Break The Chain

 色違いだけどおそろいのそのマグカップを家族で買ったのは、いつのことだったのだろう。
 小学校に上がったときには、あった気がするから、幼稚園のときなのだと思う。
 頻繁に使うマグカップじゃなかったけど、おとうさんはコーヒーを飲むときにときどき使って、おかあさんも眠れない日にそれでホットミルクを作っていた。子供の私には、まだちょっと重たかったから高学年くらいになったら使うかなと思っていた。
 まあ、私が小学生になって以降に買うわけないか、と食器棚に並んだマグカップを眺めて思った。だって、私の家庭はおそろいのマグカップなんて持つような家庭ではなかった。
 幼稚園のときからそうだった気もするけど、昔はまだ、多少努力はしていた。その努力の片鱗がこのみっつのマグカップだ。でも、結局、こんなふうに仲良く並ぶ家族にはなれなかった。
 おとうさんは、よく怒り出す人だった。今で言うと、切れる──というか、モラハラやDVでもいいのかもしれない。
 ちょっと理解できないような些末なことで怒鳴りはじめて、おかあさんの髪をひっつかんだり、頭をひっぱたいたりする。おかあさんが「すみません」「申し訳ありません」と言うと、それしか言えないのかと今度はげんこつで殴る。
「お前がこんなに役立たずだと知らなかったら結婚なんかしなかった! 何で普通の女房ができてることがお前はできないんだ、恥ずかしくないのか、そうやってまた陰気臭い顔をしやがって!!」
 朝、夜、休日、関係ない。おとうさんが家にいるときは、おかあさんはもちろん、私だって竦み上がっていた。
 おとうさんは、私のことは怒鳴ったり殴ったりしなかった。それでも、おとうさんの前に立つと息ができないくらい混乱した。おとうさんが、絶対的な独裁者のように怖かった。
 その朝もおとうさんは理由は知らないけどとにかく怒っていて、おかあさんにさんざん怒鳴り散らし、しかし出勤の時刻が近づいてきたのでシャワーを浴びにいった。
 おとうさんの声がやんだので、一階に下りた私に「もうちょっと部屋にいたほうがいいかも」とおかあさんは気弱そうに咲った。うん、と口の中で答えたものの、「おとうさん、お風呂上がりは牛乳飲むよね」とテーブルにそれが用意されていないことに私は気づいた。
「あ、ほんとだ。ありがとう、いれておくね。おかあさんダメだね、やっぱり」
「私がいれるよ。ベーコン焦げないようにしないと」
 はたとフライパンで焼いているベーコンにおかあさんは向きなおり、私は深い意味もなくあのマグカップを手にした。おそろいのうち、おとうさんのものであるブルーのマグカップ。冷蔵庫から牛乳パックを取り出すと、とくとくとそそぎながら、浅はかなことを考えた。
 おとうさん、私のことは怒らないし。怒鳴らないし。たぶん、私に対しては、おかあさんみたいにいらいらしないし。私がこの牛乳を渡せば、ちょっと落ち着いて怒りもマシになるかもしれない。
 バスルームで物音がして、朝食を仕上げたおかあさんは急いでそちらに行った。お風呂上がりも世話してもらうみたいなんて、赤ちゃんみたい。
 おとうさん、おかあさんのこと役立たずって言うけど。おかあさんがいないとカップラーメンも作れないおとうさんは、役立たずじゃないの? 確かにお金は稼いできているかもしれないけど、……それだけじゃん。
 おとうさんは腰にタオルを巻いただけで出てきた。牛乳パックを置いた私は、マグカップを手に取って「これ」とおとうさんにさしだした。服も着ないまま、ダイニングテーブルに着こうとしたおとうさんはマグカップを一瞥すると、受け取った──
 と、私がほっとしたのも一瞬で、腕を振り上げると、勢いよくマグカップをキッチンの壁まで投げつけた。がしゃんっという大きな音に私はびくんとして、バスルームを片づけていたらしいおかあさんも顔を出した。
「こんなもの飲めるかっ」
 おとうさんは私の顔も見ずに吐き捨てると、がつがつと乱暴に朝食を食べて、リビングでスーツを着ると、車で出勤していった。突っ立っていた私は、おとうさんがいなくなって初めて呼吸が喉を通り、キッチンの壁を見やった。白い血みたいに、牛乳がべちゃっと広がり、マグカップがフローリングで砕け散っていた。
 私はとぼとぼとそこに歩み寄り、自分も学校に行かなくてはならないのも忘れ、割れたマグカップを虚ろに見つめた。
 ああ、おとうさんにとってはそんなもんか。おかあさんだけでなく、私のことだってそんなもんで、家族の想い出だってそんなもんなんだ。
 なのに、あの人、何でこの家に帰ってくるんだろう。もういいじゃん。帰ってくんなよ。おかあさん解放しろよ。私に顔見せんなよ。このマグカップみたいにばらばらになって、どっかで死んで、この家から消えろよ。
 その後、私はおとうさんに会わないために引きこもりになって、不登校になった。おかあさんは怒られていた。あいつがあんなふうになったのはお前のせいだと言っていた。
 ふざけんな、てめえのせいなんだよ。
 そう思いながらも、もうあのマグカップをさしだしたときのように、割って入ろうとは思わなかった。高校は通信制高校に通った。四年で卒業した。私は二十歳になって、本屋のバイトが決まって家を出ることになった。
 おとうさんには何も言わなかったけど、おかあさんには家を出ることを伝えた。ふたりで荷造りしていたら、あの日からおかあさんのものと私のものだけになったマグカップも出てきた。「これはもう捨てないとね」とおかあさんはため息をついて、マグカップをゴミぶくろのかたわらに置いた。
 おとうさんは相変わらずだ。高校生のとき、おかあさんに離婚しない理由を訊いたら、「おかあさんだけじゃあなたを養ってあげられないから」と言われた。私なんかを生かすために、この家庭は続き続けたのか。そんなのむしろ死にたいと思った。
「私、いなくなるんだから、離婚したほうがいいよ」と私は言った。「そうだね」とおかあさんはうなずいたけど、離婚する気力すら残っていないように見えた。
 私は自分のイエローのマグカップを手を伸ばし、サンデッキから庭に出ると、地面にマグカップをたたきつけた。芝生だから派手に粉々には砕けなかったけど、一応割れた。追いかけてきたおかあさんも、サンデッキからそれを見つめる。
「私はこの家には帰ってこない」
「………、」
「……あいつが最後までこの家に残るんだろうけど、最初にこの家を壊したのはあいつだ」
 まだまだ肌寒い、二十歳の初春に家を出た。おとうさんには連絡先さえ教えていなかったので、スマホにも何も来ない。
 おかあさんからも来なかった。私からも連絡しなかった。だいぶ他人との関わりをしてこなかったせいか、接客業である本屋の仕事がうまくいかなくて、まもなくクビになったけどそれでも助けは求めなかった。
 コンビニの店員すら受からなかったけど、なぜか小さな雑貨屋に採用されて、接客が苦手ならとご主人はラッピングをよく任せてくれた。私のラッピングを喜んでくれたお客さんを見送って、「うちのお客さんいい人ばかりだし、慣れていかないとね」と奥さんに言われて、うなずくこともできた。
 二十五歳になった晩秋、すっかりその雑貨屋の看板娘にもなって、数年ぶりにおかあさんから連絡が来た。『自由になりました。』という短いメールに添えられていた画像は、おかあさんの割れたピンクのマグカップだった。
 本屋の仕事をなくして、しばらく無職で家賃もろもろを貯金で切り崩していたとき、生きるってこんなにお金がいるんだなと思った。それは確かに、お金を持ち帰ってくるおとうさんに依存するしか、おかあさんには私を育てる手立てがなかったのかもしれない。
 そんなんだったら、最初から私のこと作らなきゃよかったじゃんとも思うけど、私の知らない、憶えていない頃には、まだおそろいのマグカップを買うような家族だったのだ。
 私たちはもう、ばらばらで。きっと集まることも、家族としてかたちを成すこともない。それを哀しいとも何とも思わない。おとうさんの顔は見たくない。おかあさんの近況も知らなくていい。このまま遠ざかっていけたらいい。
 今日は寒いなあと思っていたら、外では粉雪がちらつきはじめたようだ。店内にはポインセチアが飾られて、クリスマスプレゼントを買いにくるお客さんも多い。
 たぶん、今年もお店のご夫婦が私をクリスマスの夕食に招いてくれる。小学生の娘さんへのプレゼントも考えないと。私に家族はいない。けれど、そんなふうにその温もりはここで感じさせてもらっている。
 クリスマスプレゼントに、マグカップを買っていくお客さんもいる。中にはペアのマグカップを買っていく人も。私はそれを割れないようにしっかり梱包しながら、このマグカップは幸せでありますようにと思う。
 大切に、手の中で、持ち主の軆を温め、心をなごませる。そう、ちょうどこんな寒い日に。そそいでくれた人の愛を伝えて、受け取った人を笑顔にするものになりますように──。

 FIN

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