野生の風色-72

帰路での想い

 遥のことを考えてみる、とはいっても、僕もなかなか学校がいそがしい。
 月曜日、僕が制服で朝食を取っている隣で、真織さんの小説を読み終えた希摘は、「描いてみて、納得できたら提供する」という約束をした。真織さんはそれで承諾し、その日の朝食のあとに帰っていった。僕もこれから寝るという希摘に見送られて登校する。
 今のところ、学校は試験も行事もなく静かだ。が、休み時間や授業中に重大な悩みにふけるのはむずかしい。帰宅しても宿題や入浴があるし、ひと息つけるのは寝る前だ。希摘とちょっと話すものの、眠気に負け、進歩のないまま僕は火曜日を迎えた。
「希摘、このあと寝るの?」
 リビングの食卓で、朝食の塩焼きの鮭の皮を剥ぐ制服の僕は、夕食の味噌で味つけした豚肉を食べる私服の希摘を見た。「うん」と希摘はもぐもぐしていた口の中を飲みこむ。誰だって陥る慢性の朝の憂鬱に冒される僕は、「いいなあ」と本音をもらして鮭をほぐす。
「じゃ、サボれば」
「できるなら、『いいなあ』とか言わないよ」
「登校拒否って、意外と簡単よ」
「僕にはむずかしいの」
「そうかなあ」と希摘は淹れたてで馨しい玄米茶をすすり、「皮いらないの?」と皮は放って鮭を食べはじめる僕に問う。
「うん」
「ちょうだい」
「食べるの?」
「食べないの?」
「食べないよ」
「お上品だねえ」
 希摘は箸でさっと皮を奪って食べてしまう。僕は親が食べないのを見て育ったので、魚の皮は剥がして食べない。この家なら、そんなのは面倒だと、皮どころか骨ごと食べそうではある。
 僕は家のと塩加減が微妙に違う鮭と、昨日の残りでぱさついてしまったごはんを口に詰めこんだ。
 食卓を望む窓の向こうは、今日は重たく曇っている。夜中に雨音を聞いた気もするし、窓にぶつかる音や雲の流れで見るに風も強い。今日は折りたたみ傘を連れて、上着を着ていこう。
 おじさんはすでに出勤し、おばさんは洗濯に取りかかっていた。時刻は七時半で、僕も悠長にはしていられない。このあと歯を磨いて、二階にかばんを取りにいって、自宅通学より時間のかかる道のりで予鈴に間に合わなくてはならない。
 のんきに考えごともできないな、と急いで朝のとぼしい食欲を殺して胃に食べ物を押しこもうとしたとき、突如、廊下で電話が鳴り響いた。
 僕と希摘は顔を合わせる。こんな朝に、と僕たちの目は通い、警戒混じりに振り返った。「はい、月城です」と聞こえたおばさんの声は、洗濯で大変なところだったのか、やや怒っている。ごくり、と鮭とごはんを嚥下したところで、なぜかリビングのドアが開いて、おばさんが顔を出した。
「悠芽くん」
「は、はい」
「おかあさんよ」
「えっ」
「代わってって。何かすごく慌ててるわ」
 僕はもう一度、希摘と顔を合わせた。「親は怖くないだろ」と希摘は言い、僕は納得できたので玄米茶をひと口飲んでから立ち上がる。リビングと違って冷える廊下で、僕は受話器を受け取り、「もしもし」と受話器を耳にあてた。
『悠芽?』
 鼓膜に飛びこんだ懐かしい声は確かに焦っていて、「うん」と洗濯に戻っていくおばさんを横目に僕は居心地悪く答える。
「どうしたの?」
『遥くんがいなくなったの』
「は?」
『遥くんがいなくなったのよ。どこかに行ったの。そこに来てる……なんて、ないわよね』
「う、うん。え、待って。何で? 何? いなくなったって、いついなくなったの?」
『今、おとうさんが仕事に行こうとしてて、靴がなくて分かったのよ。六時に見にいったときにふとんの中にいると思って……でも、今見たら服がつめこまれたわ。昨日の夜にはいたのよ』
 唐突な知らせに、何を言えばいいのか、僕は口ごもってしまう。希摘が箸をくわえたままこちらに来て、僕は希摘の窺う瞳を見つめた。
 いなくなった。遥が。
 家出だろうか。何で。最近何か──いや、僕は遥の『最近』を知らない。
「心当たりはある?」
『な、ないわ』
「最近、また外に出るようになってたとか」
『逆よ。こもってたわ。悠芽を気にしてたけど』
「僕?」
『自分のせいだって、私たちにも申し訳なさそうだったわ。そんなことはないとは言ってたのよ。悠芽は自分で考えて、遥くんのためにも家を離れたんだって。それでも、落ちこんでたわ』
 僕が消えて遥が落ちこむ。それが意外に感じられないのが、意外だった。
 ここに来る前なら、清々してると予想していて、驚いたに違いない。今、僕は遥の心を遠くから客観的にほどいていて、彼が僕に助けを求めていたのを信じつつある。もちろん、確信に至っていたわけでなく、だから家には帰らなかったのだけど──
『警察に知らせたほうがいいかしら』
「………、待って。医者も待って。とりあえず、僕、今から帰るよ。話聞かせて」
『わ、分かったわ』
「まだ、警察とか医者には言わないでね。絶対だよ。あいつはそんなんじゃなくて、僕たちに助けてほしいんだ」
 かあさんの返事を聞くと、僕は焦心の中、責任を課された肩で受話器を置いた。
 そう、僕は責任を担ったのだ。どこに消えたのだろうと、遥は僕たちが──僕が見つけなくてはならない。
 希摘は分かったような分からないような瞳で箸を噛んでいる。僕は心をくくると親友を向いた。
「遥がいなくなったって」
「家出?」
「かもしれない。分かんない。今から帰る」
「かあさんに車で送らせる?」
「大丈夫。近いし。ごめんね、えと──上着は取ってくるね」
「焦って転ぶなよ」
 僕は笑ってうなずき、駆け足で階段をのぼった。希摘の部屋に飛びこみ、待機させていた通学かばんは押しやって、旅行かばんをあさる。ほかの服は散らかし、そなえて持ってきていた通学用の紺のコートを引っ張り出すと、羽織りながら部屋を出た。
 階段を駆け下りると、希摘は洗面所の引き戸でおばさんと話している。僕のあわただしい足音に振り返り、「大丈夫?」と玄関まで見送ってくれる。
「うん。逃げるわけにもいかない」
「そお」
「遥に何かあったら、それを生かそうと思ってたし」
「そっか。そだね。がんばれよ」
「うん。じゃあ、ばたばたしちゃってごめんね。また来るよ。おばさんにもよろしく」
 うなずいた希摘に笑みを残し、僕は鍵を開けると月城家を飛び出した。
 朝と水気の湿った匂いがして、吹いた風を大きくコートの裾が孕む。髪や頬の柔らかな潤いが奪われ、心臓もきゅっと竦んで身を縮めそうになっても、そんなのに構っているヒマはない。踏み石も無視して門を抜けて道路に出た僕は、小学生も登校前で、電線で鳥が鳴くだけの蒼ざめた道を全力で駆け抜けていった。
 心臓が耳障りに搏動し、頭は感情がもつれて混乱している。遥が蒸発した。いい予想なんて、ひとつもつかなかった。気紛れであるのが一番マシだ。家出かもしれない。非行かもしれない。自殺だってありうる。
 信じたくないための遅疑や、ありえそうで的中しそうな予断、何かあったときの衝撃の予測、さまざまな不安が恐怖として煮つめられてどっと押し寄せてくる。立ちこめるなんて生易しい黒雲ではなかった。絶対的で、飲みこまれればへたって情けない後悔に溺れてしまいそうだ。でも、今は心に堤防を立てて振り切り、僕は近づきもしなかった自分の家にたどりついた。

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