野生の風色-70

回顧の朝

 真織さんが実家に帰ってきたのは、結華さんに知らせがあると呼ばれたのともうひとつ、希摘に新しい小説を一読してもらうためだった。
 例の希摘に表紙を頼んだ新作だ。結華さんが帰って、おじさんも遊びに戻った昨夜、希摘はその原稿を預かっていた。その日にプリントしたという原稿は、茶封筒に収まっていて、けっこう厚みもあった。
「どんな話?」
 希摘は、学校の封筒にするのと違う丁重な指で中を覗き、「いつもみたいな話だよ」と真織さんは微笑む。かくて希摘は、昨日僕が寝たあとにそれを読みはじめた。
 夕べ、真織さんがいるので、僕はリビングで寝ようと遠慮したものの、真織さんは僕を結華さんの部屋に寝かせてくれた。ここで僕が寝るときは、すなわち希摘と寝起き時刻が一致しないときなので、着替えはこちらに持ってきている。
 午前八時、パジャマから着替えた僕は、寝ついて間もないであろう希摘を起こさないように、そっと一階に降りた。
 階段ですれちがった窓に見えた空の光は蒼く、廊下も朝だと肌寒さにぞくりとする。鳥の高い声がやむと、不安になりそうに静かで、冷えこむ洗面所のかごにパジャマを入れさせてもらった僕は、リビングを覗いた。
 そこには暖房がすでにかかり、カーテンも開けられていた。髪を後ろに縛った真織さんが、食卓で新聞に目を通している。僕に気づくと眼鏡越しに笑みを作り、「おはよう」と新聞を食卓に下ろした。
「おはよう、ございます」
「早いね」
「え、そう、ですか。いつも七時ぐらいに起きますし」
「そっか。学校があるもんね。希摘は今日、それぐらいに寝てたよ」
「じゃあ、寝たばっかですね。おばさんは──寝てますね」
「うん」と真織さんは笑みを噛む。僕のかあさんは、休日だろうが一番に起きる。この家は、そんなことはない。主婦だろうが休みは休み、というおばさんより先に起きれば、ただの物好きだ。
 朝陽に目を細めて、リビングのドアを閉めた僕は、「飲み物もらっていいでしょうか」と暖房に肩の力を癒しつつ、真織さんに尋ねた。
「もちろん。朝ごはんも好きに食べていいよ」
「ん、それはまだ。飲み物だけ、もらいますね」
 あくびを殺しながら僕はリビングを横切って、キッチンに行った。客用のカップにティーバッグで紅茶を作ると、芳しい湯気に息を吹きかけ、紅褐色の水面を揺らしながらリビングに戻る。
 真織さんの正面に座ると、指先をなぐさめるカップに口をつけた。紅茶の熱が、喉を通って胃に散り、熱が軆の端々に伝わる。この感覚が心地いいと、冬だ。
 希摘と一緒なので、寂しくはない。しかし、そろそろ家が懐かしくもあった。帰っても、もう放置は受けないだろう。遥との突破口が見つかれば帰れるんだけどな、と光がさしかかるところに僕は来ている。
 僕に話す気配がなければ、真織さんは僕をそっとして、新聞を眺めていた。
 月城家で、真織さんはひとり違うタイプだ。家族は家族でも、雰囲気やノリがずいぶん違う。両親や兄弟が騒がしく言い合うのを、一歩引いて苦笑混じりに見ているというか──
 僕が盗み見ているのに気づくと、「何?」と真織さんは物柔らかにくすりとした。
「あ、ごめんなさい」
「いや。何かある?」
「え、と……別に。あ、何か気になる記事載ってますか」
 真織さんは僕の下手なはぐらかしに乗ってくれて、「今日は、大したことは」と新聞をたたんだ。新聞に陰っていた食卓が、朝陽に晒される。
「読まなくていいんですか」
「うん。興味あることは特になかった」
「そ、ですか。作家さんって、新聞とかからもアイデア見つけるんですか?」
「どうかな。僕はあんまり外界にあるものに着想はもらわないよ。希摘に近い。自分の中でつかむ」
「そ、なんですか。むずかしそうですね」
「そうでもないよ。ひとりよがりにならないように気は遣うけどね」
「はあ」と僕は素人の間の抜けた返事をする。やっぱり僕には、創作なんていまいち分からない。空を追いかけているので、どちらかといえば、すでにあるものを探求するほうが好きなのかもしれない。
「希摘に、本の表紙描いてもらうんですよね」
「そうしてほしくても、どうだろう。感動してもらえれば描いてもらえるのかな。あいつは心に映ったもので描くんだし」
「そう、ですね。希摘の絵、好きなんですか?」
「うん。希摘の絵は精神的だから。その精神が変わってるから、何だか不思議な絵ではあるね」
「はは。でも、何が言いたいのかよく分かりますよ。僕、最近精神的にいろいろあって、それを通して希摘の絵を見てはっとするの多いです」
「そっか」と真織さんは微笑み、僕はふと、希摘に真織さんに遥について相談したらどうかと勧められたのを思い出した。
 相談。っていってもなあ、といざとなると口火が思いつかず、僕は静かに紅茶をすする。砂糖が溶けて、渋みより甘みが強い。
「悠芽くん」と真織さんは改まった声で僕を正視してきた。
「はい」
「気に障ったら、謝るよ。精神的ないろいろって、家のこと?」
「えっ、あ、……まあ」
 僕はどぎまぎと真織さんに上目をする。見透かされたのだろうか。だが、真織さんの瞳に揶揄う色はない。僕はカップを食卓に下ろすと、「いとこのことです」と機会は素直に摘み取って認めた。
「希摘に少し聞いてるよ」
「どう、思いますか。って、あ、訊いてもいいんでしょうか」
「え、どうして」
「いや、その、僕は真織さんの意見は聞いてみたいですよ。真織さんが、もう、そんな仕事は辞めたんですし」
 希摘にああ言ってもらっていても、気になってしまう。真織さんは視線を下げて微笑み、「まあね」と逆光の朝陽に髪を透かす。
「僕には、人の悩みを解決する才能なんてないし、意見しても役には立たないよ」
「そ、そお、ですか。希摘は才能あるって言ってましたよ」
「……でも、自信がないんだ。自分みたいな人を減らしたくて、志したんだけどね」
「真織さんみたいな人……?」と僕が首をかしげると、真織さんは自嘲を帯びて咲う。
「そのいとこの──遥くんだっけ。彼の気持ち、分からなくもないよ。僕も昔は家が怖かった」
「えっ」
「僕が生まれた頃はアパートだったけど、まあ、この家庭。結華と希摘は、とうさんたちが落ち着いて生まれたんで、家庭面では満たされてる。僕は正直、家庭面に欠陥があるよ。子供の頃は、親に愛されてる自信がなくて、いつ殺されるか怖かった」
「そう、なんですか」
「喧嘩したり、怒鳴り散らしたり、とうさんもかあさんも、踏み外してた頃の行動が色濃かった。たたかれたりののしられたりはなくても、見聞きするものが怖くて。今でも、大きい音がいきなり聞こえると動けなくなる」
 僕は真織さんの伏せがちの睫毛を見つめる。
 そう、なのか。今、僕が接するおじさんとおばさんに、そんな恐ろしい影はなくても、確かに子供が生まれたらすぐ更生するのは都合がよすぎる。実際、かなり軽い会話ではあったけど、おじさんたちは幼かった真織さんをきちんとあつかえなかったことを認めていた。
「手出しされないから、自分に向けられないからって、傷つかないわけじゃないんだよね。両親が愛しあってると思えなかったんで、自分さえいなければ、ふたりは離れることができるとも思ってた。今はそんなのないよ。あのふたりも、ものすごい葛藤の中で、一度捻じ曲がった道を正したんだ。今の僕なら、せめて手出ししなかったのが、ふたりの強さだったって分かる」
「………、頭では、ってとこ、ないですか」
 真織さんは僕をちらりとして、「まあね」と弱く咲う。
 そこは、遥を見てきたというより、このあいだ放置されて僕は自分で痛感した。僕も頭では、自分が放置されるいくらかの正当性を分かっていた。でも、心はそれに納得しなくて、痛かった。
「家庭を持つ自信もなくて、独身でずるずる来てるんだよね」
「そうなんですか」
「恋愛は何回かしたよ。無意識に自分を殺して、相手を窺っちゃうんだよね。子供の頃、親の気に障らないようにしてたみたいに。それで、僕も相手も気疲れする。素直に甘えられる人に逢えたら、結婚も考えるのかな」
「そう、ですか。逢えるといいですね」
「うん」と真織さんは微笑する。だとしたら、元精神科医としてでなく、そんな経験を持つ人として、意見を求めてもいいのだろうか。希摘も、元精神科医というより、それで僕に真織さんと話すのを勧めたのかもしれない。
「自分にそういう弱いところがあるから、ああいう仕事もまっとうできなかったんだ」
「勉強しただけの人より、気持ちが分かるんじゃないですか」
「気持ちが分かるだけじゃ、取りこまれるだけだよ。僕はもっと冷静じゃなきゃいけなかった。……僕のことって、希摘に何か聞いてる?」
「え、いえ。ぜんぜん」
「そっか。僕はね、ひとりの患者を殺したから、医者を辞めたんだ」
「……殺した」
「今もあの子は死んでると思う。僕はそれから逃げただけなのかもしれない」
 読めない話に、僕は真織さんにとまどった目を向ける。真織さんは僕の瞳を見返して、柔和な笑みで迷いをほどくと、落ち着いた声で語りはじめた。

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