野生の風色-67

ここが僕の家だから【2】

「かあさんたちは、遥になびいて、僕なんかちっとも見なくなった」
 かあさんは、やましそうに僕に目を上げる。
「ある程度、僕が我慢すべきなのは分かってる。その程度だったら、僕も多少ほっとかれても、自由としか取らなかった。でも、かあさんたちは遥にかたよりすぎだったよ。遥をかばって僕を責めて、僕を外してごはん食べたり、遥に構って僕になんか気づかなくて。僕抜きで家族になってた」
「………、」
「意識してやってたんじゃないのは分かってる。だから、腹が立った。何で分かんないんだ、って。窮屈だった。ごはんのときだって、ほかの家族とごはん食べてるみたいだった。こんなとこ家じゃないって、ほんとに思ってきてた。帰るのがすごい重荷で、それで希摘のとこに行ってた。希摘とか、希摘のおじさんとかおばさんは、かあさんたちみたいに僕をはじいたりしなかった」
 かあさんはうなだれて、かすかに肩を震わせた。僕はかあさんを見つめる。傷つけているのはやはり分かっていても、抑えつけていても、窮屈がひどくなるだけだ。僕は黙っていたくなかった。
「悠芽は」とかあさんは押し殺した声で言う。
「もう、希摘くんのところを家だと思ってるのね」
「それは思ってないよ。ここが家なのに帰るのがつらいから、逃げこめる場所が心地よかったんだ」
「………、」
「信じなくてもいいけど。それはほんとだよ。もし希摘のところに行かせてくれても、絶対戻ってくる。ここが僕の家だから。ここにいたいから、希摘のとこで落ち着いて、考えたいんだ」
 かあさんは、少し赤くなった目で僕を見る。僕はそれを見つめ返し、「かあさんたちにほっぽられたから切れたんだよ」と言った。
「どうでもいい相手だったら、受け入れられなくても平気だから、いらついたりしなかった」
 かあさんは顔を下げ、僕は口をつぐんで、少しばつが悪くなる。この歳になって、親にこんな台詞を言うときが来るとは。いや──言えない家庭より、マシか。こういうのが言える家なので、僕の心はそよ風なのだ。
「分かったわ」とかあさんは涙目をぬぐうと、顔を上げた。
「しばらく、希摘くんの家で落ち着いてきなさい」
「……いいの?」
「そこまで考えての選択だったら、おとうさんも納得するわ。おかあさんが伝えておく」
「そ、そお。ありがとう」
「学校には行くの?」
「まあ、行くよ。事情は話しておいたほうがいいのかな」
「おかあさんが伝えておくわ。遥くんにもね。ちゃんと、帰ってくるのよ」
「うん」
「きっと、おかあさんたちより悠芽が遥くんに近いのね。分かってあげられるようになって、戻ってきて」
「なるべくね」
「荷物を用意してきなさい。おかあさんは、希摘くんのおかあさんに改めてご挨拶するわ」
「分かった」と僕は立ち上がり、かあさんも続いた。
 リビングを覗いた僕は希摘を招き、かあさんとおばさんはそこに残る。希摘はきょろきょろしながら階段をついてきて、「何年ぶりだろ」とつぶやいた。
「最後に来たの、いつだっけ」
「小学校のときだよな。中学になったら、悠芽が俺んち来てたし」
「もう二年ぶりぐらいになる?」
「かな。いやはや。あー、でも何かやっぱ匂い覚えてる」
 僕は咲い、「こっちだよ」と廊下を抜けてドアを開ける。
「隣が遥くんの部屋だっけ」
「そう。いるから静かにね」
「はい。って、うわー、悠芽の部屋だ。懐かしー」
 希摘はベッドに帽子を放り、ぐるりと僕を部屋を見まわした。僕は閉めっぱなしのカーテンを開け、南中近い暖かな陽射しで、部屋をさっと明るくする。
 肌寒さのある部屋は、遥に荒らされたのをだいぶ立ち直っていた。けれど、電気スタンドが処分されたり、椅子が投げ飛ばされた傷が床についていたりと、痕跡はある。
 ドア脇の本棚の前でこまねいた希摘は、「漫画増えましたね」と僕を振り向き、「二年ぶんだもん」と僕はクローゼットを開けた。
「いいなあ。漫画。俺もこもってなかったら、欲しいんだよなあ」
「そなの? 希摘は小説派と思ってた」
「何でも読むよ。ただ、漫画ってすぐ次出るんで、すぐ外出なきゃいけないじゃん。初めからやめちゃうんだよね」
「お金くれたら、代わりに買ってくるよ」
「マジ? じゃあ、そうしよっかな。あー、これ十巻越えたのか。俺の部屋では、こもりはじめたんで四巻で止まってる」
「貸してもいいけど」
「いいの? じゃあ、今度からちょくちょく貸してね」
 うなずいた僕は、服の引き出しをあさるより、リュックや旅行かばんが放りこまれる場所に頭を突っ込んだ。ちょっとホコリっぽく、冷えこんだにおいがする。修学旅行で使ったかばんが発掘され、引っ張り出した。
「そんなん持ってたんだ」
「修学旅行で使った奴」
「そういや、中学の修学旅行って行った?」
「三年でしょ」
「そうだっけ」
「行くの?」
「行きません」
 僕は咲い、ファスナーを左から右にぱっくり開けた。たっぷり入りそうだ。足りなければ、リュックを併用してもいい。欲しいものがあって、たびたび帰ってくるなんてことにはしたくないし、必要なものはすべて持っていこう。
 希摘はキャスターつき本棚を出し、「増えたねえ」と空の本のコレクションに感嘆する。下段に真織さんの本を見つけると、「そういや、こないだ兄貴から電話があったよ」と僕を振り向く。
「真織さん」
「脱稿だってさ。書き下ろしで、雑誌連載とかしなくて、直接本になる」
「いつ頃出るの?」
「冬か春先だって。また表紙頼まれちゃった」
「どうすんの」
「内容読んでからって言った。近々うち来ると思うんで、会えるかも」
「そっか。楽しみ」
 僕は防虫剤が仕込まれた引き出しを開け、普段着まわす服を取り出した。洗濯に出して回収していない服は、和室にあるはずだ。制服も持っていかなくてはならない。
「洗濯とかも、希摘のとこでさせてもらっていいのかな」と気にすると、「気になるなら、コインランドリー代もらっときなさいってかあさんは言うよ」と立ち上がった希摘は、キャスター本棚をしまった。僕は笑うと、かばんに最低限を詰め込んでいく。
 希摘に学校関連のものを通学かばんに放りこんでもらい、生活用品はリュックに入れる。あとは一階にあるものを詰め込むだけになると、希摘には旅行かばんを持ってもらい、僕は通学かばんと生活用品のリュックを持つ。帽子をかぶった希摘に謝りながら、ドアを開けた僕は、何気なく正面を見て足を止めた。
 遥が、いた。正面の壁にもたれ、無表情を前髪に陰らせて、こちらを見ている。瞳は暗いが、思わしくない光もあった。
 僕はとっさの動顛を鎮め、口元から表情を締めると、通学かばんを持ち直す。僕の肩越しに軽く背伸びした希摘は、目をしばたく。
「ほんとに家出するのか」
 遥は一度、僕の荷物を見下ろし、こちらに瞳を戻した。僕はかすかに神経を引っかかれた。遥の瞳には、嘲笑が混ざっていた。けれど、冷静さが離れる前に、腫れかけた胸を抑えた僕は「行こ」と希摘を振り返る。
「ドア閉めてね」
「そいつに答えないの?」
「今、こいつの顔見たくないんだ」
 希摘は肩をすくめ、歩き出した僕に代わって背中で戸を閉めると、ついてきた。
 僕は振り返らずに階段を降りる。振り返って、遥がどんな反応をしていても、いい気分にはなれそうになかった。
 希摘がかえりみた気配はして、彼は帽子を深くかぶると、先に踊り場を曲がっていた僕を追いかける。
「重いね」
「ごめん。服とか歯ブラシも持ってかないと」
「歯ブラシは、うちにある新品でいいじゃん。コップも貸すし」
「そう? タオルはいるよね。あ、ここ置いていいよ」
 階段の降り口の脇が、和室の引き戸だ。僕はそこに荷物を下ろして和室に入り、荷物を置いた希摘もついてきた。
 さっきより、たたみを照らす光の面積が減っている。
 奥の床の間と向かい合ってふたつ並ぶ箪笥のうち、僕は左の箪笥の引き出しをあけた。
「悠芽」
「ん」
「あいつ、悠芽に執着してるよ」
「え、何で」
「俺、目が合ったら、すげえ睨まれた」
 フードパーカーを手に取る僕は手を止め、目深な帽子の希摘を向いた。「大丈夫?」と訊くと、「一応」と希摘は答える。
「錯覚とか言ったら、怒るよね」
「怒るよね」
「話し声がうるさかったんじゃないの?」
「いや、ありゃ嫉妬。学校で先生の言いつけ守る奴に刺されてた目と同質だった」
「大丈夫?」と僕が愁眉で再び訊くと、「ちょっときつかった」と希摘は今度は素直に答える。
「ごめんね」
「悠芽が謝らなくてもいいよ」
「ついてきてもらったせいで」
「俺が自分でついてきたんだもん。しかし、ありゃ悠芽にかなりしがみついてるね。もしやホモか?」
「それはないと思うけど」
「そうだったらどうする?」
「そりゃあ──振るんじゃない?」
「軽蔑する、じゃないあたりがよろしい」
「いや、あいつは僕を嗤ったんだよ。執着なんてしてないよ」
「好きな子はイジメたいって言うじゃん」
 僕は洗剤と日向の匂いがする服を取り出すと、「やだよ」と引き出しを閉めた。
「男なんか」
「悠芽、ゲイって無理? おもしろい人多そうだけどなー」
「ゲイってだけならいいよ。好かれるのはちょっと。こっちはこっちで、女の子にしか興味持てないわけだし」
「ふうん」
「何、希摘は遥が僕に気があると思うの?」
「必要とはしてる気がする。けっこう、悠芽の気遣いあれこれは遥くんに届いてたんですねえ」
「………、僕、今から希摘んち行くんだよ」
「うん」
「そんなん言われると、家で遥と過ごすほうがいいような」
「俺の言ってること、信じられる?」
「ぜんぜん」
「じゃあ、信じられるように、ここは少し離れよう」
 希摘は僕の肩をたたいて入口に踏み出し、僕は息をついて彼に続いた。服やタオルもかばんに詰め込むと、準備は完了だ。
 リビングで、ちょっと打ち解けて紅茶をすすっていたかあさんとおばさんに声をかけると、ふたりとも腰を上げる。僕と希摘がそれぞれ提げる荷物を見たおばさんは、「大荷物ねえ」とあきれた声を出した。
「家出でもそんなに持っていかないわよ」
「家出じゃないから、こんなに持っていくんだよ」
「邪魔でしょうか」
「いいんだよ、悠芽。どうせ俺の部屋に置くんだもん」
「希摘くん、悠芽のことよろしくね」
「あ、はい。まあ」
 希摘は、かあさんには口調や顔を引き攣らせてしまうようだ。
 彼の部屋で接していると、希摘は外でも生きられるのではと思えるときがある。そんなことはないのだ。ぎこちなくなったり、尊大で関わりを断ち切ったり──遥に睨まれたのも、思う以上に何か残ったかもしれない。そばにいよう、とこの頃もたれすぎている自覚で、余計僕はそう思った。
 玄関にぞろぞろと移動すると、「悠芽」とかあさんが声をかけてきた。そろそろ僕は、かあさんに対して正視を取り返しつつある。「何?」と振り向きながら、持ち上げた通学かばんを肩にかける。
「迷惑かけちゃ、ダメよ」
 お決まりの台詞ながら、かあさんの睫毛はややつらそうな角度だ。
「うん」
「ちゃんと帰ってきてね」
「ここに帰らなきゃ、行くとこないよ」
 かあさんは複雑に笑み、「おかあさんたちも考えてみるわ」と言う。
「悠芽も遥くんも、等しく息子だと思えるように」
「うん」
「ごめんね」
「………、うん。僕もごめん」
 かあさんは僕の頭に手を置くと、「じゃあ、よろしくお願いします」とおばさんに頭を下げた。「お任せください」とおばさんは笑んで、「じゃあ行きましょ」と僕と希摘に呼びかける。僕と希摘は、ハイヒールのおばさんにスニーカーで続く。
 履き心地をととのえながら、僕は一度階段を見返った。遥は僕を必要としている──か。
 まさかなあ、という想いが、まだまだ強い。今はその懐疑を優先させた僕は、不安げなかあさんに笑みを向けると、希摘とおばさんと共に家をあとにした。

第六十八章へ

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