熱帯夜の午前二時、深夜特有の異様なテンションだった。
亮平からメッセが来なくて二週間。あたしはアプリストアで「婚活」とか「マッチング」とかいうキーワードを検索していた。
だって、やっぱり片想いなんだろう。あいつはあたしのことなんて何とも想っていない。稀にお茶して、たまに通話して、だいたいはメッセで。そのメッセもどんどん減っている。
そんな状態で、三年が過ぎた。
あきらめよう。うん、さすがにあきらめよう。これ以上報われない恋を続けても、あたしがもったいない。
というか、マッチングアプリ、異常に多いな。どれがいいのか分からない。とりあえず、無料でいいよね。
身分証の確認は取ってほしいかな。サクラとかにも引っかかりたくない。──なんてわがままを羅列していたら、ますますどれがいいのか分からなくなってきた。
面倒だけど、地道にレビューを読んで判断しますか。そう思って気になったアプリのレビューをさかのぼってチェックする。その中で何とかひとつに絞ると、理性が飛ぶ午前四時、あたしはマッチングアプリデビューしていた。
正直、誰でもいい。亮平じゃないなら、私を見てくれるなら、何かもうそれでいい。とはいえ、年上すぎたり年下すぎるのは面倒か。煙草とギャンブルも無理。申し訳ないけど、顔立ちが合わなすぎるのもダメ。向かい合う顔が生理的に無理ってきつい。
ぜんぜん誰でもよくないじゃない、と我ながら突っ込みつつ、指先ですいすいと続きつづける男の写真を眺める。
そうしていると、こんな時間なのに身分証明書の審査が通った。二十四時間体制なのか、それとも、この時間帯は血迷った登録者が多いのか。
なかなかいい人いないなあ、とふとんに腹這いになっているあいだに、こんなあたしにもいいねのハートがいくつか飛んできた。自分から食いついて、成功した恋ってないよな。だったら、いいねをくれた人の中から選んだほうが、まだ可能性があるかもしれない。よし、いいねをひたすら待とう。
そろそろ眠いから二時間寝るとして、そのあと十七時まで仕事、夜にいいねをチェックして誰かとマッチングしてやる。
そして亮平を忘れるんだ。私の気持ちを分かっていて裏で嗤ってんのか、それとも本当に何も気づいていない鈍感なのか、分からないけど、それはどっちでもいい。
限界だ。亮平を想って、満たされなくて、息苦しい飢えに冒されたくない。
あたしはもう三十三歳だから、二十代の子みたいによく思う人も少ないだろうな。そう思っていたけど、昼休みに惣菜パンを食べながらプロフィールも完成させると、予想よりは着々といいねが届いた。
でも、何だろう、このおっさん率。父親みたいな歳の人からいいねが来ると、さすがにヒくんだけど。同年代は、予想通り若い子に行くか。自分からいいねを飛ばして、脈があることってあるのかなあ。
そんなことも思いつつ、午後の仕事を定時で片づけると、あたしはさっさと帰宅して、クーラーで涼みながらさっそく届いたいいねを改めてチェックした。
まず、同年代を探した。いないこともない。年上は年上だけど──まあ、年下って面倒かな。亮平も年下だし。イケメンはぶっちゃけいないけど、マッチングアプリでイケメンを求めてはいけないのは分かる。
プロフにも目を通し、マシといえばマシかも、という人をひとり決めると、こちらからもいいねを折り返した。
そうしたら、それでマッチング成立になったからちょっとビビった。これで気が合うことになっちゃうの? あわあわしてたら、さっそく相手からメールまで届いた。
「早いよ!」と思わず声に出しつつ、あたしは何とか返答を返した。ラリーたった三回で、『よければこっちで話しませんか』とメッセアプリのQRコードが送られてきた。「早いだろ……」とまたもやつぶやきつつ、断る理由も見つからなくてアプリを移動する。
近隣住みだったので、あっという間にデートに誘われた。いや、だから早い……とついに入力しかけたけど、マッチングアプリのスピードってこうなのかもしれない、と思い直して、週末にその人とデートすることになった。
デートなんて久しぶりだなあ、とクローゼットをあさりはじめる。買ったほうがいいかな、とも思ったけど、亮平とお茶するときには不毛にもお洒落していたから、持っている服が全滅ということはない。
相手は年上だし、年下アピールでかわいいほうがいいのかな。それとも、背伸びしてかっちりしたほうがいいのかな。分かんないなあと姿見の前でいろいろ着替えていると、スマホが着信音を鳴らした。
二十二時。おやすみなさい、は一応言い交わしたんだけど。そう思ってスマホを手に取ってみて、どきんと表情をこわばらせた。
亮平じゃん。何だよ、このタイミングに連絡してくるとか。何でときどき、そういうとこあるんだよ。
どうしよう。もうこのメッセは無視したほうがいいのかな。いや、まあ既読はつけるか。
亮平のメッセを開くときは、いつも胸がざわざわする。『彼女できたんだ』とか、そういう最後のメッセなんじゃないかと。けれど、今日はそういうメッセでもどうでもいいじゃない。
というか、私こそデートすることを伝えて──
『景子ちゃん、明日の夜にごはん一緒に食べない?』
だーかーらっ、何でこいつ、このタイミングにって感じの連絡をたまによこすの!?
無理。断らないと。あたしは亮平のこと、あきらめるんだから。違う人とデートもするんだから。うまくいけばその人とつきあって、亮平のことは後ろめたくないようにそっとブロックして──
それなら、明日ごはん行って最後だねって伝えることは必要なのかな。いちおう、三年間「お友達」はやってくれたわけだし。
もっとシビアに行くべきなんだろうけど。やっぱりあたしは、亮平に甘い。結局OKの返信を飛ばして、だってこれで亮平とは最後だから、と自分に言い訳して、週末の前に明日着る服に悩みはじめた。
翌日、何だかんだでそわそわしてしまいながら仕事をして、いったん部屋に帰宅するとシャワーを浴びて着替えた。化粧も直し、どう切り出すかなあと悩みながら待ち合わせの駅まで電車に揺られる。亮平はすでに改札を抜けたコンビニ前にいて、あたしのすがたを見つけると、「景子ちゃん」と飼い主を見つけた犬みたいな笑顔を見せた。
くそ。やっぱかわいいな。悔しくもそう認めつつ、あたしはヒールを響かせて亮平に駆け寄る。
同じくらいの身長も。テノールの柔らかい声も。あたしには懐いたけど、最初はすごく人見知りだったところも。
好きなんだけど。本当に、好きなんだけど。あたしは、彼をあきらめなきゃいけない。
分かっている。好きなうちに、あきらめるほうが綺麗なんだろう。あたしのことどう想ってんのって泣いて、嫌いになる前に。終わらせてしまったほうが、きっと楽だ。
「いつものとこでいいよね」とコンビニ前から歩き出した亮平の隣を歩く。ファミレスまでの雑踏の中で、手をつなぎたいといつも思っていた。でも、亮平はあたしと手をつなぐなんて発想もないんだろう。
亮平に聞こえないようにため息をつくと、「あのさ」と心を決めて口を開いた。
「あたし、今度デートするんだ」
「えっ」
「何というか、そろそろ結婚とかも考えなきゃだし」
亮平はまばたきをしたのち、「結婚、考えてるような人がいたんだ」とわずかに目をそらす。
「いや、分かんないけど。アプリで知り合った人だし」
「アプリ」
「マッチングアプリ」
「はあ? そんなん危ないよ」
「いまどきめずらしくないでしょ。昔の出会い系でもあるまいし」
「でも」
「何」
「………、」
「何よ」
「……僕のことは、どうでもよかったの?」
あたしは亮平のうつむいた横顔を見た。
「どういう意味?」
「どう、って──僕は、景子ちゃんのこと、ずっと好きだったのに」
は?
ぽかんとしてしまうと、「あ、」と亮平は人見知りするときの泣きそうな目を見せて、「ごめん」と口ごもりながら言う。
「言うつもりなかったんだけど。僕なんか、相手にされないの分かってたし」
「………」
「ほんとに、迷惑……だよね。ごめんね」
亮平のたどたどしい言葉に、あたしは顔を伏せた。
そういうこと、言うんだ。あたしが死ぬほど言ってほしかった言葉を、この人、そんなふうに判断してたんだ。
「デート、楽しんできて。というか、このあとごはんとかいいのかな。景子ちゃんが嫌だったら──」
「亮平」
「うん?」
あたしは亮平のほうを向くと、手を持ち上げてその頬をぐにっとつねってみた。
「痛っ。な、何?」
「デートは行ってくる」
「………っ」
「きちんと、断らないといけないから」
「え」
「あとちょっとで、あたし、亮平のこと嫌いになるつもりだったよ?」
立ち止まってまじろぐ亮平に、あたしは笑顔を見せた。今にも涙を見せてしまいそうだったけど、咲っていいんだよね。今まで通り、君の隣で咲っていていいってことだよね。
亮平は少し躊躇ったのち、あたしの手を取った。あたしはそれを握り返して、「これに三年かかった」とくすりと咲ってしまう。亮平は気恥ずかしそうな、照れた笑みをこぼして、「いつもタイミングが分からなくて」と言う。
タイミングね。そのわりに、連絡をくれるときはずるいくらいに上手だけど。けれど、まだ君を好きなうちに、嫌ってしまう前に、今日誘ってくれてよかった。
涙を流したら、終わりにするつもりだった。
間に合ったんだ。あたしはこれからも君が好きでいいんだ。
そう思うと心がじわりと満たされる。何だかそれはそれで泣きそうになったものの、どうにかこらえて、あたしは歩きはじめた亮平の温かい手をぎゅっと握りしめた。
FIN