蒼い朝

 夜が明けてきた静けさの中に、ヒールの足音が響く。
 進むほどに心臓が滅入って重い。抑えつけてきた記憶がきしむ。怒鳴るおとうさん。たたくおかあさん。十六になった日に家を出て、四年が過ぎた。
 この四年間、躍起になって夜に働いてきた。そろそろあの約束を果たす。そう思って、私は今、あの家に向かっている──
 けど、やっぱり、憂鬱で頭が痛い。
 アパートの周りの景色は変わっていなかった。飲み屋の裏手、狭い小道、自転車の並ぶ入口。息遣いが震えそうになる。
 大丈夫。午前五時半。週末のこの時間なら、両親は酔いつぶれているはずだ。
 アパートの廊下に踏みこみながら、久々に握る鍵を取り出す。一番奥の105号室の前に立ち止まる。部屋からの物音はないけど、ほかの部屋の生活音はしている。深呼吸して、私は鍵でドアを開けた。
 部屋の中も朝の空気に蒼ざめていた。あの耳障りないびきはない。寝ていないのかとぎくっと足元を見ると、そこには靴がなかった。
 いない、のか。
 ……あの子たちも?
 眉を寄せていると、奥から何か物音が聞こえた。
 いや、いる。もしかしたら、親かもしれない。そうだったら、私は闘うしかない。
 子供の頃の虐待の光景がよぎってめまいがした。落ち着け。ここで逃げて、いつまでも約束を先延ばしにするわけにはいかない。
 靴を脱いで、久々に嗅ぐこの家のにおいの中を進む。この時間、ちょうど空気が冷めて昼間の熱気がない。ユニットバスとクローゼットにはさまれた廊下の先に、私も十六まで過ごしたリビングがある。
 部屋を見まわした。キッチン、テーブル、ベランダ──左手から確かめていって、右手の奥に目が留まった。
 同時に目が合った。怯えた目がとまどってまばたいている。
「……芽生めお?」
 毛布をかぶったその子は、腕の中に誰かかばいながら、口を開き、躊躇いがちに言葉を返した。
「おねえ……ちゃん?」
 涙が出そうに息ができなくなって、そこに駆け寄ってひざまずいた。「ごめんね」と芽生の頭に手を伸ばし、胸に抱き寄せる。
「ごめん、こんなに遅くなって」
「おねえちゃん……本物?」
「そうだよ。迎えに来るって約束したでしょ」
 芽生は空洞のようだった目を次第に濡らし、ぎゅっと私にしがみついてきた。
「おねえちゃん」
「うん」
「ほんとに、来てくれたんだ」
「うん」
「もう、僕たちのことなんか……」
「そんなわけないでしょ。迎えに来るために、ずっと頑張ってたんだから」
 そう言ったあとで、僕たち、という言葉に少し軆を離す。芽生の腕の中で、おどおどとこちらを見上げている男の子がいる。
茂斗もと……だよね」
「うん。茂斗、実音みねおねえちゃんだよ」
「おねえちゃん……」
「茂斗も、ごめんね。怖かったよね。もう大丈夫だから」
 茂斗は首をかしげて、芽生に身を寄せた。最後が四年前なのだ。茂斗は八歳だったし、私のことは、もはやぼんやりとしか憶えていないと思う。芽生は十二歳だったし、私をはっきり憶えていてくれたようだけれど。
「もう大丈夫、って……?」
 芽生がまだ声変わりしていないような細い声で言う。そうだ、と私は思い出して、部屋を見まわして両親がいないのを確認した。
「おとうさんとおかあさん、いないね?」
「おとうさんは……お酒飲みにいった。おかあさんはお仕事だって男の人と……」
「そっか。じゃあ、今のうちだね。持っていく荷物とか、すぐまとめて」
「え……え?」
「約束したでしょ、おねえちゃんがいつか迎えに来て、ここから連れ出してあげるって」
 芽生はまばたきをして、茂斗は芽生を見上げる。私はもう一度、ふたりを抱きしめた。
「この家から出ていこう。そして、私と暮らすの。あの親、どうせ変わってないでしょう?」
 ぎゅ、と茂斗が芽生にしがみついた。芽生は私を見つめて、「でも」なんて躊躇う。
「おねえちゃん、そんな、……いい、の?」
「そのために四年間、芽生と茂斗をこんな家に置き去りにしちゃったんだから。大丈夫だよ。ほら、親が帰ってくる前に出なきゃ」
 芽生はゆっくり立ち上がり、それにすがりながら茂斗も立ち上がる。
 腕も足も、ふたりとも成長期の男の子と思えない細さだった。そして、痣や傷が生々しく白い肌を冒している。
 視界が滲んで、「ごめんね」という言葉がどうしてもこぼれる。
「あの日、連れていってあげられなくて。ほんとはそうしたかった」
「おねえちゃん……」
「私だけひとり助かるみたいに、ここに置いていってごめんね。でも、約束は忘れたことなかったんだよ」
「……『迎えに来る』、って言ってくれた」
「うん。絶対、助けにくるつもりだった。これからは、あったかいごはんもふとんもあるんだよ。芽生と茂斗のことは、私が守っていってあげる」
 芽生が私に抱きついた。茂斗も私の服をつかんだ。私たちの同じ匂いがした。「怖かったよ」と芽生の涙が首筋を伝う。私は芽生の頭を撫でて、茂斗のことも抱きしめた。
 芽生と茂斗は、私が持ってきた大きなエコバッグに、少ない洋服と日用品をつめこんだ。私の家出のときと同じく、そんなに荷物はなかった。
 茂斗は芽生のあとばかりついて背中に隠れて、まだちょっと私を警戒している。そんな茂斗を芽生は柔らかくなだめ、「おねえちゃんは優しいよ」と言ってくれる。私は両親がいつ帰ってくるかに内心びくびくしていたけど、それは表さずにふたりを見守り、荷物が整うと急いで玄関に向かった。
 芽生と茂斗を連れて廊下に出ると、鍵はドアポストに入れておいた。本当はゴミ箱にでも入れたかったけど、何があって、何の因縁をつけられるか分からない。
 アパートを出ると、朝陽が昇りかけて青い空が透けはじめていた。蝉の声はさすがにもうなくなっている。
「けっこう歩くけど大丈夫?」
 まだ通りは、人も車も少ない。電車に乗るほどではなくも、距離のある部屋までの道のりについてそう訊くと、芽生は「うん」と言って、茂斗もうなずいた。
 芽生は私と手をつなぎ、茂斗は芽生と手をつなぎ、私はちょっとふらふらするふたりの歩調に合わせ、熱を帯びてくる朝の空気の中を歩いていく。
 家を出たら、ふた駅半先にある天鈴てんれい町という街に行こうと決めていた。今もそこに暮らしている。何だかすごく雑多な街で、ほとんど無法地帯にも近いのだけど、そのぶん身も隠しやすいし、十六歳だった私でも、大家さんに頭を下げれば部屋を借りることができた。
 大家さんは私の事情をくみとって、いつか弟ふたりも連れてくるということを承知してくれている。だから、芽生と茂斗もあのアパートでこそこそ暮らす必要はない。保証人はいない、保証会社もつくわけがない件については、大家さんは私の職場から直接家賃を受け取るという手段で納得してくれた。
 すっかり太陽が目覚め、一時間半くらいで部屋にたどりつくと、桃色のカーテン越しに室内は暖色だった。芽生と茂斗はひかえめに部屋を見まわして、「狭くてごめんね」と私は荷物を下ろして苦笑する。芽生は首を横に振り、「いい匂いがする」と言った。「ね」と言われた茂斗もこくんとする。
「陽当たりはいいから、たぶん日向の匂いかな。疲れたよね。とりあえず眠る? お腹空いたかな」
「ん……茂斗は、どうする?」
 芽生は茂斗を見て、茂斗は首をかたむけてから、「眠い」と言った。芽生はうなずき、こちらを見る。私はもちろん微笑み、このあいだ買ってきておいたふとん一式ふたつと、自分のふとんを並べた。この三つのふとんで部屋はいっぱいになる。
「明日、服とかも買いにいこうね」
 今日は、仕方なく持ってきたよれよれの服に着替えたふたりに、私はそう言って自分もポニーテールをほどく。
 芽生と茂斗は慣れない様子で新品のふとんにもぐりこんだ。芽生が真ん中だ。私もユニットバスに行ってからルームウエアに着替え、化粧も落として歯も磨いて、部屋に戻った。
 すると、芽生が身を起こして茂斗を覗きこんでいた。私に気づくと、芽生はこちらに軆を向ける。
「茂斗、どうかした?」
「ちゃんと寝たかなあって」
「そっか。寝れてる?」
「うん」
「疲れたかな。ずいぶん歩かせたもんね。ごめんね」
 芽生は首を横に振った。私は芽生の左隣の、自分のふとんの上に座った。
「よく眠れたあと、シャワーとかも浴びていいからね。ごはんも一応作れるようになったから」
 芽生はこくんとしたあと、「おねえちゃんも寝るの?」と訊いてくる。
「うん。夜に仕事してるしね」
「夜……」
「軆は売ってないから大丈夫。バーのスタッフやってるの。立ちっぱなしが足に来るけど、まあ、そのぶん収入大きい」
「家を出てから、ずっと働いてるの?」
「同じ店ではなくても、仕事は似た感じ。今のとこはけっこう続いてるよ。一年くらい」
「そうなんだ。僕、じゃあ、家のこととか手伝うね。ちゃんと、おねえちゃんの役に立つように頑張る」
「ありがと。私は、こうやって芽生と茂斗にまた会えただけでも嬉しいよ」
「僕も嬉しい。……あ、あのね」
「うん」
「僕、こんなしてもらって、わがまましちゃいけないって分かってるけど……ずっと茂斗のこと守って寝てたから、今日は、おねえちゃんと寝たい」
 私は頬を染める芽生を見つめ、くすっと咲ってしまうと、「そうだね」と芽生を抱き寄せた。
「芽生、頑張って茂斗を守ってきてくれたんだよね」
「……うん」
「えらいね。ほんとは誰かに甘えたかったよね。なのに、おにいちゃん頑張ってくれてありがとう」
「おねえちゃん……」
「もう私に甘えていいんだからね。私が芽生も茂斗も守るから」
 芽生は私に抱きついて、少し嗚咽をもらした。「よしよし」と言いながら、芽生の細い軆を抱くまま私はふとんにもぐりこんだ。
 芽生はひとしきり泣くと、頭を撫でていた私を見上げてくる。「寝る?」と訊くと芽生はうなずいた。そして、やっと、ほのかにながら笑みをこぼした。
「へえ、やっと夢実現させたわけだ」
 夕方になって、芽生と茂斗に留守番を任せて、私は職場に出勤した。
 バーのスタッフ。正確には、ゲイバーのカウンタースタッフだ。前の職場でここのオーナーに気に入られて、「女の子は空気になるけど来ない?」と誘われた。
 当時の職場では私はホステスで、ボディタッチが多い客たちにうんざりしていたから、なれるものなら対象にならない空気になりたかった。そんなわけでここに移って、男ばかり集う中で本当に空気みたいになって働いている。
 ほかのスタッフとも恋愛相談されたりと仲がいいし、みんなも私の事情を知ってくれている。その日は颯海さつみという同い年のゲイの男の子とカウンターを切り盛りしていて、私の芽生と茂斗を連れてきた報告に彼はそう言った。
「うん。大家さんにもきちんと報告したし」
「暮らしていいって?」
「そういう約束だったしね。でも大家さん、一見やくざだから弟ビビってたわ」
「はは。ここにも連れてきてよ」
「いや、未成年だって」
「んな堅いこと言わないでさあ。実音の弟のことは、みんなで心配してたんだよ?」
「んー、落ち着いたらね。てか、ナンパされないかな?」
「この店はガチムチ野郎が多いから、華奢な子は見向きされないんじゃない」
「確かに。じゃ、そのうちね」
 そのとき、「さっちゃん、ビールちょうだーい」と客が声をかけてくる。「べろべろじゃーん」と颯海が笑いながらその相手を始めて、いつも通り私が飲み物を用意する。
 店員としてさえ見向きもされないのは、私は気が楽だ。ホステスをしていた頃、男の欲望には本当にうんざりした。だから、この空気状態が心地よく感じるのかもしれない。
 芽生と茂斗は、まだしばらくは、私が同伴できるとき以外は部屋を出ないようにしていた。私もそうだったけど、芽生も茂斗も学校には行っていなかったらしい。「勝手に学校に行ったら怒られるし、学校行ってもみんなにイジメられた」と芽生はうつむいた。
 茂斗の勉強はすべて芽生が教えているようだ。芽生の勉強は私が教えていた記憶がある。「この街のこと、ゆっくり教えていくね」と言うと、芽生はこっくりとした。
 茂斗は、あんまり私としゃべろうとしない。でも、芽生にはよく懐いているし、そっとしておいた。茂斗は私が約束したことは記憶にないみたいだったし、それ以上に親からのあつかいがひどかっただろうから、いまさら現れた私にまで無理に心を開けとは言えない。
 私は週五、十九時から朝五時まで休憩なしに働いている。オフはたいてい、水曜日と日曜日だ。そんな日は芽生と茂斗を連れて買い物に出たり、部屋でゆっくり過ごしたりする。
 芽生と茂斗は、テレビをめずらしそうによく観ていた。バラエティとかより、ドラマやアニメをよく見ているようだ。ふたりが来て二週間くらい過ぎたオフの日、最初は細かった食欲を少しずつ増やしている芽生と茂斗の食器を私は洗っていて、ふたりはテレビの前でドラマを見ていた。
 炊事が終わると、「そろそろお風呂入っておいで」と言いながら、私はふたりのそばに腰を下ろした。芽生と茂斗は顔を合わせ、茂斗が立ち上がって着替えを抱えてユニットバスのドアの中に入っていった。芽生はそれを見送ってから、「おねえちゃん」と隣にやってくる。
「ん?」
「ごめんね」
「え、何が」
「茂斗、おねえちゃんとあんまりしゃべらなくて」
「ああ。いいよ、分かってるから」
「おねえちゃんは怖くないよ、って言ってるんだけど」
「急かさなくていいんだよ。少なくとも、茂斗には芽生がいるんだから」
「ん……」
「ゆっくり、私のことも受け入れてくれたら、もちろん嬉しいけどね」
 私がにっこりすると、芽生はそれを見つめて、うなずいてテレビに向き直った。そのあと芽生もシャワーを浴びて、最後に私がシャワーを浴びる。
 ユニットバスには、ボディソープの匂いと暖かい空気がすでに満ちている。
 貯金も切り崩しているけれど、何とか三人でやっていけそうな見通しは立ちはじめていた。もし厳しかったら、昼も働けばいい。絶対、あの家には戻らない。戻らせない。
 そんな決意を改めて持ちながら、ルームウエアになると、私はドアを開けようとした。
「おにいちゃん……」
 ん、と思ってドアを開くのを止める。この鈴を鳴らすような小さな声は、茂斗だ。何かふたりで話してるのかな、と思うと出るタイミングが何だか分からない。
「おにいちゃんは、もう、僕よりおねえちゃんがいいの……?」
 え。
「僕のことが、一番じゃないの?」
 芽生の返事がない。よく耳を澄ますと、寝息が聞こえた。芽生は寝ているのか。
「僕が一番大事だよ、って……言ってくれてたのに」
 茂斗の声は泣きそうで、え、と私の頭に混乱が生じてくる。
 まさか、茂斗には私のやったことは迷惑だった? 芽生とふたりで身を寄せ合っているほうがよかった?
 何で。あんな家、つらいはずなのに──
 でも、あの家には私がいなかった。茂斗は芽生を独占できていた。茂斗は芽生の目を自分に向けていたかったの? それって……
 あれ、とたどりつきそうなその意味に、私は息を飲みこんで水滴が流れるユニットバスを見つめた。
 翌日、私はカウンターの中で、客に口説かれている颯海を見ていた。同性愛か、と何とも言えない気持ちで腕を組む。偏見があったら、こんな仕事はしていない。
 が、芽生と茂斗は兄弟なわけで。それっていいのかな、とさすがに悩んでしまう。まあ、ひどい家庭だったのは私自身知っている。血のつながりがあっても、同性であっても、恋愛に近いほど相手を信頼するのはありうると思う。
 でも、果たしてそれは応援してあげていいのか。
 とりあえず、茂斗がなかなか私としゃべろうとしない理由は解けた。自分から芽生を奪いそうな私が、怖いのだろう。奪うつもりはないのだけど、芽生が甘えてくれたら、受け入れてあげたい気持ちはある。
 私が家を出てから、芽生は本当にひとりで耐えて茂斗を守ってきたと思うのだ。そろそろ休ませてあげたい。でも、それをさせてあげると、茂斗の中での私の好感度が下がることになるのか。
 どうすれば、と唸っていると、「どしたの」と客をかわした颯海につつかれ、相談していいものかも分からず、「何かむずかしいな」とだけ私は言った。
 それから、芽生と茂斗をよく眺めるようになった。芽生はいたって兄だなあと思った。茂斗は、勉強を教わるときとか、芽生をじっと見つめている。褒められて頭を撫でられると、嬉しそうに頬を染めたりもしている。見れば見るほど、やはり恋か、と思わざるを得なくて、どうしたもんかなあ、と私はひとり首をかしげた。
 芽生と茂斗が来て一ヶ月ほど過ぎると、だいぶ抜ける風が涼しく軽やかになった。夜には秋の虫の声が澄む。
 その日私はオフで、ふたりとも好きらしいハンバーグを夕食に作った。「おいしいね」と芽生に言われて、茂斗もうなずいてくれる。ほかほかした匂いの甘いごはんを口に運ぶ私は、茂斗に嫌われてるかもしれないなら哀しいなあと、最近はそんなことを思うようになっていた。
「茂斗」
 食後に芽生がシャワーに行って、普段はしないことだけど、私は食器を水にだけ浸けて茂斗のかたわらに歩み寄ってみた。茂斗はちょっとびくんとこちらを見上げ、まばたきを増やす。
 私は茂斗の目の高さにしゃがんだ。
「ごめん、テレビ見てたのに」
 茂斗はテレビをちらりとしたものの、首を横に振った。私は微笑んで、できるだけ優しい声で言った。
「茂斗には、私のやったことは迷惑だったかな」
 茂斗は私を見て、ぱたぱたとまじろぐ。
「私はね、とにかく茂斗たちをあの家から引き離せばいいと思ってた。私はあの家でつらい思いしかしなかったから。でも、茂斗は違ったかな」
 茂斗はぎこちなく首をかたむける。
「茂斗がね、芽生のことすごく大切で、大好きなのはよく分かるから。だから、私は……悪いことをしたかな?」
 茂斗は大きな黒い瞳に私を映した。それからちょっとうつむき、身動ぎをして小さな声を発する。
「おにいちゃんは、守ってくれる」
「……うん」
「ずっと、守ってくれた」
「………、そっか」
「でも、ね」
「ん」
「おねえちゃんは、助けてくれた」
 茂斗を見つめた。茂斗は私の視線に視線を重ねて、ちょっと困ったような、つたない笑みを浮かべた。
「ありがとう、おねえちゃん」
 はにかむ茂斗をじっと見つめて、不意に私はちょっと笑ってしまい、同時に涙が滲んだ。そんな私の反応に、茂斗はおろおろして「おねえちゃん」と呼んでくれる。「よかった」と私は何とかそれだけは伝える。
「芽生と茂斗を助けて、本当によかった」
 そう言って、茂斗の頭を優しくぽんぽんとする。茂斗はこくんとして、「おにいちゃんもおねえちゃんも好きだよ」と言ってくれた。
 ああ、ダメだ。やっぱり、かわいい。どんなでも、この弟がかわいい。茂斗が兄の芽生を想っていたとしても、何だかもう、反対できないし、邪魔なんてとんでもない。
 それでいいのかもしれない。茂斗の気持ちを、あんな家庭だった“ゆがみ”だという人もいるかもしれない。正すべきだという人もいるかもしれない。けれど、茂斗は本当に純粋に、自分を守ってくれた芽生を慕っているだけなのだ。
「ゲイは必ず後天的ってわけではないからね」
 バイト中、手が空いたときに颯海に少し事情を話してみた。颯海は煙草を吸いながら、適当にカクテルを飲んでいる。
「今は弟くんには兄貴しかいないってだけだから。いつか外にも目を向けるようになったら、自然とほかのいい男を連れてくるかもしれないよ」
「何か、それも複雑。男なのはいいんだよ、ただ、やっぱいつかは離れていくんだよね」
「それは仕方ないって。まあいいんじゃないの。好きな人できましたって男を連れてきても、それを受け入れる心構えはできたじゃない」
 その日も朝五時に仕事を終えて、帰宅すると芽生と茂斗はなじんできたふとんで眠っていた。私はその無邪気な寝顔を見つめる。少し前までは、よく眠ることすら上手にできなかったのに、そうしてこの部屋で安心することを、芽生も茂斗も知っていってくれている。
 三人で幸せになろう。親は私たちを否定した。でも、私がこの子たちを受け入れる。私が芽生も茂斗も愛して育てていく。
 ふたりを連れ出したときと同じ、蒼い朝の中でそんなことを誓う。そして覗きこんでかがめていた腰を背伸びで伸ばし、私もこの子たちに愛してもらえてるから大丈夫、と優しい黎明を迎える心を感じ取った。

 FIN

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