君を失う前に

 幼い頃、「なおくん」と俺のあとをいつもついてきていた和紘かずひろが、うまく友達を作れず、それどころかイジメを受けているのはうわさに聞いていた。
 気にかかっても、和紘と仲がよかったのは幼稚園のときで、小学校にあがってからはクラスも違って疎遠な俺が、首を突っ込んでいいのか分からなかった。五年生に進級して、やっと同じクラスになったときには、和紘は同じ教室に俺がいることにも気づかないぐらい、うつむいてばかりだった。
 五月、すでに真夏日もちらほらしているのに、和紘は長袖を着て、その袖口を引っ張っている所作をやたら繰り返していた。それを何となく気をつけて見ていたら、ある日、袖の影に赤い線が走っているのが見えた。
 一瞬、ぎくりと息を飲みこんだ。俺の服の裾をつかんで、いつも後ろに隠れていた和紘。そんな和紘が、俺と同じ十歳で死を意識していることにひどく動揺して、痛いなとか、メンヘラかよとか、そんなことは思えず──俺は席を立っていた。
川菜かわな
 俺に声をかけられた和紘は、びくんと顔を上げた。そして、俺がイジメグループのメンツではなかったせいだろうか、少しほっとする。
「あ、……えと、森原もらはらくん」
「手首」
「えっ」
「その……あんま、やめとけよ」
 和紘は俺を見上げて、大きな目をみはった。それから、また長袖を引っ張り、砂礫になるように表情を崩すと、「これしかないんだよ」と消え入りそうに言う。
「僕にはこれしかない」
「これしかない、って……死にたいのか?」
「切らなきゃ死にそうなんだよ……」
「そんなことは、ないだろ」
「頭がおかしくなるんだ。どんなにつらくても、話を聞いてくれる人なんかいない。だから、僕はこれで──」
「じゃあ」と俺は和紘のつくえに身を乗り出す。
「俺が話を聞くから」
「えっ」
「話でも愚痴でも聞く。だから、それは良くない」
「森原……くん」
直晃なおあきでいいよ」
「……どうして」
「いや、幼稚園のとき、俺らけっこう仲良かっただろ」
「もう五年生だよ……」
「いいんだよ、細かいことは。とにかく、川菜……ってか、和紘に何かあったら俺は嫌だ」
 和紘は顔を伏せた。ついで、ほろほろと涙を落としはじめたので、俺は慌ててしまう。「何だよ、嫌なこと言っちまった?」と背をかがめて覗きこむと、和紘は首を横に振った。
 周りからちらちら視線が来ているのは気づいているが、無視しておく。
「……そんなこと、家族も言ってくれない」
 和紘は涙をぬぐう。
「家族は、言わなくても、思ってるだろ」
「思ってないよ。またそれやったのかって……その程度だよ」
「………、俺は、和紘が切るのは嫌だよ」
「嫌……なの?」
「嫌だよ。心配だよ」
 和紘は睫毛を濡らして俺を見つめてくる。俺はちょっと照れて目をそらし、それでも、「ひとりで抱えなくていいよ」と和紘の瞳を見つめ返した。
「そんなことやるほど追いつめられてんなら、幼稚園のときに仲良かった俺でもいいから、とにかく誰かに頼っとけ」
「……直晃、くん」
「おう」
「僕──」
「ん?」
「ずっと、と……友達が欲しくて、」
「俺らは、幼稚園からエスカレーターで友達だろ」
 俺の言葉に、和紘はようやく笑みをこぼした。蒼白い肌。華奢な軆。細い脚。顔立ちは中性的で、そこそこ美少年だから妬まれてイジメられるのだろうかとぼんやり思う。
「何かあったら、俺んとこ来い。俺も和紘のこと気にかけておく」
「ありがとう……」
 その言葉尻がまた涙声になって、それから、「もう切りたくない」と和紘はつぶやいた。俺は微笑むと、和紘の肩をとんとんと励ます。
 そうして、その日から俺と和紘はよくつるむようになった。
 和紘は幼い頃から、気分障害を患っているそうで、通院と投薬を続けていた。イジメでも、それをメンヘラとかビョーキとか言われることが多いらしい。
 昼にも薬を飲まなくてはいけなくて、その薬は保健室に預けてある。管理は大人に任せるべきだし、「僕が自分で持ってたら、捨てられたりされそうだから」と和紘はあやふやに笑った。だから、給食が終わると、俺たちはいつも一緒に保健室に行った。
「和紘くん、友達できたんだね」
 俺が毎回保健室に付き添っていると、保健の先生は嬉しそうな笑顔で和紘を迎えた。和紘がひかえめに俺を見て、「友達です」と俺が代わりに保健の先生に答える。
「そっか。森原くん? 和紘くんをよろしくね」
 俺の名札を見て、保健の先生はにっこりしてくれる。それから、保健の先生は和紘の薬を用意して、俺は紙コップにサーバーから水をそそぐ。それを受け取って、和紘はあんまりおいしくなさそうに薬を飲む。
「ふたりとも、ゆっくりしていっていいからね」
 保健の先生は俺たちにそう言うと、ほかにも訪ねてきている生徒たちの相手をする。和紘は丸椅子に腰かけたまま立ち上がらなくて、「教室帰りたくない?」と俺が気にかけると、和紘はぎこちなくこくりとした。
「そっか。うざい奴多いもんな」
「直晃は、僕に関わってるからって嫌なことされてない?」
「ないよ。されても、どうせ気づかねえぐらいしょうもねえわ」
 和紘は小さく咲って、「病気がうつるとか、席が近くなった人に言われたことあるから」とうつむく。
「んー、俺にうつして和紘が楽になるならいいけどなー」
「だ、ダメだよ。……なったら、直晃でもつらいよ」
「……そうだな。でも、治るよ。治そうとしてるんだろ?」
「うん……。でも、変な人は多い」
「変な人」
「これを食べたら治るとか、神様を信じればいいとか、毎朝ジョギングしないせいだとか」
「え、それって親?」
「親ではないけど……親も、育て方とかいろいろ言われてて、つらそう」
 俺は和紘の横顔を見る。和紘も俺を見て、「僕には直晃がいればいいのにね」と言った。俺はまばたきをして、ちょっと笑みをこぼすと、「うん」とうなずいた。
 ……何、だろ。何か今、和紘の言葉で心臓がざわざわした。嫌な感じではなかった。ただ、微熱をはらんだようなそれは、和紘には悟られてはいけない気がした。その微熱のまま手を動かしたら、和紘の髪に触れてしまいそうだったから。
 季節は巡り、俺たちは六年生になった。俺がいつも隣にいるせいか、和紘へのイジメはかなり減って、手首の赤い線も生傷じゃなくなった。和紘の親も、俺が友達になっていることを知って喜んでくれた。
 そして、俺と和紘は同じ公立の中学校に進学した。
 同じクラスだといいんだけどなあ、と思っていたが、そう都合よくもいかなくて、俺と和紘は別のクラスになってしまった。俺より和紘のほうがショックだったみたいで、体育館の壁に貼り出されたクラス発表の前で突っ立っていた。
「別に──」とその隣に立った俺は、何とか和紘のショックをやわらげようと口を開く。
「クラス違っても、友達だし。休み時間は、俺が和紘の教室行くよ」
 和紘は俺を見た。大きな瞳が壊れ出しそうに濡れていて、俺はぐっと自分を抑える。
 まただ。和紘の髪を撫でたい。手を握って引っ張っていきたい。そして、誰もいないところで和紘に触れたい。
 でも、そんなことしたら、絶対気持ち悪がられる。だって、俺と和紘は男同士だ。
「直晃がいないと、僕……」
 不安そうな和紘の声に、俺はうわずった言葉をかぶせた。
「俺、同じ学校からいなくなるわけじゃないし。ほんとに、休み時間とか会いにいくよ。大丈夫だ」
「……でも」
「大丈夫だよ。何かあれば、和紘も俺のクラスに来ていいから」
 和紘は泣きそうな顔を伏せた。大丈夫と何度言っても、和紘の表情は落ちこんでいった。
 どうしたらいいのか分からなかった。たぶん、抱きしめちゃいけないことしか分からなかった。
 和紘と別々のクラスで、中学生活が始まった。和紘は絶対俺が守る。そう誓っていたけれど、クラスが違うというのは予想以上に壁だった。
 最初のうちは、俺が自由に動けたからまだよかった。クラスに適当な友達ができてくると、呼び止められて毎度の休み時間に教室を抜け出せなくなっていく。それでも、何とか和紘の教室に向かうと、和紘は校内のどこかに連れ出されている。
 どういう奴らか見たことはなくても、それが和紘の友達ではないのは知っている。裏庭の栽培の畑で土を食わされる。トイレでつまずかされて水を浴びせられる。制服をはぎとられ、自慰を強制させられることさえ。
 休み時間だけなく、放課後に和紘の行方が知れないときもあって、必死にあちこち探してやっと見つけたら、何をされたのか和紘は脱線したみたいな瞳で茫然と座りこんでいた。
「和紘」
 俺がかたわらにひざまずいて声をかけると、和紘はゆっくりこちらを見て、俺の名前をつぶやくと、ようやくぽろぽろと涙をこぼした。「ごめん」と俺が言うと、和紘はいっそう泣いた。
 涙の粒が、和紘の白い細い手の甲に落ちて砕ける。俺はこらえきれず、その手をつかんで握りしめた。和紘は握り返すことはなく、ただ「死にたい」とぽつりともらした。
 俺ひとりではどうしようもないと思った。だから、中間考査が終わった頃、気が進まない様子の和紘を保健室に連れていった。小学校のときの保健の先生の印象で、ここなら和紘をかくまってくれるんじゃないかと思ったのだ。
 しかし、「そういう子、今は多いから手がまわらないんだよねえ」と予想外の拒絶を受けてしまった。保健室の中に確かに生徒は多かったけど、髪を染めたりピアスをしたりしてる先輩がたむろして、お茶とお菓子にありついてだべっているだけに見えた。
 そんな不良どもにお茶を出すくらいなら、もっとほかに助けるべき生徒がいるんじゃないのか。そう言ってやりたかったが、ここにかくまわれても和紘が息苦しいだろうと分かったので、俺は唇を噛んで保健室をあとにした。
「ごめんね」
 教室に引き返す途中のにぎやかな廊下で、不意に和紘がそう言った。俺は振り返り、「え」とワンテンポ遅れて立ち止まる。和紘は涙を溜め、「僕は弱いね」と声を震わせた。
「直晃がいないと、僕はぜんぜんダメだ」
「和紘……」
「ごめん、迷惑ばっかりかけて」
「迷惑なんて、」
「僕なんか、学校に来なきゃいいんだよね」
「………」
「そしたら、直晃だって──」
「俺は、和紘がいない学校は楽しくないよ」
 和紘は泣き出しそうな目で俺を見る。窓から射す陽射しが、和紘の瞳の奥の傷口までさらすように白い。
「だからそのために無理に学校来いとは言えないけど、和紘がまだ学校に来ようと思うなら、俺は嬉しいから」
「ほんと、に……?」
「当たり前だろっ。俺は和紘のそばにいるよ。俺がいないとダメなら、それでもいいんだよ」
「直晃……」
「俺は和紘の味方だから」
 そのときだ。和紘が俺の手を取って、ぎゅっと握りしめてきた。どくんと心臓が跳ね、頬に熱がこみあげる。
 和紘は俺の名前を何度も口にして、ちらちら瞥視してくる生徒の往来もある廊下なのに、構わずに泣き出した。俺は自分の鼓動に狼狽しつつも、和紘のほっそりした手を握り返す。
 ああ、そうなんだな。俺は和紘が好きなんだな。やっぱり、そうだよな。
 うすうす感づいていた。それはダメだって思ってきたけど、もう否定できない。和紘を守りたいと思ってきた。それは、俺がこいつに、友情を越えて恋をしているからなのだ。
「あいつら、男同士でつきあってんじゃね?」
「うわっ、ホモとかマジかよ」
「やばいだろ、さすがにガチで同性愛とかないわ」
 やがて、俺と和紘に関してそんなうわさが立ちはじめた。俺はともかく、和紘は嫌だろうなあと心配だった。
 俺はそのうわさで、クラスメイトにヒカれて薄い友情を解放され、和紘の教室にまた頻繁に向かえるようになった。和紘は俺を見つめて、何か言いたそうにしても口をつぐむ。
 分かっていた、周りに勘違いされるからしょっちゅう来なくていいと言いたいのは。でも俺はそれを言わせず、和紘のそばにいた。
「森原って、ほんとに川菜くんとつきあってるの?」
 夏休みを挟んで二学期になって早々、いきなり見知らぬ女子にそんなことを訊かれた。
 残暑が半袖の腕をねっとり舐め、何もしなくても汗ばむ軆を持て余す。夏休み明けだといって調子が切り替わらず、不安定だった和紘はその日学校を休んでいた。なので、俺は休み時間も教室でぼさっとしてたのだけど──
 そんな無神経な質問を直球で投げてきた女子に目をくれた俺は、「うるせえ」とだけ吐き捨てた。
「答えになってない」
「お前に関係ない」
「あたしが関わっちゃいけない関係が、川菜くんとあるの?」
「あのなあ……」
「ちゃんと答えてよ」
「どうでもいいだろ」
「よくないの!」
「何だよ、俺、お前の名前も知らねえ──」
樫村かしむら美智みち!」
「……何なんだよ」
 くるくるしたパーマをツインテールにした樫村はにっこりして、頭突きでもしてくるのかと思うほど顔を近づけてから、「森原とつきあいたいの!」と言い放ってきた。
 俺は眉を寄せて樫村のきらきらした瞳を見て、「は?」と言っていた。途端、教室も一気に湧いて「いいぞ!」「更生させろー!」とかいう声が上がった。その感触に樫村は満足そうにし、とりあえず顔を離す。
「え、えと……」
「あたし、森原のことが入学式のときから──」
「いや、待てよ。俺はお前を知らないぞ」
「クラス違うしね」
「………、あの、気持ちは嬉しい……」
「うんっ」
「けど」
「けど?」
「よく知らん奴とはつきあえない……」
「よく知ってたら男ともつきあうのに?」
「和紘とはつきあってねえよっ」
「じゃ、あたしはこれから頑張ってもOK?」
「それは……まあ、勝手なんじゃね」
「よしっ! じゃあ、頑張らせてもらう」
 樫村はにこっとすると、ちょうどチャイムが鳴ったのでスカートをひるがえして俺の教室を出ていった。
 何なんだよ、と俺が茫然としていると、「かわいかったじゃん」「目え覚ませよー」とかまだ言うクラスメイトがいる。俺は苦い表情を作ってそれに舌打ちを返すと、知るかよ、と次の授業である国語の教科書を引き出しから取り出した。
 俺は確かに、和紘が好きだと思うけど。まあ人に好意を告られたのは、そこまで悪い気はしなかった。放課後、和紘の家を訪ねて一応その話をするまでは。
 ベッドから身を起こした和紘は、俺の話を聞いて「やっぱり直晃はモテるんだなあ」なんて言っていた。けれど、樫村美智という女子の名前を聞いた瞬間に、表情を凍らせた。俺はすぐそれを見取り、「何かあるのか?」と尋ねる。
「樫村……さん」と喉を引き攣らせた和紘は、急に胸を抑えて、発作のごとく過呼吸を起こした。俺は慌ててベッドスタンドに常備してある紙ぶくろを和紘に渡し、痙攣する背中をさする。和紘は息を吐いてばかりだから、「ちゃんと息吸って」と俺は声をかける。
 和紘はしばらく背中を丸めてこわばっていたが、何とか落ち着いてくると涙目で俺を見た。
「ごめん……」
「いや、ぜんぜん──」
「そうじゃ、なくて」
「え」
「直晃は、樫村さん……と、つきあうの?」
「いや、ないと思うけど……たぶん」
「もし、つきあうかもって少しでも思うなら」
「え、えー……?」
「……そう思うなら、言わない」
「えっ?」
「知らないほうがいいと思う」
「な、何だよ。あいつ、何かあるのか?」
「………、」
「知らないほうがいいって何? いや、えーと……まあ、つきあわないと思うよ。そんな、女子のこと考えるとかめんどいし」
 和紘は俺を見て、苦しそうに瞳をゆがめる。「あいつとは何もならないから」と俺は念を押すようにくりかえす。
 すると、和紘はわななく息を吐いて、言った。
「樫村さんは、今、僕をイジメてる人だ」
 翌日の朝、俺は和紘の教室を訪ねた。和紘には、今日も学校は休んでおくように言っていた。
 果たして、その教室に樫村はいた。俺に名前を呼ばれて、「あれ、クラス教えてたっけー?」とか言いながら笑顔で駆け寄ってくる。俺は顰めっ面のまま、「ちょっと来い」と樫村を教室から連れ出し、主に教師が使うためにひと気のない階段の踊り場で立ち止まった。
「何? 昨日の返事?」
 樫村が覗きこもうとしてきたのを、「返事はしただろ」と俺は苦々しくよける。
「まだ頑張れるなら、ノーカンにしてあげる」
「俺はお前とつきあったりしない」
「えー、でも昨日は」
「今、口きいてるだけでも吐きそうだ」
 俺にきっと睨まれても、樫村はすくんだ様子もなく、ツインテールの一方を指先でいじる。それから息をつき、小さく首をかたむけた。
「川菜に何か聞いたの?」
 川菜。昨日とは違う、呼び捨て。それでじゅうぶんだった。俺は樫村が女とか気にせずにその胸倉をつかむ。
「今すぐやめろ」
「えー……」
「和紘がお前に何かしたのかよ?」
「したよ?」
「あ?」
「だってあの人、邪魔なんだもん」
「邪魔って、」
「あたしが森原に入学式から目をつけてたのほんとだし」
 よく理解できずに渋面になると、「てか、放してよ」と樫村は俺の手をはらう。
「もー、一応、あたし女の子なのに」
「お前が俺に惚れてて、何で和紘に、」
「森原はあいつが好きなんでしょ?」
「は?」
「見てたら分かるから。でも、あいつは応えないと思うよ」
 思わず口ごもると、「気持ち悪いって言ってたもん」と樫村が飄々と続けたので、俺は彼女を見る。
「あいつに自分でやらせたとき、あたし、『どうせ森原でシコってんだろ』って言ったの」
「は……あっ?」
「そしたらあいつ、『そんなの気持ち悪い』っつって、マジで正直にちょっと萎えさせてんの」
「………っ」
「『じゃあ何でやってんだよ』って訊いたら──」
「いいっ、そんな話! 和紘が俺に応えないのだって分かってる!」
 樫村は俺を覗きこんで、くるんとした瞳を意地悪く細める。
「やっぱり、川菜が好きなんだね?」
 あ、鎌にかけられた。それにいまさら気づいて、脳髄が冷たくなってめまいがよぎる。
「ま、あいつがうちらの前でシコりながら、森原を『気持ち悪い』って言ったのはガチね。よく言うよねー、いつも守ってもらって、助けてもらって、それでも性欲の前では無理なもんは無理って」
「お前……っ」
「あいつが森原が好きだって言うなら、許してやろうかなとも思ってたんだけど。それは、森原も幸せになるってことだから。でも、あいつは森原を傷つけるだけなんだよ」
「……俺は、」
「あたしから森原の気持ち伝えようか? どんな反応か動画に撮ってきてあげるよ?」
「っ……」
「だから、森原は川菜のことなんかほっとけばいいんだよ。あたしとつきあえばいいの。大丈夫、『更生』させてあげるから」
 俺は樫村を見た。樫村はにっこりして、「絶対に報われないんだよ」と烙印のように告げる。
「それどころか、その気持ち知られちゃったらどうするの? あいつ、ゆいいつの味方にそういう目を向けられたって知るんだよ?」
 息遣いがきゅっとすくみあがる。それは、俺も……考えたことがなかったわけでなく、急所だったから動悸が襲ってくる。
「もしあたしとつきあってくれないなら、まあ……その理由として、森原は川菜が好きだって言ってた──くらいは、友達に愚痴るかなー。それが川菜の耳に入らずに済むかは分かんないなー」
 俺の憎々しい目つきにひるむことなく、樫村は俺に一歩近づく。
「その気持ち、川菜に知られたくないよね?」
 耳元で、樫村の女の子らしい甘いトーンの声が響く。
「だったら、あたしの気持ちに応えるのが賢いと思うよ?」
 足元に目を落とした。くらくらする。柔らかいフローラルの香り。
 こんな女、押しのけたい。でも、そうしたら和紘に知られる。俺の気持ちを知られる。その気持ちを、和紘はきっと『気持ち悪い』と──
「つき……あったら」
「うん?」
「お前と、つきあったら……和紘へのイジメはやめるんだな」
「イジメる理由なくなるしね」
「………、」
「ちなみに、あたしの言うこと聞いてくれる人は多いから、変なのが涌いたら特別に止めてあげる」
「……そうか」
「うん」
「じゃあ──お前と、つきあうから」
「うん」
「和紘のことは、もう……」
「了解っ! やったあ、嬉しいっ」
 腕に抱きついてきた樫村を、ぼうっと見下ろした。くるくるした髪が生きているみたいに跳ねている。
 ああ。俺、どういう判断してんだ。わけ分かんねえ。だいたい、樫村とはつきあわないって和紘とも話したのに。和紘に合わせる顔もないじゃないか。
 俺とこの女とつきあうことは、和紘が学校に来たらすぐばれるだろう。そもそも、俺はもう和紘の「友達」でさえなくなったんじゃないか?
 ……いや、これは和紘のためだ。俺の気持ちを知ったら、和紘は信じてきた俺に嫌悪感を持つ自分に、きっと傷つく。そういう優しい奴だ。
 何も知られてはいけない。そのためならどんなことも仕方がない。どうせ、ずっと一緒にいるなんて無理だった。男同士の俺と和紘は、結ばれるなんてありえなかった。いつかはこうなっていたのだ。
 昨日あれだけ派手に告られて、その翌日である今日にはつきあいはじめて、周りは和紘とのうわさなんかなかったみたいに、やたらと俺と樫村をはやしたてた。俺は放課後まで樫村につかまっていたから、和紘の家にも行けなかった。
 夜、和紘からメッセは届いていた。
『明日は学校行けると思う。』
 返信はしなかった。つけてしまった既読は、取り返しのつかない血痕みたいに感じられた。
 翌朝、和紘の家には行った。黙って置いていこうかとも思ったけど、いきなりそんなのは和紘をびっくりさせる。
 制服を着て家を出てきた和紘は、「おはよう、直晃」といつも通りに笑みを作った。それを見てぼんやりたたずんでしまうと、「直晃?」と和紘は不思議そうに首をかしげ、俺ははたと我に返る。
「あ──おう。おはよう」
「何か、あった?」
「いや、ないよ」
「……昨日、返事もなかったけど」
「見てすぐ寝ちゃって」
「そっ、か」
 和紘はうなずきつつも、歩き出そうとしない。俺も何となく脚を動かせない。向かい合って何だか止まっていたけど、言わなきゃ、と俺は心をくくって顔を上げた。
「なあ、和紘」
 和紘は俺を見上げる。
「お前、今日からイジメられないから」
「……えっ」
「もう、大丈夫なんだ」
「え、な……何で? 何かあったの?」
「俺は和紘のそばにいなくてよくなるんだ」
「直晃……?」
「あー、すっきりするな! 変なうわさも立ってたしな。つきあってるとか、マジ勘弁だわ」
「どうしたの? 直晃、僕──」
「どのみち、そろそろひとりで頑張れよ。俺なんかいなくていいように」
 和紘は見るからにおろおろしはじめて、動顛のあまり泣きそうになっている。俺はその蒼ざめた顔に向かって、微笑んでみせる。残酷なほど、穏やかに。
「俺はもう和紘に関わらない。和紘も、これ以上は俺に関わらないでくれ」
 嘘だ。嘘だ、って言えたらいいのに。こんなの嘘なんだよって、その手を引っ張って抱きしめられたらいいのに、そんなことをしたら俺は和紘を失ってしまう。
 嘘をつかなきゃ。
 どんなに喉がえぐれそうにずきずきしていても、俺は──
「樫村さん、と」
 刹那、肩がこわばる。和紘はそれを見逃さず、「樫村さんと何かあったの?」と続けた。細いけど、鋭さがこもった声に俺は内心動揺する。
「樫村、は──」
「何か聞いたの? 何を聞いたの?」
「………、」
「樫村さん、……より、僕……」
 和紘を見た。和紘は涙を流しながらも俺をじっと見つめていて、不意に「やだ」と言った。
「えっ」
「直晃のそばにいたい」
「……和紘、」
「直晃がいなくなるなんて嫌だ」
「でも」
「直晃が離れていくくらいなら、イジメられてたほうがいい」
「何、言っ──」
「僕をひとりにしないで。僕は直晃がいればそれでいい」
 何、だよ。何でだよ。お前が傷つかないようにしてるのに。穏やかに、あきらめようとしているのに。
 何で、そんな──俺がいればいいとか、昔、保健室で言ってくれた言葉なんか持ち出すんだ。
「和紘……、もう、ダメなんだ」
「どうして?」
「俺、樫村とつきあうし、」
「っ……それでも、僕はっ──」
 和紘が言い終わらないうちに、俺は唇を噛んでその華奢な軆を引き寄せて抱きしめた。和紘の軆が俺の腕の中でびくんとこわばる。いつのまにか俺まで泣いてしまっていて、「なあ、ダメだろ?」とかすれた声で言った。
「え……っ」
「このまま和紘のそばにいたら、我慢できないから。こんなのじゃ足りないくらいなんだ。もっと、和紘のこと、もっと……」
「直晃……」
「だから、俺には関わるな。離れておけ」
 俺は和紘と軆を離そうとした。が、そうすると和紘は嫌がって、俺の背中に腕をまわしてきた。心臓がどくんどくんと痛いほど脈打つ。
「かず──」
「もっと……して、いいから」
「……はっ?」
「何でも、していいから。直晃だったら」
「で、でも」
「……ぎゅってして。お願い」
 俺は何か言おうとした。しかし、何を言ったらいいのか分からない。だから、ただ、言われたままに和紘をぎゅっと抱きしめた。
 肩幅とか、腰つきとか、はっきり軆が軆に伝わってくる。その体温が腕に溶けこんでいくほど、俺はまた泣いてしまう。
「ダメだ……って思ってたから」
 和紘の声が間近で聞こえる。
「樫村さんに、直晃のこと、気持ち悪いって言ったことはあるよ」
「え……」
「樫村さんに知られたら、直晃に告げ口されて、嫌われると思ったから」
「和紘──」
「でも、僕……直晃のこと、好きでいていい?」
「……和、紘」
「僕が、直晃に恋をしないなんて、あると思うの?」
 和紘の顔を覗きこんだ。和紘は恥ずかしそうに睫毛を伏せた。俺はそっとその髪に触れ、頬に触れる。
 すると、和紘は再び俺と瞳を重ねた。その瞳は、初めて見るほどまっすぐで、俺は息を吐くのと同時に、和紘を抱きすくめる。
「和紘……っ」
「うん」
「俺も、和紘が好きだ。ずっと好きだった」
「うん」
「でもやっぱり和紘がイジメられるのは嫌だから」
「直晃、」
「何でもする。協力してくれる先生とか探す。誰もいなかったら和紘は学校来なくていい。おじさんとおばさんには俺が話す。勉強は俺が全部教える。俺が責任取るから、和紘はもう傷つかないことだけ考えろ」
 和紘は俺の目を見つめると、ふとその目をやわらげて、こくんとした。
「生きていくことだけ、考えて」
「うん」
「俺の隣にいて」
 和紘はほっとしたような笑みを見せて、またこくんとした。俺はその笑みを見て、自分もひどく安堵するのを感じる。
 嫌われて失う前に、突き放そうと思った。でも、そんなことをしたら、和紘が生きていけなくなって本当の意味で失うのは、どこかでは分かっていて、でもうぬぼれだろうと捻じ伏せた。そんなことはない。和紘は俺がいないと、愛おしいほどもろいから……
 ふと、お互い涙で顔がぐしゃぐしゃになっているのを見合い、つい噴き出してしまう。「学校、遅刻だね」と和紘は言って、「いいんだよ」と俺は和紘の髪を優しく撫でる。
「そのぶん、俺たちは間に合ったんだから」
 和紘は俺を見つめ、「うん」とはにかみながら答える。
 そうだ。和紘を失う前に、俺は間に合った。本当に、終わらせて、樫村とつきあうつもりだった。すべてあきらめたつもりだった。
 だが、闘ってやる。抗ってやる。できることは何でもやって、樫村こそ突き放し、和紘をイジメからだって救い出してみせる。
 俺ならやれる。だって、腕の中でこんなにも和紘が温かいから。誰より守りたい君が、俺のそばなら生きていてくれるから──俺は、今度こそ、この気持ちに嘘偽りない道を進んでやる。

 FIN

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