美しい春の雨

 空まであふれかえるような桜を、ひと息にむしるような春の雨が降っていた。
 遠くでは、雷も鳴りはじめている。この春雨前線が通り過ぎたら、暑くなるんだろうなあなんて思っていると、四時間目が終わるチャイムが鳴った。
 お昼ごはんを食べたいのは先生も一緒なのか、さっさと宿題を出して授業を切り上げると、教室を立ち去っていく。
 教室の空気がふっと緩む。私もスクールバッグからお弁当を取り出すと、小さく息をつく。
 北森きたもりと食べたいんだけどなあ、と思うけど、あいつは親友のはらくんと同じクラスになれたから、そっちばっかりだ。
松本まつもともクラスに友達に作ればいいじゃん」
 北森はあっさり言うけれど、私は彼氏である北森とできれば過ごしたいのだ。
 一年生のとき、二学期が終わった日のことだ。クラスのメッセグループで、クリスマスにはカラオケに行こうと言い出した子がいた。すると、「行く」とか「参加」とか応えた、わりと用事のないクラスメイトが多かった。私も参加することにして、そこでボカロを歌ったら、食いついてきたのが北森だった。
「今の奴、俺のねえちゃんがすっげえ好きでさ。俺も好き」
「おねえさん、いくつ?」
「え、二十歳だったかな」
「そっか。ちょっと古い曲だから、その年代だよね」
「え、名曲じゃん! むしろ、最近の奴を俺知らねえわ」
「あはは。私もボカロは中学のとき聴いてた曲が一番好き」
 そんなふうに盛り上がっているうちに、「お勧めの曲、教えてよ」と言った北森と自然と連絡先を交換していた。その夜から、頻繁にメッセや通話をして、バレンタインにはチョコも渡した。
 受け取った北森は、私をじっと見つめた。
「来月……だよな」
「え」
「いや、その、お返し的な」
「ああ、別にホワイトデーは気にしなくても──」
「渡すよ。ちゃんとした奴、渡す。ただ、その……待てるか分からねえ」
「待つって」
「早く返せば、そのぶん早く松本とつきあえるんだろ?」
 私は北森のまじめな瞳を見て、ええと、と言葉に詰まった。どっちかといえば友チョコなんだけど、とは言わないほうがいいのか。
 というか、こいつ、私とつきあいたいの?
「返すから。何か、いい奴を返すから、……そしたら、彼氏だよな?」
「てか、私のこと好きなの?」
「好きじゃなきゃ、寝るまで通話とかしねえわ」
「……そんなもんか」
「えっ、松本は違うのか。俺と話してて楽しくない?」
「いや、それは楽しいよ」
 変な沈黙があったあと、「……義理なら、むしろ受け取れないかも」と北森はうつむいた。そのしゅんとした様子に、何だか放っておけない愛おしさを覚えた。
「北森」
「ん」
「ホワイトデー、別にいい奴とかいらないから」
「っ……」
「……おそろのストラップとか、何か、そういうのがいい」
 北森はぱっと顔を上げた。
 自分で言って恥ずかしかったけれど、彼氏とそういうことをするのが私の夢だった。お高めのお菓子なんかより、夢をかなえてほしい。そっちのほうが、ずっと、……好きになる。
 そんなわけで、その週末に北森とデートをして、ボカロキャラのメタルチャームストラップをおそろいで買った。近くのファーストフードで、さっそくスマホのストラップをつけかえた。
 それから、私と北森はつきあっている。だから、今はつきあいはじめて二ヶ月くらいだ。
 二年生になるクラス替えでも、同じクラスになれたらよかった。北森は「恥ずいだろ」と言って私とのつきあいは隠しているし、切り替えもできるのかもしれないけど。私は彼氏になったなら、一緒に過ごしたいと思ってしまう。
 私は仲の良かった子ともクラス離れたからなあ、なんて思いつつ、ひとりでお弁当を開いていたときだ。
「一緒にお弁当食べてもいい?」
 突然そんな声をかけられ、はたと顔を上げた。
 そこには、確か今年初めてクラスメイトになった女子がいた。長い黒髪、カールした濃い睫毛、血色の良い肌や唇。名前が出てこなくて、とっさに名札を見る。
 津田つだ、さん。これまでに話したりした憶えはなかったけど、拒絶する理由もなく、「あ、どうぞ」と私はぎこちなく答える。
「よかった。松本さん、クールだから断られるかと思った」
「クール……ってことはないよ」
「話してみたかったの。何をって言われたら、よく分かんないけど」
 津田さんは自分で笑ってから、私の前の席が空いていたので、その席の椅子を借りて、私のつくえにお弁当を置いた。
 すらりとした指が、お弁当ぶくろの結びをほどく。爪がすごく綺麗な桜色で、それを私が見つめているのに気づくと、津田さんは照れ咲いをして「マニキュアばれた?」と言う。私はあやふやに咲って、「綺麗だね」とだけ答えると、自分のお弁当を開いた。
 窓の向こうで、いつしかだいぶ近くなっていた春雷が、大きくとどろいた。相変わらず雨もひどくて、放課後までにやみそうにはない。
 それから、津田さんはよく私に話しかけてくるようになった。友達がいないわけではないようだけど、特別に親しい子がいる様子もない。ぼっち気味同士だから話しかけられてるのかなあ、と最初はとまどっていたけど、嫌な子ではなかったから、そのうち私も気を許していくようになった。
『松本も、最近仲いい子いるよな』
 夜には、今もよく北森と通話をする。学校ではあんまり見せなくても、こういうふたりの時間のときは、北森のほうがよっぽど「何で松本とクラス違うかなあ」とかぼやく。それに対して、「原くんがいるじゃん」と意地悪を言ってみると、『いるけどさあ』と北森はため息をついたあと、『そういえば』と思い出したようにそんなことを言った。
「ああ、津田さん?」
『名前は知らねえけど』
「話しかけられて、そのまま仲良くなった」
『原が「美人」って言ってた』
「北森の本音じゃなくて?」
『俺は松本のが、……かわいい、と思うよ』
 思わず笑ってしまうと、スマホにつながる北森とおそろいのストラップが揺れる。
「じゃあ、津田さんに原くんのこと話しとく?」
『おー、それいいかもな。原はいい奴だぞ』
「いきなり原くんの名前出せないから、彼氏の親友とは言うよ?」
『まあ、それが原の幸せになるなら許すわ』
 北森もそう言ったから、翌日、私は津田さんに原くんのことを話した。「その人、松本さんと仲がいいの?」と津田さんは首をかしげ、「あー、いや……」とやはり言うことになるかと躊躇ったものの、「彼氏の親友なんだよね」と正直に言った。
「彼氏。いるの?」
「まあ、うん」
「私、知ってる人かな」
「どうだろ。元三組の北森って奴」
「……そうなんだ」
 津田さんは少しうつむいて考えていたけど、「じゃあ、今度、原くんって人と話してみようかな」と言った。持ちかけておきながら、少し意外だったので、「いいの?」なんて確認してしまう。「うん」と津田さんはにっこりして、やったじゃん、と思わず原くんの横顔を思い出したりした。
 初夏が始まる頃には、私たちは四人で過ごすことが一気に増えた。葉桜が揺らめく中庭の木漏れ日の下で、よく四人でお弁当を食べた。津田さんのおかげで、北森とお昼を一緒に過ごせるようになったのが、実はけっこう嬉しかったりした。
 だから、原くんが「リア充と昼飯食うのもなー」と言い出したとき、私も北森もその言葉の裏を深く考えなかった。津田さんが気になる原くんは、とっくに気づいていたのだろう。そして、北森と私を思いやるからこそ、そう言ってくれたのだ。
 なのに、私はぜんぜん気づけなかった。せめて、北森が気づく前に、私が気づかなきゃいけなかったのに。
 津田さんが、北森にほのかな熱のこもった視線を向けていることに。
 今思えば、すべて津田さんの思い通りに動いていた。津田さんの行動は歯車となり、私たちは彼女の狙い通り、狂いなく動いた。
 津田さんは私に話しかけて。
 私は応えて心を開いて。
 それは北森の警戒もほどいて。
 津田さんは原くんを建前に、私と北森の時間に割りこんで──
「ごめん、松本。俺、津田に告られちゃって」
 そう言った北森は、スマホからすでにはずした、おそろいのストラップを私に握らせた。
「あいつ、俺のこと『好き』とか『かっこいい』とかどんどん言うから、嬉しくて……好きになっちゃって……」
 息ができないみたいに真っ赤になって、苦しげに言い訳する北森の少し先に、津田さんがいる。始まったばかりの夏の日が射す廊下の窓にもたれて、こちらを見ている。私と目が合うと、津田さんは悪意もかけらもないみたいに、悠然と微笑んだ。
 北森の声は、もう耳に入ってこない。
 津田さんに初めて話しかけられた日の、ひどい春雨を思い出した。桜をむしりとるような春の雨だった。津田さんは、桜を狩ったみたいに綺麗な爪をしていた。
 あの日から、忌まわしい歯車はまわりはじめていた。私も、北森も、それに巻きこまれていることに、なぜ早く気づかなかったのだろう。
 あの雨で、満ちあふれていた桜はもぎとられてしまった。同じように、私のゆっくり温めていた恋は、あの桜色に濡れた爪で、ぷちんと殺されてしまったみたいだ。

 FIN

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