手がかり
こきつかった脚の息抜きも兼ね、僕は帰宅すると、希摘の家から持ち帰った荷物を部屋のあちこちに戻していった。洋服、教科書、ゲーム──最後に数冊の空の本が残り、かばんをクローゼットに放った僕は、ベッドサイドに腰かけて本をぱらぱらとした。
いろんな夕焼けが散りばめられた写真集だった。真っ赤な彩雲がたなびく夕暮れ、景色を橙色に映す夕暮れ、水色にひかえめな桃色の夕暮れ──
何気なく過ごしていると、空なんてどこでも毎日同じ色に見えても、こうして残して見較べると、人の心のようにうつろっているのに気がつく。昔、僕は空のいろんな色をもっとじかに頭の上に見ていた。この頃、空は一定に感じられる。それは空が灰色に犯されているせいか、僕がゆっくり空を眺めなくなったのか──
僕は本を閉じると、あの制服新調代になるはずだったお金で何かまた本買おう、とベッドを立った。
キャスターつき本棚を引っ張り出し、本を並べようとした。が、雑に横に押しこまれている本があって手を止めた。僕は漫画にはそれをしても、空の本をそんな並べ方はしない。僕がこの本棚に触るのは、希摘と一緒に荷造りをした日以来だ。あのときは、こんな横になっている本はなかったけど──
何の本かと取り出してみると、水天一碧の本だった。空の青と海の碧を捕らえた写真集だ。めくってみても、何も変わりはない。何だろ、と僕は本を閉じて、天へと伸びる崖の先で空と海が広がる表紙を眺めた。この崖は自殺できそうだな、と神経質になっている僕は思い、本をしまおうとした。
が、はたと手を止めて、もう一度表紙を見た。ねずみ色の岩が、上方へ切り上げられ、溶けたように柔らかに突き抜ける空と、その空の輝きをさざなみに躍らす濃紺の海が映っている。
自殺。海に身を投げて自殺。遥だ。正確には、遥とその母親だ。こういうところから心中したのだろうか。遥は助かったのだから、もうちょっと低いか。でも、海には飛びこんだのだ。
もしかして遥かな、と僕はこの本が横たわっていた本棚を見る。
どういう意味だろう。母親との心中を想起させる景色が、何なのだ。
僕はハードカバーの表紙を凝視しながら、ふと、希摘の言葉を思い出した。遥が死ぬとしたらどこで死ぬか。僕の家だと希摘は言った。実際、遥は僕の家で死のうとした。あのとき遥は、自分は死んだほうがいいと言っていた。親がそう言って育ったのだから、誰が何と言おうとそうなのだと。それで、僕は、そんなのを言うのは親じゃないと──
心臓が跳ねて、そのはずみに顔が上がる。「そうか」と僕はつぶやいた。分かった。いや、もし希摘の言う通り、遥が僕を試したのだとしたら、だが。もしそうなら、遥がどこにいるか分かった。僕は本をつくえに置くと、急いで一階に駆けおりた。
廊下を抜けてダイニングに出ると、そこには夕食の匂いが満ちていた。食卓に、肉や白菜や豆腐がぐつぐつと湯気を立てる鍋が置かれている。すき焼きだ。
が、今はそれに食欲をつつかれている場合ではない。席にたまごの乗った小皿をおいていたかあさんは、「どうしたの」と僕の形相にやや面食らう。
「ごはんはまだ──」
「遥がどこにいるのか分かった」
「えっ」
「もしかしたらだけど。いるかもしれないとこが分かったんだ。とうさんは──」
帰ってきたかを訊く前に、「どういうことだ」とリビングからとうさんが顔を出した。「絶対かは分かんなくても」と前置きして、僕は今日希摘にもらった助言を反復し、空の本でもらった連想を話した。とうさんとかあさんは顔を合わせ、「だからね」と僕ははっきり言う。
「遥は、親と暮らしてたとこにいるんだ。僕はあのとき、遥にそんな人たちは親じゃないって言った。遥の家族は僕たちだって──これははっきり言ったか憶えてないけど、そんなようなことは言ったんだ。だから、遥は本当に家族なら、親元から自分に連れ出しにこいって言ってるんだ」
両親は再度顔を合わせる。今度は理解できた様子のものだ。
「たぶん遥は、親と暮らしてた家とか、心中しようとした海にいる。行こう。連れてって。僕は遥に、死んでほしくないって言った。あいつなりにタイムリミットは設けてると思う。それが何かは分かんなくても、とにかく早く行かないと」
ふたりはうなずき、かあさんは卓上焜炉の火を切り、とうさんは出かける用意をするよう僕に言った。僕はこくんとして、二階に駆けあがり、コーデュロイのジャケットと黒いマフラーで防寒をかためる。本を片づけ、でも水天一碧の本はつくえのデニムのリュックに入れた。
リュックを肩にかけながら、僕は星座を追った卓上カレンダーを見る。十月のままだ。何となく手に取って、十一月に入れ替え、軽く目を開いた。今日は十二日の木曜日だ。明日は十三日の金曜日なのだ。遥がここに来たのも十三日の金曜日だった。
そうか、と僕はまた手がかりを得て、急がなくてはならないと一階に駆け戻る。
遥の“タイムリミット”は、恐らく明日だ。深い意味があるのかないのかは分からないが、こじつけはいくらでも立つ。明日までに見つけなくては、きっと僕は遥と二度と会えない。
僕たちはすぐ車に乗りこんだ。空気はきんと頭に刺さり、吐く息はうっすら白い。両親が遥が住んでいた場所を知っているそうだ。リアシートの僕は、十三日の金曜日のことを話し、「高速でも一日かかるぞ」ととうさんは懸念に眉を寄せる。どんよりしかけた空気を、「言ってるあいだに行きましょう」とかあさんが切り替え、考えるより早くメタルグレイの車は発進した。
住宅街を下りて大通りに出た車は、街境へと向かった。さっさと高速に乗るつもりなのは分かっていたので、僕はおとなしく窓の向こうを見つめる。店頭や街燈、対向車の光は飛ぶようにすれちがっていく。
空は真っ暗で、月は見当たらない。暖房が轟音を立てていても、車内はしばらく寒そうだった。マフラーに吐息を熱くこもらせる僕は、身震いしてリュックを抱きしめ、窓に映る張りつめた自分の顔を見る。
一日かかる。でも、遥は一万円以上は小遣いを貯めていたと思う。それぐらいあれば、鈍行を乗り継げるだろう。時間は三日、たっぷり経っている。遥がそこに行き着けるのは確かだ。
今は十九時過ぎで、到着に一日かかれば、五時間で遥を見つけなくてはならない。もし昔の家でも海でもなければ、どこにいるだろう。先走ったかなあ、と不安がじめついても、もう可能性として宣言してしまったものはしょうがない。
確率があるのは事実だ。行ってみて損はない。これまであてがなかったため、遥はそこにいそうな気もした。都合のよい予想なので、見事にすかされそうな気もした。僕は闇に包まれた天を見つめ、遥が見つかれば神を信じてもいいと思った。
高速に乗った。こちらを見下ろす照明の橙色は、尾を引いては次の照明に移る。特に行楽の季節でもない平日で、高速を流れる車は、滞りなく闇を裂いていった。途中で一度パーキングエリアに入り、ガソリンを給湯する。それ以外は車は走り続け、夜が更けてくると周りを走るのは圧倒的にトラックが増えた。周囲には山が連なり、トンネルでは照明の移行が連続してひとつの線になる。
暖房がすっかりきいた車内に、僕はマフラーを外してリュックを脇に置いた。のちのち運転を替わるため、かあさんは眠っていた。昨日昼まで眠っていたせいか、緊張が神経をぎりぎりにねじっているのか、十三日の金曜日に突入しても僕は眠くならなかった。
正直、見知らぬ景色に言い知れない影もちらほらした。本当に遥は、そこにいるのだろうか。牽強を降りかざしてしまっただけではないか。
遥は本当は駅前で非行をやっているかもしれない。もし十三日の金曜日まで考えたかったと、今日家に帰ってきたらどうする? 突っ走っていると、気づけなかったいろんな他面が見えてくる。
自分が浮かされていたと感じるほど、あとから追いついてきた可能性はぐんと育った。そして生い茂った影となって、黒い不安で胸を威圧し、僕は唇を噛んで吐き気のようなそれをこらえた。
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