海風の中で【2】
遥は顔を上げ、それでも前髪に陰りながら闇と銀がうねる海を見つめる。
「母親が父親を殺したとき、俺の火傷は治ってなかった。肘はゾンビみたいに黄色と白がねばるのを続けてた。手当てとかはしてもらえなかった。一回水ぶくれを踏みにじられた。俺は肘が腐って、そこから自分は死んでいくと思った。でも、腐る前に母親が父親を殺した。台所で料理してて、包丁の音がうるさいって父親が切れて、じゃああんたの耳がなくればいいって耳に包丁を刺した。切り落として、血がいっぱい流れて、父親は耳を抑えて倒れて、母親は父親の背中に馬乗りになって何度も刺した。血が飛んで、顔とか手とか服に飛んで、床が真っ赤になって、夏の湿気で生臭くて、父親が声を上げて、母親はそれがうるさいからって父親の喉を引き裂いた。父親が声を出そうとすると、穴から出る血が泡立ってはじけた。母親は父親の左胸を刺した。死んでからも刺した。刺して、刺して、そこが黒くぐちゃぐちゃにえぐれて黄色い骨が見えてきても、刺した。俺はずっと見てた。父親が血まみれで舌を出して目を剥いてるのも、母親が血まみれでほつれた髪の隙間で薄笑いしてるのも。満足したら、母親は父親の口に包丁を刺して、俺のそばに来て、『行きましょう』って真っ赤な手を差し出した」
その光景が生々しく想像できるのが複雑だった。なぜなら、僕は遥が手首を切ったとき、その生き血の空気を肌に体感している。おぞましい深紅も、吐きそうな匂いも、異様な充満にまみれた息苦しさも──
「夜中で夏だったけど、母親は冬のコートを着て、俺も長袖を着てて、手をつなぎながらこの海に来た。母親と手をつなぐのなんか初めてだった。どこに行くのか訊いたら、あんなのは全部なくなるところって母親は言った。死ぬのって訊いたら、母親はうなずいた。俺は何とも思わなかった。嬉しくも怖くもなかった。俺には死は日常だった。あの岩にのぼって、母親は俺を愛してるからこうするって言った。あんなのを受けた以上、生きていくだけつらいって。俺はそれを信じた。だから、母親と死ぬのに抵抗しなかった。飛び降りて、腕の感電したみたいな感じに俺は気を失った。それでやたら海水を飲まなかったから、通報で助けがきたとき俺は助かった。母親は死んでた。病院で医者は俺の腕の火傷とか軆じゅうの痣にショックを受けた。父親のことも分かって、警察とか来て、精神病院にまわされて、俺は尋問みたいにカウンセリングを受けさせられて、自殺しないために何もない牢屋みたいな部屋に入れられた。俺は初めは口もきかなかった。でもいろいろ言われてうるさいから、口だけはきいた。作家とかから手紙が来た。体験をモデルに書きたいとか。俺はいつかつけいられて、晒しものになるのかって思った。母親の最後の話を考えた。生きてたら苦しみばっかりで、俺を愛してるから死ぬって。今は、ほんとに愛してたら、一緒に生きて苦しみから守ってくれてたって思う。母親は面倒だったんだ。愛してなんてなかった。何とも想ってなかったんだ」
遥は再びうなだれた。僕は冷たい風に当てられてかたまっていた。冷気に熱を奪われた指で、リュックのストラップを握る。
潮の匂いが強くなり、見ると、満ちてきたのか遥のスニーカーに押し寄せる波が届いていた。波が引いて取り残された砂浜は、水気に月光を反射して精緻にきらめく。そして、それにまたやってきた波がかぶさる。
遥は痛んだ瞳で僕を振り返った。
「俺は、暴力が愛情表現になるのを知ってる」
「……え」
「でも、俺の家のはそれじゃなかった」
「……うん」
「俺の両親の暴力は、空っぽだった。そこに何もなかった。何もこめられてなかった。俺の両親は、俺に何かしようなんて気はなかったんだ。だから、痛かった」
僕はいつかの遥の言葉を思い出した。俺の親は俺に何かしたんじゃない、何もしなかった。だから虐待だった──
「俺はあのとき、ここで死んでおけばよかった」
うつむいて風に前髪を揺らす遥に、僕は一度吸気すると、「そんなことないよ」と声を吹き返す。
「遥が死にたくなければ、誰が死ねって言ったって、死ぬことはないんだよ」
「俺は目障りだ。お前の家でも邪魔だし、学校でもみんな俺を外してた」
「学校は頭悪いんだよ。僕んちは邪魔なんて思ってない。よそよそしかったけどさ、遥をそれ以上傷つけたくなかっただけなんだ」
「………、お前はよそよそしくなかった」
「ときどきね。ごめんね、立ち入りすぎて痛かったよね」
遥は膝を抱える手を握りしめ、僕はやや狼狽える。嫌味に聞こえただろうか。そんなつもりはなかったのだけど──
「初めは」と遥は口ごもりがちにつぶやく。
「お前がうらやましかった」
「え」
「親に愛されて、友達もいて、俺は自分の家があんなだったんで、お前みたいな奴は幻想にしかいないと思ってた。現実はみんなこんな、どす黒いもんなんだって。けど、ほんとはお前みたいのが普通で、現実で、俺は普通以下なんだって、お前を見てると自分がみじめだった」
「………、」
「のんきに育った奴で、痛みなんか分かんないだろうって思った。お前は俺にいろいろやった。それで俺は、ぐちゃぐちゃになった。きちんと育てば、そんなに賢くなれるのかって、もっと自分がつらかった。お前が俺を理解するほど、俺はそうなれない自分を嫌いにならなきゃいけなかった」
僕は潮風に頬をこわばらせて口をつぐむ。謝ったほうがいいのかと思っても、遥の口ぶりに僕の謝罪を求めるふうはない。
「何でお前が俺につきあえるのか分からなかった。俺なら俺みたいな奴は投げ出すのに。おじさんとおばさんは逃げ腰でも、お前は本気でかかってきた。気持ちを隠さなくて、最後までそばにいた。欲しくてもどうせ手に入らないと思って、あきらめてるものを、お前は俺に刺してくる。あの怒鳴りつけてきたとき、お前は俺を普通だって言った。俺は誰かに普通だって言ってほしかった。めちゃくちゃにしたっていうのも、親と同じ言葉なのに、傷を武器にするなって説明でお前はやり方を怒っただけで俺の存在は尊重した。薬のときも、やめろっていうぐらい想ってる人がいるかを捜してたら、お前がやめなよって言った。俺はお前に俺のことが分かるのが怖かった。分かってほしくなかった。お前が俺の気持ちを理解すればするほど、お前には俺みたいなひどい気持ちは知ってほしくないと思った」
僕は目を開いた。遥はうつむいている。
真織さんの言葉がよぎった。拒絶に見えた言葉も、よく見るときっと許容の面がある。遥は僕に、自分の気持ちなど分かってほしくないと言ったことがある。分かるわけがないと言ったこともある。その言葉にそんな意味が隠されていたなんて──ちっとも理解してないよ、と僕は唇を噛んで自分の一面観に情けなくなる。
「お前の部屋をかきまわしたときも、お前はいるって言ったのにいなくなってて、嫌われたんだって怖くなった。嫌われるために嫌がらせしてきて、嬉しいはずだって思っても頭が白くなってた。お前は初めは怒っても、俺が真っ白になったせいだって分かったら怒らなくて……でも学校に行ったから」
「……言ってくれたら、休んでたよ。言っていいんだよ。遥にべったりついててあげるのはできなくても、いられないときも無下に断ったりはしない。いられない理由を言うよ。そしたら、嫌われたんじゃないって怖くないでしょ」
遥は細目で僕を見上げる。
「家出したときも、僕が前の日に続いてごはん持っていかなかったのがムカついたんだね。……初めだけだ、とか言ってたもんね」
「………、あの日、お前が飯持ってきたら、何か言おうと思ってた。でも来なかった。俺より勉強のほうがいいんだって」
「毎日僕が持っていったら、鬱陶しいかと思ったんだ」
「お前がそう思ったのも分かってた。抑えようとしたけど──」
「怖い風が、吹いたんだよね」
遥は僕を見、ひかえめにこくんとした。僕は遥を見つめたのち、脇にリュックを置いて遥のかたわらにひざまずいた。
雲間にいた月がふっと陰る。それでも、僕と遥は同じ目線で視線を合わせる。寒風が髪や服をばさばさと揺らした。遥の中に吹く風も、こんなふうに暗くて強くて、冷たいのだろう。
「ごめんね」と僕は薄く色づく息と言った。
「遥が言うほど、僕に非がないことはなかったよ。僕は遥にぶつかりはしても、それきりで後始末はしなかった。僕はいつも最後までは遥のそばにいなかった。遥は落ち着いてるときに誰かにいてほしいんだよね。ぶれたときにそばに来られたって、遅い。はじかれたことで分かったよ。健康だからほっといていいもんじゃないって。遥の心も同じなんだ。落ち着いてるからって、目を離していいもんじゃない。何か起こってからじゃ遅いんだ。落ち着いてるからこそ、保つために気にかけてあげないといけないのに──僕は遥に怖い風が吹くのを待たせてるみたいだった」
遥の闇に同化しそうな黒い瞳は僕を凝視する。幼くとまどいを浮かべるその瞳を、僕はまっすぐ見つめた。
僕は遥に何か言いたかった。
今、ここでそれを言わなくてはならない。
「僕は、遥と家族になりたい」
「家族……」
「遥が僕を怖がるのは、僕が遥を怖がってるからだって分かった。遥が僕を信じられればいいのにって思ってたのは分かるよ。それがうまくできなくて、自己嫌悪になってたのも。僕、なるべく遥が僕が信じられるようになるよ」
「………、」
「ここで死んだ人たちは、遥の家族じゃない。僕たちが遥の家族なんだ。遥が僕に怖い風を教えたみたいに、遥にもそよ風を教わる権利がある。僕たちが教えるよ。知ってほしいんだ」
遥の瞳が水分に揺れる。僕は立ち上がり、砂浜によこたわるデニムのリュックを手に取った。波音だけの闇には、身動きやマフラーのはためきも響く。リュックを左手に移すと、僕はきんとした風に冷えこんだ手を遥に差し出した。
「もう逃げることないよ」
遥の頬につたった雫は、海より透明に、また現れた月を反射する。その雫の痛みがやわらぐよう、僕は潮の香りの中で暖かく微笑んだ。
「帰ろう。僕たちの家に」
遥は僕をじっと見つめたあと、小さくうなずいて涙を雑に拭いた。リュックを左手に取り、わずかに躊躇ったものの、僕の手を握り返す。
遥の骨ばった手はすっかり冷たくなっていた。「帰ったらすき焼きがあるよ」と僕はその手を引いて歩き出し、そのそよいだ言葉に初めてちょっとだけ笑みをこぼした遥は、「ずっと寒かった」と僕の手をぎゅっと握りしめた。
【第七十九章へ】