海風の中で【1】
動悸に重なった少し荒い呼吸に、何か頭が重くくらつく。僕はそのめまいにいったん睫毛を伏せ、頬に当たる風を意識すると、リュックのストラップを握りしめて遥のかたわらに歩み寄った。
「ホームシックじゃないよね」
「何で分かったんだ」
「お前が残した手がかりで来たんだ」
「そんなの残してない」
「僕の部屋で空の本いじっただろ」
僕はリュックをおろし、水天一碧の本を取り出すと、それを遥にさしだした。雲がかかる月明かりで遥はその表紙を認め、前髪の奥で僕を見あげる。
「見て、しまおうとして、どこに並んでたか分かんなかっただけだ」
「今日の零時に自殺する気だったんだ」
「……やっぱり、分かってるじゃないか」
「今日、十三日の金曜日だよね。遥が僕んちに来たのも十三日の金曜日だった」
「………、」
「迎えにきたんだ。ここで死んで、あんな親のとこに戻ることはない」
「……俺はあいつらの子供だ」
「でも、僕の家族だよ。お前の親には渡さない」
遥は僕を見つめた。僕は本をリュックにしまうと、「ずっとここで待ってたの」と口調をやわらげる。遥は脇のリュックを見下ろし、「別に」と波と風に紛れて言った。白い波が、遥の黒いスニーカーの爪先を濡らしている。
じゃあ帰りましょうか、なんてあっさりした運びは取れず、しばらく沈黙が置かれた。闇が抜ける空で、ときに雲がちぎれて月が冷たく光る。月光に人影が浮かばないのを改めて確認し、冬の海なんて初めてだな、と思う。
ゴミや足跡が残っていて綺麗な海岸ではないけれど、波の音があふれるように透き通っているのはどこの砂浜も同じだ。この音が乱れるようになったら自然はおしまいだな、と脈絡ないことを思っていると、不意に遥が沈黙を破いた。
「俺はお前が嫌いだ」
僕ははっと遥を見て、刹那何とも思えず、「うん」とぎこちなく肯定する。
「お前といると、気分が悪い」
「……うん」
「ずっと、俺には誰にもいなかった。みんな俺を無視して、殴って、俺の気持ちなんか見ようとしなかった。お前は俺の気持ちを大事にして、そんなのは初めてで気持ちが悪い」
遥は肩を縮め、沖がはっきり見えない海に向き直った。僕は突っ立って、リュックを腕にぶらさげている。
「ずっと、踏みにじられてたほうがよかったの?」
「………、俺はそっちに慣れてる」
「遥は僕が怖いんでしょ」
「嫌いなんだ」
「僕といることで、癒されるかもしれないのが怖いんだ。変わるのが怖い」
「………、」
「でも、遥の傷はそんな簡単に、急な変化にとまどうほど、一発では治らないよ。僕がそばにいたって同じだよ。僕は遥の傷を治したりしない。僕が遥の傷を治す道具になるかどうかは、遥が利用するかしないかで変わるんだ」
遥はスニーカーを濡らす波に足を引いた。さざ波に揺らめく月の光は、道のように映っていて、あの道を歩いていけば幸せの国に行けるという小さい頃に読んだ絵本を思い出す。
「答えろよ」
「え」
「お前は何で、俺の気持ちが分かるんだ」
「分かってないよ」
「分かってるんだ」
「誰だって分かることしか分かってないよ」
「これまでみんな分かってくれなかった」
「じゃあ、みんなバカだったんだ」
遥は僕を振り向きかけ、やめて膝を抱える。
「僕は当たり前のことしか分かってない。遥が痛がってるとか、苦しんでるとか。そんなのしか分からないよ」
「俺が何でいらついたかとか、言ってほしいこととか言うじゃないか」
「そういうのは、遥の気持ちをすくい取ったんじゃない。こういうとき、何言ったらいいかなとか、何でこんなになったのかなとか、いっぱい考えて遥に近づこうとしただけだよ」
「何で俺のためなんかに、いっぱい考えるんだ」
「片想いしてるからだよ」
遥は僕に首を捻じった。「そうなんでしょ」とじっと見返すと、遥はしっとりした砂浜にうなだれる。
「お前は、俺の顔を見たくないって言った」
「あのときはね」
「あれが本音なんだ」
「家族からはじかれても、にこにこしてるほど、僕はお人好しじゃないよ」
「怖かったんだ、お前が近づいてくるのが。だからはじこうとした」
「別に、僕は遥をほっとく気だったけど」
「それも怖かった。お前が俺を放るようになるのも。だから、俺のほうから放り出したんだ」
「………、僕はどうすればよかったわけ」
「お前は何にも悪くない。俺が悪いんだ。だから、俺が消えようと思った。俺が消えればいいって」
遥は抱えた膝に顔を埋めた。突風が頬に当たり、髪やマフラーをなびかせる。僕は遥を見下ろしていて、月光にその肩がわずかに震えているのを見取った。彼は黒いフリーツの上着しか着ていない。
「俺は赤ん坊の頃から、親にそんなのを言われて、言うどころか本気で消すようなことばっかりされてた。あのふたりは、俺が嫌いだったんだ。生まれなきゃよかったっていつも言ってた。あのふたりは俺ができたせいで結婚した。俺がいなければ、愛しあってなかったんだから、行きずりで終わってた。俺ができたのが、あのふたりの人生をめちゃくちゃにしたんだ。そんなのを毎日言われてた」
遥の声はかぼそい。指先でスニーカーの靴紐をいじっている。
「父親は生きるのが下手だった。俺ができる前からあんなだったんだと思う。酒でどろどろで、すぐ人を殴って。たぶん俺にしてたようなことを、父親にされてたんだ。俺をめちゃめちゃに殴って、子供はこういうふうに育てるんだって教わった、っていつか言ってた。……お前のおじさんも、何かされてたんだぜ」
僕は遥の背中を見る。
とうさんが? まさか──。
遥は僕の動揺を無視し、ぼそぼそと話を続ける。
「母親は俺が生まれる前から父親に殴られてて、俺ができても殴られてた。かばってたのは少しで、父親にうんざりしてくると、俺を殴ってストレスを発散した。お前さえいなければ、あんな男とはすぐ別れられたって。父親も俺がいなきゃ自由だったって言ってた。だから、ふたりとも俺に死んじまえって言った。人生を返せって。俺は何も言えなかった。殴られて正しいと思ってた。ふたりの人生を壊した罰なんだって、俺はこうされなきゃいけないと思ってた。抵抗せずにぶたれて、蹴られて、ぜんぶ分かりながら受けた。いつも、自分が生まれなければよかったと思ってた」
僕は何となく、遥の口調に奇妙な感じを覚えた。彼の口調は、何だか親を愛していたみたいだ。
愛していた、のだろうか。それとも、虐待された洗脳の名残か。相手に虐待を正当と思わせれば、もちろん虐げやすくなる。
「毎日同じだった。酒の臭いがして、血の味がして、痣に頭がぐらぐらしてた。学校もほとんど行かなかった。行っても仲間外れだった。父親が何で切れるかは予測できなかった。食いかけて放って腐った食べ物が床にあるのは気にしないのに、米粒ひとつテーブルに落としたら切れる。部屋が散らかってるのには怒らないのに、ビールの缶がいつものところになかったら怒る。殴って、割れた食器をたたきつけて、土下座して謝る母親の頭を足で床に踏みにじってた。いつものところにないビールなんかまずいって缶を投げつけて、どこかに行った。俺は部屋の隅にいて、母親は俺に転がったビールを投げつけた。母親を助けないなんて薄情な息子だって、あんたみたいのはあたしの息子じゃないって、引っぱたいて背中を踏みつぶして、ビールを俺の顔にぶちまけた。あんたがいなきゃこんなことにはならずに、ほかの男とほかの子供と家庭を持って幸せだったのにって。ビールが耳に入って、よく聞こえなかったけど。父親はこじつけでもよく殴った。食事のとき正座させて身動きしたとか、うどん食べてて音が立ったとか、風呂のあと壁に泡を残してたとか、勝手にトイレ行ったとか、目が気に入らないとか、何か、いろいろ、いっぱい、いろんな理由だった。たたくとか踏むとかじゃなくて、煙草押しつけられたり、生ゴミぶっかけられたり、ふとんに挟んで押し入れに閉じこめられたこともある。暗くて息ができなくて死ぬかと思った。閉じこめられるのは、よくされた。そしたら俺がいなくなるから。冬に服を剥ぎ取って、ベランダにたたきだされた。夏には、詰まって故障したトイレに閉じこめられて、あのときは臭いがすごくて胃がねじれるまで吐いて、それでまた臭いがひどくなった。ガラスの向こうで太陽がぎらぎらして、窓も錆びてて俺の力じゃ開けられなくて、汗もすごく出て、喉がからからで息がはりついて脱水症状になった。修理屋が来るんでやっと出されて、でも、あのとき死んでおけばよかった。冬のベランダでも肌が裂けそうで、耳が寒くて聞こえなくて、凍って死ねばよかった。ふとんのときも、殴られたときも、さっさと死んでおけばよかった。そしたらそこで終わってた。俺は生きてるせいで、終わりまで受けなきゃいけなかった。死ねばよかった。火傷のときが最後のチャンスだった。あれでゆでられて死ねばよかった。あのときも、床に落ちてた父親の服を踏んだからされた。湯気がすごかった。真っ白で雲みたいに充満してた。空気が生きてるみたいに熱かった。湯沸かし機が地響きみたいな音を立ててた。お湯がゆだって泡が立ってた。ぐらぐらに煮え立って、ほとんど料理の鍋の中だった。タイルも壁も熱くなってて、湯船も火傷しそうで、つかんだタオルかけも一瞬冷たいぐらいに熱くて、浸かった肘は熱いなんてもんじゃなくて、そこから溶けてくみたいだった。ものすごくびりびりして、しすぎて感覚が消えて、破れた肌から骨まで膿になってどろどろに消えたみたいだった。声は嗄れて、声になってなかった。汗とか涙も流れてて、熱くて、ぼうっと重くて、痛くて。あのとき、死んでおけばよかった。俺は一番肝心なところで、いつも助かった。それが一番、虐待だった。生かして、またなぶって、半殺しのまま、俺はいつも生かされて、生きてることが死んだみたいに重くて、死ぬ気力もなかった」
遥はうなだれるまま靴紐をいじっていて、僕も突っ立つまま遥の綺麗な髪を見つめていた。
遥の告白は潮騒にやや聞き取りにくかったが、聞き返すほどでもなかった。いずれにしろ、聞き直す度胸を持てる内容ではなかった。
僕はこれまで、遥がどんなことをされていたかはほとんど知らなかった。殴る、蹴る、あとはせいぜい、その火傷の話だ。
いびつな悪夢に過ぎない、と感受性を保護したかった。現実だと受容するには、精神的な極限を超えすぎている。
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