
「押し通せる?」
「怪しまれてる。そんなわけで、昔はヤクザにも見込まれたとうさんが、息子の親友のために一肌脱ごうとしてるのですが」
「………、お願い」
「よし」
希摘はリビングのほうに「『お願い』だって」と呼びかけた。暗く涼しい廊下に、電燈の光と鍋っぽい匂いが射しこむ。「警察沙汰にしないでよねー」というおばさんの声に、僕は早くも蒼ざめた。「殴るとかはしなくていいよ」と言っておくと、すがたを現したおじさんに希摘は僕の言葉を伝える。
「恐喝といえば暴力だぞ」
「別に金銭は奪わなくていいよ」
「そうか? あー、人脅すのなんか何年ぶりだろうな」
「何で何十年ぶりじゃないの?」
「気にすんな、そんなこと」
希摘の頭をぽんとすると、おじさんは息を吐き、急に瞳の色を切り替えた。光を反射した刃物のように研ぎ澄まされた眼に、こわ、と僕は希摘に近寄る。玄関に向かったおじさんを不安に見送っていると、「避難しとこ」と希摘は僕の腕を引っ張ってリビングに保護した。
リビングの温かい匂いは、おでんだった。卓上焜炉で鍋がぐつぐつと湯気を立てている。「今のうちに、たまごはあたしのものよ」と髪を束ねるおばさんは好きなものを取り分け、「ずるい」と希摘も食卓に駆け寄る。その様子に、つい苦笑がもれて、僕は涙を引っこめられた。
「悠芽も欲しいのあったら食べていいよ」
希摘は僕を隣に招く。僕は座ぶとんには座らせてもらっても、夕食は食べてきたので、匂いに胃は刺激されなかった。
「悠芽くん、家と何かあったのねー」
「え、あ──はい。まあ」
「親なんてねえ、一度間違えば真っ逆さまよ」
「今、親と何かあった俺の親友に、そういうこと言わないでくれる?」
「だって本当だもの。あんたは恵まれてんのよ」
「自分で言いますか」
「あたしも恵まれてるのよね。真織にも結華にも憎まれてないしさ。こう言い切れるってのは、実に貴重よ」
「それはどうでもいいけど、悠芽、家に帰りたくないんだよな」
「う、うん」
「だったら、しばらくここに泊まらない?」
「えっ」
希摘は厚揚げに息を吹きかけ、「甘やかすわけじゃないよ」と言い添える。
「悠芽んちって、一度、冷静になったほうがいいと思う。遥くんが来て以来、落ち着きないもん」
「……うん」
「悠芽と遥くんの溝がネックなんだよな。でも、切っかけがあれば、俺は悠芽と遥くんはつながれると思う」
「……そうかなあ」
「切っかけを考えられるように、落ち着いたほうがいい。頭ぐらぐらしてたら、まともに考えられない。冷静にならないと。だから、悠芽はしばらく俺んちに来る」
とまどう僕に、「構わないよね」と希摘はおばさんを向く。「こまっしゃくれた意見述べるわねえ」とおばさんは不気味そうに息子を眺めた。
「質問の返事をしてください」
「いいわよ。決まってるじゃない」
「僕が家を離れなきゃいけないの?」
「遥くんを家から離しても意味ないよ。家に馴染めない距離を作るだけ。で、おじさんとおばさんは、家離れるわけにもいかないだろ。家に戻れるのが確実な悠芽が離れて、家庭に遥くんが組み込まれるのを受け入れるのがいいと思う」
「……帰れるか分かんないよ」
「帰れるよ。悠芽の家は、そんなに足早くないもん」
「えらそー」とたまごをかじるおばさんがおもしろがって、「水ささないでよ」と希摘はおもしろくなさそうに眉を寄せる。僕は笑ってしまい、希摘は真剣に考えた瞳で僕に向き直った。
「悠芽はさ、遥くんが家にいるの嫌だってわけじゃないだろ」
「え、……うん」
「ずっと、どうすれば家族になれるかって悩んでたもんな。いい機会だよ。一度、家っていう渦中を離れて、落ち着いてみたら」
僕は希摘の穏やかな色の瞳を見つめた。希摘は微笑む。おばさんを向くと、おばさんからも気さくな笑みが返ってくる。
そこで、リビングのドアが開き、「追いはらってきたぞ」と平常の瞳になったおじさんが戻ってきた。
「殺さなかったでしょうね」
「いまさら警察の世話になってもな」
おじさんはおばさんの隣に腰をおろし、「いないとこ疑うヒマがあれば、別探せって言っといたよ」と正面になる僕に笑んだ。「ありがとうございます」と僕が頭を下げると、「悠芽くんを、うちで引き取ろうかって話してたのよ」とおばさんが言う。
「そりゃ大仕事だぞ」
「しばらくよ。例のいとこの子のことで、家でごたごたあったらしいのよね」
「待て、引き取るならお任せくださいって挨拶しないと犯罪じゃないか? ここにはいないって言っちまったんだぜ」
「あとで来たって言えばいいのよ」
「あ、そうか。お前のしれっとした悪知恵はすごいよなあ」
「悪かったわね。どうなのよ。あたしは構わないわ」
「俺も構わないよ」
「決まり」と希摘が僕を向き、僕は躊躇いそうになったものの、思い切ってうなずいた。この家なら落ち着けるのは、揺るぎない事実だ。「よし」と家長のおじさんが夕食の再開を言い渡すと、僕は客人の緊張をほどき、鎮まっている心臓や呼吸を思い出して、涙も拭いた。
希摘の言う通り、僕の家は冷静になったほうがいい。冷静だったつもりでも、みんな、水面下ではぐちゃぐちゃだった。僕がいらだっていたのは、親に放置されたせいばかりでなく、その電流を敏感に察知していたせいかもしれない。
遥に関して、僕はずっと渦中にいた。遥と暮らしはじめた当初、両親は遥を離れるときがあったけど、僕は家でも学校でも遥に気を揉んでいた。休む間もなく、頭はぐるぐると振りまわされ、外界の渦巻きに内界も制御しようがなかった。この家で外界を落ち着けたら、自然と内界も落ち着いて、何かつかめるかもしれない。
何もつかめなかったとしても、ひと休みにはなる。僕はあの家に居続けるのに疲れた。親との隔絶にも、遥との軋轢にも。
遥が嫌なわけではない。僕はいつも彼を受け入れようとしてきた。ここでゆっくり考え、遥との関係も見極めたい。和解できない場合もあると思う。でも、できれば近づけるように──しばらく僕は、静かにあの家を見つめてみよう。
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