雨に咲く

 緑色が鮮やかに濡れている六月だった。
 その日もひどく雨が降りしきり、昨日から徹夜だった私は、眠い目をこすりながら病院をあとにしようとしていた。看護学生としての三年次は、体力も精神力も絞り取っていく。
 気分転換にいつもと違う模様の傘を持ってきていたけど、その赤のタータンチェックを眺めても、結局あんまり気は晴れない。人助ける前に自分が死ぬよ、と思いながら正面玄関を横切ろうとしたところで、雨の中にたたずんでいる人がいるのに気づいた。
 早朝の雨にずぶ濡れになっているのは、二十一になる私と変わらないくらいの男の子だった。黒髪も痩躯もびっしょりにして立っている。
 傘もささずに、何をしているのだろう。ただ病院を見上げている。不審者、には見えないし、今は面会時間ではないから、それを待っているのだろうか。でも、せめて軒先で雨宿りはするだろう。
 こんな強い雨に打たれて、病院の前で倒れられたら大変だ。私は彼に歩み寄ってみた。
「風邪ひきますよ」
 彼ははっとこちらを見た。合った視線に私は目をみはった。彼は目の中まで濡れていた。
 泣いてる、と思ったのと同時に連想したのは、亡くなった患者さんの親族や知人だったか──彼はうつむき、小さくうなずいた。
「……はい。そうですね」
 重たいため息がこぼれても、やはり彼に雨宿りする様子はない。
 私はこのまま冷たく離れるべきかどうかに迷って、仕方なくかばんの奥を探った。万が一のとき困らないようにいつも入れている、コンパクトな折り畳み傘を取り出す。
「これ。使ってください」
 彼はさしだされた折り畳み傘を見た。
「……でも、」
「事情は分からないけど、未来の看護師は人が風邪ひくのを無視はできないので」
「看護師さんになるんですか?」
「無事卒業して、受け入れ先が見つかればですけど」
「そうなんですか……」
 彼はうなだれ、そのあいだにも銀色の雨が視界を切り裂いていく。雨の匂いが立ちのぼっていく。
 私はもう少し彼に近づき、折り畳み傘を握らせた。いつものかばんに入るサイズで重宝していたものだけど、返ってこなくても仕方ない。彼は私を見て、哀しそうに言った。
「何か、ごめんなさい」
「いえ。できれば、雨宿りもしてくださいね。ほんとに風邪ひきますから」
 彼はうなずき、慣れない手つきで傘を開いた。ばらばらばら、と雨がはじかれる音が響いて、ほんとにびしょ濡れになっちゃってるな、と髪や服を見て心配になる。彼は激しい雨脚に霞みそうに、力なく咲った。
「ありがとうございます」
 私は何か言おうとしたものの、立ち入ったいらないことを口にしそうで、頭を下げて門から病院の敷地内を出た。門の脇の葉桜の下から、一度玄関を振り返った。彼は私の青い傘をさして、やっぱり突っ立っていた。
 腕時計を見ると、午前五時過ぎだった。私は私で、体温が少し高いのが分かる。始発で帰ったら、少しでも寝よう。仕上げなくてはならないレポートは山ほどあっても、一時間でも寝ないと、手につきそうにない。
 ふらふらしそうな足を引きずり、私はひとまず自宅に帰ることにした。
 それからだった。彼がしょっちゅう病院の前に立っているようになった。幻覚や幽霊ではないことは、看護学生のあいだでもうわさになったから証明された。
「あの人、彼女と駈け落ちしたんだって」
 そんな話が自然と耳にすべりこんできた。
「その相手が通院しなきゃいけない病気でね、なのに、お金がないからって病院行かなかったらしいの。それで、悪化した状態で救急車でここに運ばれてきて。もちろんご両親に連絡がいった。で、あの人は彼女の病室にも入れてもらえてないらしいよ」
 遺族じゃなかったのか、とうわさを聞いたとき思った。
 その日も彼は病院の前に立っていた。梅雨は長引いて、七月が近づいても雨の日が多かった。彼は私の傘をさして、雨の中でたたずんでいる。
 今日の雨は、夏が近くて蒸していた。夕刻だった。私が声をかけると、彼は顔を憶えていたのか頭を下げられた。
「ここにいると、みんなが勝手にいろいろうわさにしますよ」
 彼は涙を溜める目で私を見て、「知ってます」とつぶやいた。
「あなたも、聞きましたか」
「……一応」
「彼女が退院するとき、ここを通るのを待ってるんです」
「あんまり毎日立ってるから、通報しようかって婦長さんたち相談してますよ。気をつけたほうが」
「でも、こうする以外彼女に会える方法が分からないんです」
「………、」
「それとも、もう戻れないんでしょうか、僕たち」
 私は足元の水溜まりを見た。ちょっとだけ胸が痛い自分の影が映っていて、嗤いそうになる。好きなんだな、と息苦しいほど分かった。
 翌日、食堂での昼食を抜いて、うわさで聞いた病室におもむいてみた。院内には今日の昼食の匂いがただよっている。その病室は個室で、ちょうど親御さんらしい女の人が病室を離れたところだった。
 廊下にここに向かってくる人影がないのを確かめる。そして、そっとドアを開けて私が顔を出しても、昼食に手をつけていない彼女は、ただベッドに仰向けになっている。その瞳は、彼と同じように赤く、涙を浮かべていた。
 もう戻れない? そんなことない。ふたりはまだつながっている。婦長さんたちにばれたら、私が怒られるどころではないと分かっている。それでも、きっとここで糸をつなけば、彼女はごはんも食べるようになって、回復に向かってくれると思う。
 そう、まだ間に合う。彼の想いも、彼女の命も、ふたりの絆も。
 陰る雲から涙を流す彼女も、あの傘に入れる。そのために私は精一杯晴れやかな笑顔を作り、その病室に踏みこんだ。

 FIN

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