あの日、好きですって伝えられなかった。伝えたってどうしようもないと思った。でも、振られておいたほうが、そのあとずっと楽だったのかもしれない。
大学生二年生の夏休み、少しは社会経験をしておこうとバイトをすることにした。うまく採用をもらえない中で、やっと受かったのがファミレスのホールだった。
初めは大変だった。笑顔や通る声を出すのが、どうにもうまくいかない。そんな私を「落ち込むヒマあったら、せめて動いてくれるかな」と急かす先輩もいた。
「ありがとう。おいしかったです」
ファミレスの会計時なんて淡白なお客様が多い。でも、ときどきそう言い残してくれるお客様もいた。それが嬉しくて、「ありがとうございますっ」とやっと声が出せるようになってきた。
ちゃんとお席にご案内したり、料理の説明がつっかえずに出てくるようになると、不思議とお客様の態度も穏やかになった。料理を運ぶと、嬉しそうに咲って「おいしそう!」とわくわくした表情になってくれる。それに自然と笑顔になって、「ごゆっくりどうぞ」とお辞儀までできるようになった。
「菊森さん、最近調子いいね」
入ったばかりの頃に「せめて動いて」と言われて苦手だった先輩が、ある日、休憩を代わるときにそう声をかけてきた。私はちょっと面食らったのち、正直に「お客様のおかげです」と言った。先輩はびっくりしたように目を丸くしたけど、すぐにっこりして「接客が向いてるんだね」と返してくれた。
「そ、そう……ですか?」
「成長できたことを客のおかげって言えるのはすごいよ」
そうなのかなあ、と首をかしげていると、先輩は私の肩をぽんとして「前、きついこと言ってごめん」と私の目を見た。
「俺のあんな言葉で、君が辞めなくてよかった」
やや気恥ずかしそうにしたあと、先輩はホールに出ていった。私はそれを見送り、喉に引っかかっていた小さなわだかまりも、ようやくほどけていくように感じた。
以来、先輩は私を気にかけて、仕事を任せたり、逆に引き受けたり、連携を取ってくれるようになった。バイトがいっそう楽しくなった。そんな頃、先輩が就職するためにファミレスを辞めることになった。
先輩、いなくなっちゃうのか。それに一抹の寂しさを覚え、その一抹がまた喉に引っかかった。その小さなトゲに胸がしくっと痛み、もしかして恋だろうかと気づいた。
先輩はもうバイトリーダーになっていたから、みんなに惜しまれて、送別会まで開かれることになった。私も参加した。少しでも、先輩とふたりで話せたら。そう思ったけど、やっぱり先輩は今日の主役だからなかなか切っかけがない。
「あ、ごめん。何か電話来てた。ちょっと折り返してくる」
ふとスマホを見た先輩が、そう言って席を離れた。でも、すぐに追いかけたら露骨かなと逡巡する。そのとき、「ちょっとあたし、お手洗い」と立ち上がった子がいて、そうか、と私は同じ言い訳で席を立った。
テーブルを個室風にするパーテーションが入り組む店内で、先輩どこだろう、と少し迷っていると、「ごめんね」とざわめきの中に先輩の声がした。
「俺、彼女もいるからさ」
はっと目を開いた。顔を上げると、お手洗いと言って立ち上がった子の背中が見えた。先輩はその奥にいるのか、すがたは見えないけど──
彼女……。
……そっか。そうだよね。
いるよね、普通。
私はふらっとその場を離れ、お手洗いの手前で立ち止まって壁にもたれた。お酒は飲んでいないのに、目の前がくらくらした。ああ、私、けっこうショックを受けている。
しばらく動けなかったけど、あんまり遅いのも変に思われるから席に戻った。すると、ちょうど先輩も戻ってきた様子でそこにいて、「どうしたの?」と声をかけてくれた。
先輩の笑顔を見た。ダメ。言っちゃダメ。私の気持ちなんて、迷惑に思われるだけなんだから。最後の最後で、先輩の笑顔を困らせたくない。
私は曖昧に咲った。「大丈夫です」と言うと、顔を伏せて自分の席に腰をおろした。さっき振られたはずの女の子は、笑顔でもう雑談に混ざっていて、すごいな、と思った。
そして先輩が辞めていって、ぼんやりと日々を過ごした。大学のほうで、ときどき私に話しかけてきていた男の子に告白されて、何となくつきあった。でも、いつもどこか上の空の私に、「やっぱきついなあ」と哀しそうに咲って、彼は私を離れていった。
先輩は元職場に遊びに来るなんてこともなかった。
ずいぶん声を聞いていない。顔さえも見ていない。
けれど、忘れるにはたくさん先輩の夢を見て、何度だって思い出してしまう。想いも同時によみがえって、いつまでも消えることがない。
ああ、あの日、やっぱり好きですって言えばよかったな。そして振られておけば、こんなに引きずることもなかったかな。一瞬できた彼氏にも、あんな顔させずに仲良くなれてたかも。
大学四年生になって、私も就職を考えないといけなくなってきた。説明会などに出かけながら、正直、今のバイトを続けていたいなあと思った。しばらくなら実家からバイト生活をしても、おとうさんもおかあさんも、家を出ていくより歓迎するかもしれないけど。
初夏と言うには日射しの強い日曜日、その日も行き慣れない街に出て、就職に関するセミナーを受けてきた。疲れた、と息をつきながら駅前まで戻ってきたとき、ふと聞き憶えのある声が耳に入ってきた。
「そんなに食って大丈夫かー?」
「いいじゃない、おいしいもの食べると元気になるんだから」
私はそちらを振り返り、はっとまばたきをした。髪の長い、大人っぽい女の人が視界に入った。そして、その隣にいる人が、あの頃より少し髪色が明るくなっているけれど──
「……あれ、菊森さん?」
茫然と突っ立って見つめていたものだから、すぐにその人は私に気づいた。私の名前を知っているということは、やはり先輩だ。
後退ろうとした。でも、見つめていたと気づかれているのに、逃げるのもおかしいかもしれない。
「ああ、やっぱり菊森さんだ。久しぶり」
「……はい。お久しぶりです、先輩」
「もう先輩じゃなくて、下っ端のリーマンだよ」
先輩は微笑ましそうに私を見て、「変わらないなあ」とつぶやいた。私はおそるおそる、先輩の隣にいた女の人のほうを見た。腕を組んで、こちらをぶしつけに眺めている。
……例の彼女さんか。
「あ、あの」
「うん」
「彼女さん……待ってるみたいなので」
「えっ? ああ、あれは姉貴だよ」
私は先輩を見上げた。
「彼氏に振られたんだってさ。されで、やけ食いの食べ歩きにつきあわされてる」
「そう……なんですか」
先輩も私を見つめ、小さく笑みを浮かべた。
「菊森さんも彼氏ができたって」
「へっ?」
「男と歩いてるの見かけたって、まだ連絡取ってる奴に聞いたから」
「あ、えと……もう別れましたけど」
「そうなんだ? ごめん、良くない話だったかな」
私は首を横に振った。
変わらない。声も。笑顔も。どきどきする。
でも、もう遅い。それぞれの生活もあって、すべてがいまさらだ。
平静を装って、感情が混ざらないように笑顔をかたちづくっていた。そんな私に、先輩はふと苦笑を混ぜた。
「菊森さん、あの日──」
私は先輩に視線を向け直す。
「送別会の日だけど、俺が富原さんを『彼女いるから』って振ってたの、聞いたでしょ」
どきっとして肩が揺れてしまう。
「あのときはほんとに彼女がいた。でも、別れちゃったんだ。振られちゃってさ」
先輩は情けなさそうに咲う。
「あのとき、『大丈夫です』って言ったよね」
「え……」
「あのとき、『どうしたの?』って訊いた俺に、菊森さんは『大丈夫です』って言った。大丈夫じゃないんだろうなって、ずっと思ってた」
何だか、どぎまぎと視線が狼狽えてしまう。そんな私に先輩は微笑むと、「言わなくても分かってるよ」と優しく言った。とまどった私に、先輩が続けて何か言いかけたときだ。
おねえさんが先輩のことを呼んだ。「あー、はいはい」と先輩はため息をつきながらそれに答えたものの、スマホを取り出して素早くQRコードを表示させる。
「読み取って」
ぽかんとしそうになったけど、慌ててスマホを取り出してそのQRコードを読み取る。
「ありがとうね、俺を憶えていてくれて」
先輩はそう言うと、おねえさんのほうに走っていった。おねえさんは先輩の頭を小突き、私のほうを見てからにこっとしてくれた。そしてふたりは人混みに紛れこんでいった。
私はスマホを胸の前でぎゅっと握りしめる。
『今度は、菊森さんとおいしいもの食べにいきたい』
帰りの電車の中で、先輩のそんなメッセが届いた。私は心が温まって微笑んでしまう。
ああ、私は先輩と始まっていけるのかな。
そう思うと、長いこと蕾のまま黙りこんでいた恋がほころぶような、そんな光を感じた。
FIN