消える息
ドアフォンを押すと、待たずにきしめく門を抜け、敷石も駆け抜ける。ごちゃごちゃ考えているあいだに、頬や指先の体温がなくなっていた。軆の芯は急激な運動に発火し、つづまりそうな心臓に呼吸も切れている。
ドアの鍵はかかっていなくて、乱暴に引くと、同時にとうさんとかあさんが玄関に駆けつけた。
僕は真っ先に足もとを見た。遥の黒いスニーカーはなかった。僕を呼び戻す狂言ではなかったわけだ。両親の深刻に焦った顔も、事実だと物語っている。
「帰ってきた?」
分かりきっていたが、そう訊くと、両親は首を横に振った。「そう」と僕は荒い息の中でため息を吐き、呼吸がそれに取りこまれて少し咳きこむ。早い鼓動が、骨を伝って肩に響いている。
かあさんが僕の脈打つ肩に手を置き、僕はそれで改めて両親を段差から見上げた。とうさんは背広すがたで、かあさんはエプロンをつけている。いつものふたりと、家の中の自分になじむ匂いに、僕は顔をいささかぎこちなく咲わせた。
「久しぶりなのにね」
僕の下手な笑みに両親は咲えず、何かがいっぱいになった目をした。かあさんは僕の頭を撫で、とうさんは僕の肩に手を置いて、家の中にうながす。僕は一度目を落とすと、「ただいま」と息切れにまみれながらつぶやき、冬用に変わっていたドアマットに上がった。
「あいつがどこに行ったか、見当ある」
「いや、ぜんぜん……だな」
「いつ出ていったか、ほんとに分かんないの」
「ああ」
「……手がかりなしだね」
嫌味でなく口に任せた言葉だったのだけど、両親は不注意を突かれたふうに視線を下げた。僕は慌てて、「とうさん、会社行かないの」と不自然でない程度に少し話題をそらす。
「あ、ああ。休むよ。悠芽もだろ」
「うん。電話しないとね」
「おかあさんがしておくわ。悠芽は、おとうさんに遥くんのこと聞いてなさい」
「分かった」
「朝ごはんは食べたのか」
「食べてるとこだった。全部、希摘んとこ置いてきちゃった。取りにいかなきゃ」
「……帰ってくるのか」
「来てほしくない?」
とうさんは、僕の頭を小突いた。僕は息を荒げながらも笑って、「荷物を取りにいくなら、おかあさんも行くわ」と言った睫毛に濡れた瞳を隠すかあさんを向く。心なしか、目線がまた僕が上になった。
「挨拶しておかないと。荷物も重たいでしょう」
「うん。僕もきちんとお礼言わなくちゃ」
リビングには暖房がかかっていて、それで僕は廊下が寒かったのに気づいた。心臓にともなって息遣いも落ち着き、ただ、発熱が霜焼けのように強く軆の端々に居残る。
食卓がない僕の家のリビングは、希摘の家のリビングに見慣れかけていたので広く感じられた。僕は上着を脱ぎ、堅苦しい制服のボタンもひとつ外す。とうさんもネクタイを緩め、僕たちは向き合って絨毯に腰を下ろした。
かあさんは電話帳をめくり、学校と会社にさっさと連絡を入れる。暖かい空気に軆を休ませて僕は正座を崩し、「で」ととうさんの顔を正視した。
「僕がいないあいだ、遥ってどうだったの」
とうさんはひとつ息をつき、「全体的には引きこもってたな」と口火を切った。その鬱の原因は、明らかに僕の別居だった。遥は心を口にすることはさほどしなくても、しきりに僕の部屋や僕の席を気にし、所作を落ち着かせなかったらしい。両親が僕はすぐ帰ってくると説得してもうなだれ、果ては謝って部屋に逃げこんだりもしたそうだ。
今月の始めには、不安に耐えかねて頭が切れ、そのときはとうさんたちは僕に来てもらおうかと思った。暴発と抑鬱を駆使することもなく、この一週間は本物の鬱に沈みこんで、頭にふとんをかぶって過ごしていたという。
いろんな意味で自分の存在に自信がなくなったのではないか、とかあさんも混ざって両親は分析した。自分のせいで僕は出ていき、自分のせいで両親は僕を手元から失い、自分のせいで家庭が不安定になり──僕は初めて、両親の遥への目に的確さを感じた。おそらく、確かに遥はそんな精神状態にあったのだろう。
「悠芽は希摘くんのところにいて、何か分かったのか」
「ん、まあ。分かりかけてきてた。僕が遥に卑屈すぎたのかな、とか。希摘ともいっぱい話したし、希摘のおにいさんとかおねえさんに逢ったりもした」
僕は希摘の言う遥の僕への執着や、結華さんの妊娠で気づいた無条件の受容、真織さんの分析をふたりに伝えた。両親は僕を希摘の家に置いたといって、そう目覚ましいものがは期待していなかったらしい。僕の発見に臆面を覗かせ、目を交わしていた。
「だからちょっとずつ、遥は僕のこと嫌いでもなかったのかなって思ってきてた。きっとそうだって思えるようになれば、帰ってこようとも思ってた。僕、いろいろ分かってるように言ってたけど、ぜんぜんダメだったんだ。僕の理解以上に遥の傷は深くて、敏感で、それが攻撃かどうかを見抜いてたんだ」
両親は複雑そうに黙って考え、ゆっくりとうなずいた。「遥くんは悠芽に見つけてもらったほうがよさそうだな」ととうさんは負けたような瞳に僕を映す。
「僕もそうしたい。でも、僕も遥が行くとこなんてぜんぜん予想つかなくて。グレてた頃行ってたとこかな。どのへんだろ」
「駅前のあたりは歩いてたみたいよ。補導されたときは、そのへんだったもの」
「そっか。あいつ、金持って出ていったかな」
「え、さあ──」
「もし持っていってなかったら、このへんにいるかも。……恐喝でもしてなきゃね。着替えたいし、ちょっと見てくる」
両親は首肯し、僕は脇に置いていた上着を連れてリビングを出た。ドアを開けると、廊下は切り取られたように気温が下がる。あいつ上着着て家出したんだろうな、と妙な心配をしつつ、僕は階段をのぼって懐かしい自分の部屋に入った。
ベッド、つくえ、テレビ──久しぶりすぎて、一瞬他人の部屋に見えても、匂いはやっぱり僕の部屋だ。カーテンは開けられていて、それでも外は薄暗いので、明かりをつける。冷えこみが停滞していて、学ランを脱ぐとわずかに鳥肌が立つ。
制服を窓辺のハンガーにかけようとした僕は、それに夏服がかかっているのに気づいた。遥に引き裂かれ、一枚しかない僕の開襟シャツは希摘の部屋にあるはずだ。取ってみるとポケットに何かはいっていて、覗くと金だった。僕の二ヵ月ぶんの小遣いだ。そういえば、新調する制服は僕の小遣いで作ると言っていたけど──
僕はひとり曖昧に咲い、受け取らせてもらうことにした。夏服はたたんでつくえに置き、冬服をハンガーにかける。学ランの下に着ていた紺のトレーナーに、希摘の家に持っていくのを忘れて悔やんでいた迷彩柄のベストを合わせ、ジーンズを穿くと、遥の部屋に行った。
カーテンが閉まっていて暗く、僕は手探りに明かりをつけた。がらんとした室内は、ベッドに人の大きさぐらいに服が積まれているほか、何も変わりなかった。服にはなかばふとんがかかっていて、かあさんかとうさんが慌てて剥いだのが目に浮かぶ。
遥の匂いも久しぶりだった。スニーカーと一緒に隠れてたりしないかな、と浅はかに名前を呼んでみても、無論返事はない。クローゼットも見たけど、遥がスニーカーを履いて家を出ていったのは、間違いないようだった。
遥も僕と同額の小遣いを両親にもらっていて、それを使うことがなかったのなら溜まってはいたはずだ。資金はある。
僕は手始めにつくえを探った。引き出しを開けると、ほとんどからだった。そういえば、学校関連のものは撤去したのだ。一番上の引き出しに筆記用具があるばかりで、普段使われていた様子もない。
その隣の本棚にある本は、図鑑とか辞書とか、買い与えられた参考書ばかりだった。ベッドを覗いても、スタンドに財布も財布らしきものも見つからない。
僕はクローゼットを開け、遥が初めてこの家にやってきたとき、肩に提げていた黒いリュックもないのを確かめた。最低限のものは持って出ていった──としたら、やはり家出だろうか。
僕はリビングに戻り、かあさんは台所を片づけていたので、私服になっていたとうさんにそのへんを報告した。「そうか」ととうさんは当惑した眉で息をつく。何やかやのうちに、時刻は十時が近くなっていた。
間違ったやり方かもしれなくも、僕は医者や警察に頼るのはあとまわしにしたかった。できれば、僕たちが見つけて、連れ戻したい。そして謝って、何かを言いたい。
何を言うかはこんなふうに帰ってきてしまったせいでまだ分からなくても、僕は遥に何かを伝えなくてはならない。「言わなきゃ分からない」と言ったのは僕のほうだ。
見つけなきゃ、と責任感に駆り立てられた僕は、「探しにいってくるよ」ととうさんに顔をあげた。
「公園とか学校のあたりとか見てくる。金持っていってたとしても、迷って近くをぶらついてるかもしれない。とうさんは駅のほうに行ってみてよ。車あるでしょ」
「ああ」
「駅に直行したのもありうるし。家に帰ってきたときには、かあさんがいる」
「ひとりで大丈夫か」
「近所だもん。いなかったら、またどこ探すか考える。検討してるあいだに遠くにいったら、意味ないよ」
「そう、だな」
「じゃ、行ってくる。遥を見つけたら、僕とふたりで話させてね」
とうさんの承諾を見ると、僕は部屋で上着をカーキのコーデュロイジャケットに変え、雨の降りそうな空の下に出た。鼓動は悪い靄を排出していて、僕の視線や足取りの落ち着きを失わせている。
遥はいかがわしい場所には詳しいだろうとしても、このへんの地理には無知なはずだ。それが範囲をぼやけさせ、ただ、足で行けるという基準で僕はあたりを見まわった。家出だとしたら、バスに乗ったり自転車を盗んだりで遠出した可能性も高くも、まずこのへんは塗りつぶそう。近場をあとで探しても意味がない。
思いつく限り、というより、しらみつぶしに近所を捜索した。入り組んだ住宅街、その中の公園、川をのぼって山の近くに出たり、小学校付近もうろついた。明らかに中学生の自分が、昼間にあちこち駆けずりまわって、目を凝らしているのが怪しいのは分かっているけど。
一度、昼食のために家に帰って動揺は鎮火してきた午後は、きょろきょろしたりと目立つ所作は抑えて遥のすがたを探した。中学校付近や商店街、歩ける距離まで大通りをたどったりする。路地や陰も気にして探したけれど、日が暮れても、あの陰気な麗容は見つからなかった。
分かっていたものの、遥はこの近くにはいないらしい。巧妙に隠れているとは考えられない。おそらく遥は、僕の家庭で自分は邪魔だと感じて出ていった。見つかりたくないというより、なるべく離れようと遠ざかるのは想像に難くない。その行き先が、高飛びならまだしも、あの世だったりしたら──
遥は死のうと思えば死ぬのだ。洗面所で手首を切ったように。
強い風にうごめく雲が空一面にかかり、その夜は月もなく真っ暗で寒かった。僕はぐったり家に帰ると、肢体の困憊と心の重圧にリビングに横たわって、しばらく意識を手放した。
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