「もっと君に向いてる仕事があると思うよ」
分かっていた、やんわりと退職届を催促されているのだと。それでも、「そうですね」と前向きな笑顔で次を探す気力や時間は、私にはなかったから。
頑張れば、この職場でも何とかなる。そう思ってしがみつくあいだにも、容量の悪い私はミスは重ねてしまう。決定打は、私のミスの尻拭いを先輩どころか後輩がてきぱきこなしてしまったときだった。
誰かが何かを言うわけではない。少なくとも、私の前では。でも、視線で伝わってくる。
──あいつさ、まだ恥ずかしいと思わないの?
カーテン越しにも、朝陽が部屋に満ちていた。ゆっくりと目を開き、浅い息遣いを感じた。五月なのに暑い。もう寝てるあいだもエアコンつけとくべきだな、と後悔しながら身を起こす。
二十七歳の四月から続く、朝の支度を済ます。眠たいけど洗顔して、面倒だけど化粧して、吐きたいのに朝食を食べて。まだ職場にはいないのに、あの軽蔑する視線にさらされている感覚がして脊髄がぞっとする。
今日も何とかひとり暮らしの部屋を出るまでこぎつけた。無言の早足でアパートから狂おしい晴天の下に出る。皮膚も視覚も焦がす太陽に、思わず目を背ける。
駅まで歩く。少しずつ倦怠感が絡みついてくる足元。気分がどんどん澱んでいく脳内。汗が全身でどくどくと流れていく。薄目で前方にいつもの駅の改札が近づいているのを確認する。
唾を飲みこもうとした。いつものやつを飲みこむために。でも、口の中はからからで心を圧縮するものがない。私はゆらりと改札の前で立ち止まってしまった。
周りの通勤通学の人々は、当たり前のように急ぎ足で改札を抜けていく。その流れを邪魔するように立ち止まった私に、顰め面や舌打ちを残していく人もいる。
ああ、会社行かなきゃ。遅刻する。また嫌な顔をされる。怒られることすらない、お荷物に対する、あの蔑んだ一瞥。
もう一度、飲みこもうとした。そうしたら、意識をむしり取るほどの暑さの下で、真冬の冷え切った空気が喉にひゅっと入ったみたいな感覚がした。息が苦しくなって咳き込んで、その拍子に涙がぼろっとこぼれてしまう。
駆け足のヒールの音は、他人事のように聞こえた。ばたんと部屋のドアを閉め、その場にくずおれてから、それが逃げ出した自分の足音だったと認識した。
理由は無断欠勤。責任がないとか何とか言われて、私は五月づけで会社をクビになった。
私はふとんに倒れこみ、どうしようかなと思った。でも、そんな悠長な思案もしていられなかった。二十七歳から五年働いた職場だったけど、当然昇進のチャンスもなかったし、信じられないほどの安月給のまま働いていた。生活はぎりぎりで、貯金していく余裕もなくて。家賃を引かれた口座の残高を見て、何でもいいから仕事はしないと長く生きていけないと思った。
もっと君に向いている仕事がある。そう言われてきたけど、それって何なの? いや、そんなのあるわけないよね。あれば具体的に勧めてくれたよね。あれは、お前にできる仕事なんかないって言われてたのと同じなんだ。
三十二歳で始められる仕事って何だろう。私には特技も資格も愛嬌もない。終わってる。身を売るにしても、そんな美貌も体型も技術もない。何にもない。
いっそ、引きこもったまま餓死でもする? 餓死まで苦しむくらいなら、ひと息に電車に飛び込むほうがマシか。
しかし、私には死ぬ度胸もない。電車に飛び込んでダイヤを乱したら、損害賠償は家族に行くのだろう。実家にはにいさんと義姉さんと、ふたりに介護されている両親しかいない。損害賠償はもちろんのこと、そうならないために生活を助けてほしいと頼ることもできない。
頑張らなきゃ。せめて、自分のことは自分でしなきゃ。
恥を忍んで、沿線沿いのスナックに面接に行った。「三十二歳かあ」と露骨に失笑されたのに、なぜか受かった。よほど人手が足りないらしい。
昼は面接をつめこみながら、夜はスナックで働いた。当然のようなアフターで、帰宅は始発になる。ほとんど眠れないまま、最悪の顔色を化粧でごまかし、また面接に向かう。
寝るヒマもない。連日のふりかけごはんもおいしくない。季節は梅雨に入り、雨続きで気分もいらだつほど憂鬱になった。
アフターを終えて朝帰りすると、アパートの隣の家の花壇に咲く紫陽花が目に留まるようになった。子供の頃、実家の庭にも咲いていたっけ。紫陽花は雨に濡れながら、くるくると色を変えていく。
雨粒の中で生き生きときらめく紫陽花を、傘の下から見つめた。私、もうこの紫陽花みたいに鮮やかに生きられないのかな。庭の紫陽花を見てわくわくしていた頃のように、無邪気ではいられないのかな。
スナックでも、私は相変わらず不器用だった。華麗な話術もないし、お酒を作るのも慣れない。どんなに注意されても気が利かないし、笑顔になるのは死ぬほどつらい。ママがいらいらしているのが分かる。
ここもクビになるのは時間の問題だろうな。どのみち、私も連発される下ネタにうんざりしてる。昼の仕事を早いところ決めなくちゃ。
「あれ、……もしかして、咲菜ちゃん?」
焦りはじめながら六月末に入った頃のことだった。カウンターに座ったお客さんが、私を見るなり本名を言い当ててきた。かなりどきっとして、私もその男の人の顔を見る。
三十代後半くらいだろうか、仕事帰りっぽいスーツを着ている。見憶えは、ないけれど──
とまどってしまった私の足を、ママがぎゅっと踏みつけた。はたとして「ええと、」と何とか声を出すと、男の人は苦笑いを見せる。
「俺のこと、憶えてない? まあ、そうだよな。兄貴の友達なんて憶えてないか」
「えっ……にいさんの、お友達なんですか」
「そう。兄貴の名前、実で合ってるよね?」
確かににいさんの名前だ。それでも、私はその人に感じる面影はない。
「OLしてるって聞いてたけど。副業?」
「え……と、OLは、辞めちゃって」
「そうなんだ。夜職したかったの?」
「……そういう、わけでも」
私は例によってたどたどしく水割りを作る。その手つきを眺め、その人はまだ話しかけてくる。
「何か事情が?」
「……まあ」
「実は知ってるの?」
「知らないです」
「心配すると思うよ」
「……そう、ですかね」
にいさんは、けして私に冷たい態度を取るわけではない。ただ、鈍臭い私にいらついていることは多い。
「あいつ、咲菜ちゃんが実家を出たこと気にしてるみたいだから」
「もうこの歳だから、ひとり暮らしくらいしますよ」
「でも、あいつが夕夏ちゃんと結婚したのと同時だったんだろ? 気を遣わせたのかなって言ってた」
水割りを飲むその人の左薬指にも、シルバーのリングがある。こんなところで私の身の上を心配するより、奥さんのそばにいればいいのに。私にはよく分からない。
その人は零時前に帰っていったけど、別のお客さんとその日もアフターして、朝帰りになった。紫陽花は今日も咲いていた。グラデーションが変わっている。紫陽花の花言葉は私でも知ってる。移り気。あの人も、気紛れの善意で声をかけてくれただけなのだろう。
しかし、その数日後、スマホににいさんから電話がかかってきた。あの人は本当に友人だったようで、私がスナックで働いていることを聞いたらしい。『お前にあんな気を遣う仕事は無理だろう』とにいさんはため息混じりに言った。
『いいか、できないことを努力するより、できることに妥協するほうが賢いんだ』
私はスマホを握りしめた。言わないように唇を噛んだ。
何でそんなこと言うの。私には、「できること」がないんだよ。自分が何をできるか分かっていたら、こんなに苦労しない。
ぐっと飲みこんだ言葉が、電話を終えてからも頭をぐるぐるした。ふとんをかぶって、自分の息遣いを聞いていた。湿度が高くて蒸し暑い夜、気がふれそうな不安で冒されないようにどうにか耐えた。
翌日はまたひどい雨だった。私はふとんから動けなかった。起きなきゃ。シャワー浴びて、化粧して、ヘアセットして。出勤しなきゃ。そんな頭の指令が軆に伝わらない。ぴくりとすら動けない。
……ああ、何か、もういいか。どうせ遅かれ早かれクビ。必死に生きて何? 別に、私が来年の今頃いなくなってても、何も変わりはしないのに──
雨音が響く。通知音が鳴る。遠雷が近づく。
目を閉じたら、それらが全部聞こえないほどの深い眠りに落ちていた。
目が覚めたとき、柔らかくてまろやかな匂いがしていた。シチュー、かな? 同じアパートで誰かが作ってるのかな。いや、それにしては──
はっと目を覚ますと、玄関までの廊下沿いにあるキッチンに誰かがいた。とっさに混乱したけど、その人が気がついたようにこちらを見て、私はほっと息を吐く。
義姉さん。夕夏さんだった。
「咲菜ちゃん。起きたんだね」
「え、えと……」
「チャイム鳴らしても、反応がなくて。合鍵、実に預かってたからそれで入っちゃった。ごめんね」
「……はあ」
「あ、咲菜ちゃんが閉じこもろうとするかもしれないって、今回特別に私に持たせてくれたんだよ。普段は、合鍵は実が大事に預かってるから」
私はシーツをきゅっと握った。夕夏さんは鍋をゆっくりかき混ぜている。この匂い、やっぱりクリームシチューだと思う。
息をついて、くしゃくしゃの髪を肩からはらいのける。掛け時計を見ると、二十一時をまわっていた。
仕事サボっちゃったな。スマホをちらりとしたけど、今は通知を確認できる気分じゃない。
「咲菜ちゃん、お腹空いてない?」
「……今日、何にも食べてないです」
「じゃあ、シチューできるから一緒に食べようか」
「にいさんは……」
「今日は私が咲菜ちゃんのとこにいるの、知ってるから」
何、なのだろう。正直、私は夕夏さんとそこまで親しいつもりはない。にぶい私にうんざりするにいさんにしては、ほんわかした人を選んだなあとは思っている。
もちろん嫌いではないというか、けれど好きという感情も特にないというか……この状況をどう思えばいいのか分からない。
夕夏さんは私の持つ少ないお皿にシチューを盛りつけると、小さめの座卓に持ってきてくれた。シチューだけでなく、白ごはんやポテトサラダも添えられている。こんなまともな手料理、いつ以来か分からない。
「……いただきます」
ぼそっと言ったあと、ひと口シチューを食べた。びっくりした。かあさんが作るシチューと同じ味だったからだ。私は再現しようと思ったこともないのに、この人はきっとにいさんのために作れるように努力したのだろう。
「咲菜ちゃんと実、子供の頃にはシチューのことでよく喧嘩したんだってね」
「えっ」
「実はシチューはごはんにかけるもので、咲菜ちゃんはごはんをシチューに入れるものだって」
「あ、はは……どっちも同じですよね」
「でも、咲菜ちゃんはごはん入れるのが好きだったんでしょ?」
「中学くらいでやらなくなりましたけど」
「実は今でもシチューをごはんにかけるよ」
「……ガキですね」
「ふふっ。咲菜ちゃんも、久しぶりにやってみたら?」
私は夕夏さんを見て、「でも行儀が」と言った。「私しか見てないんだから」と夕夏さんはにっこりして、私は躊躇ったものの、茶碗に入ったごはんをシチューに投入してみた。
シチューとごはんが馴染むようにスプーンでかき混ぜていると、懐かしいのか何なのか、喉の奥が絞られて涙が滲んできた。夕夏さんは、きっと気づいているけど、何も言わない。その沈黙が優しくて、私はいよいよ泣き出してしまった。
「ねえ、咲菜ちゃん。ひとりで頑張らなくていいんだよ」
涙をぽろぽろ落としながら、私は夕夏さんを見る。
「実も、咲菜ちゃんに素直には言えなかったみたいだけど、夜のお仕事で無理してるなら助けたいって話してた」
「助ける……って」
「次の仕事を見つける気さえあるなら、少しゆっくり過ごすくらいの援助はするって」
「……でも」
「夜のお仕事、頑張れそう?」
「それは……。昼の仕事の面接は行ってます。自立して生活して、誰にも迷惑かけたくない」
「だったら、そのために今は心と軆を休めようよ」
「でも休むヒマなんて、」
「私も実も助けるから。家族だよ。つらいときは甘えてほしい」
私は夕夏さんを見つめた。のろのろとシチューごはんに目を落とした。スプーンにすくって食べると、子供の頃に食べた味があった。
おいしい。
ちゃんと、おいしいって味がする。
嗚咽をもらす私の隣に来て、夕夏さんは背中をさすってくれた。外では雨が相変わらず激しく降っている。でもその雨音は、秘密基地で雨宿りして聴くそれのように、不思議と心を落ち着かせた。
私は、いろんなことをしばらく休むことにした。休暇を申し入れた時点でスナックはクビになったけど、逆にもう出勤しなくていいことにほっとした。
気づけば七月に入って、空は毎日晴れ渡るようになった。
例の紫陽花は見頃を終えようとしていた。実家の庭に咲いていた紫陽花がこのくらいになると、まだ元気だったかあさんが手入れをしていた。今年の花が終わったあとは、来年も綺麗に花が咲くように、花がら摘みをするんだよって。
私も、ちゃんと自分の心を花がら摘みしよう。終わったもの。離れたもの。失ったもの。そういうものは、心から摘み取っていく。未来が良くなるように、そっと手放して葬っていく。
この紫陽花も、きっと住人に花がら摘みされて来年に備えるのだろう。咲いた花はきらきらして綺麗だけど、来年のためにそれを引きずることはしない。
私も、そんなふうになれたらいいな。現在をやり過ごすのでなく、未来を紡ぐように。先の見えない今のことで苦しむんじゃなくて、少しでも楽しみがある明日のために生きたい。
そのために、私を守ってくれる光もある。
青空の下を歩き出した。スーパーに行こう。お弁当やお惣菜じゃなくて、食料を買って料理をしようかな。デザートには、昔から大好きなエクレアを買っちゃおう。
よし、と顔を上げた。
どこからか、この夏の先陣を切った蝉の声が響いた。
FIN