romancier obscur

Koromo Tsukinoha Novels

焼かれた瞳

 瞳を焼かれる。何度も何度も焼き増しされる。
 思い出したくないのに、警察が、世間が、学校が、僕から記憶を掘り起こす。もう見たくない。あんな光景、二度と視界に映したくないのに。
 おかあさんの悲鳴で目が覚めた。真っ暗だった。何時なのかは分からなかったけど、真夏の深夜だった。
 何だろう、と目をこすった僕は毛布をのけ、ふとんに手をついて起き上がった。どんどんといくつかの乱暴な足音が、おとうさんとおかあさんが眠る隣の部屋から聞こえてくる。
 おかあさんの声に重ねて、おとうさんの声もした。僕は立ち上がり、広くない子供部屋のドアを開けて、廊下に踏み出した。
「あ? 何だ?」
 知らない声が降ってきて、びくんと顔を上げる。けれど、廊下も暗くて相手の顔までは分からなかった。
「うわ、ガキいたのかよ」
「は? マジ?」
 何? 誰?
 おとうさんとおかあさんは──
「自分から出てきてるし。バカじゃん」
「殺せばいいんじゃね。親殺すし」
 わけが分からなくて怖くて声が出ない。後退ろうとした。しかし、がしっと腕をつかまれ、投げつけるように壁にたたきつけられる。
 なおもおとうさんとおかあさんの声がした。でも、どんな声だったか聞く前に、お腹にこぶしを打たれて激しく咳きこんだ。
「はあい、いいこだから」
 顔面を鷲掴みにされ、今度は何度も壁で頭を殴りつけられる。暗い視界がひび割れていく。
「僕もおとうさんとおかあさんのところに行こうねー」
 その声は笑っているようにも聞こえた。僕はだらりと虚脱して、その場にくずおれる。
 いつのまにか、おとうさんの声もおかあさんの声もしなくなっている。
「じゃあさようならー」
 鈍い銀の光が空を切るように素早く迫った。とっさにもがいて、頭の位置がずれた。眼前に、何かの先端が映っ──
 自分の声帯を踏み躙ったような、すさまじい悲鳴で、世界まで終わったのではないかと思った。
「バカ、何やってんだよ」
「うえっ、すげえ血……」
「目? 目え刺した?」
「──おいっ、何だよ、今の声」
「あ、すみません。ガキがいたんで殺そうとしたんですけど」
「こいつ、目なんか刺したの」
「ちげえっ、ガキが暴れ──」
「どうでもいいっ、今の悲鳴で誰か来る。出るぞ」
「親は?」
「殺した。ちっ、ろくに漁れなかったじゃねえか」
 僕のことはぬいぐるみのように床に投げ、ばたばた、と土足の何人かの足音は去っていった。
 僕は両親の寝室へと這っていった。おとうさんを呼んだ。おかあさんを呼んだ。返事がないのに、不安な涙は右目からしか出ない。左目では、全神経に駆け巡る痛みがのたうっている。
 寝室のドアは開けっぱなしで、左目の激痛にうめきながらも、僕は右目を開いた。
 見なければよかった。
 掻っ切られた喉。内臓まで裂かれた腹。剥かれた白目。ぱっくり開いたままの口。血にしたたる血──
 ……見なければ、よかった。
 すぐサイレンが聞こえて、警察や救急車が駆けつけた。左目を抑えて息を切らしていた僕は、毛布をかけられ、誰かに抱き上げられた。救急車に運ばれたとき、僕を呼ぶ声がした。
ねい!」
 ……希、優……ちゃん?
「あいつは⁉ 寧は生きてんの⁉」
 希優きゆうちゃんだ。いつも面倒を見てくれる、年上の幼なじみの声だ。でも、僕は声が出なかった。左目が深く食いこんで、その激しい痛みに脳を逆撫でられ、気が狂いそうだった。毛布を剥ぎ取られて、ぱっと光が右目だけをつらぬいた。
 ──僕の左目は、くりぬかれたわけでなくつぶされただけで、いろんな神経が通ったままだった。だから義眼を入れることはなされなかった。でも視覚が戻る見込みもゼロで、固く糸で縫われることになった。視界は右目だけになった。左目の痛みを麻痺させる薬を、死ぬまで飲まなくてはならなかった。
「あの日、おうちに入ってきた人たちのこと、話せるかな……?」
 警察は、そんなことを何度も訊いてきた。僕はあのときから声が出せず、ただ首を横に振っていた。
 テレビの画面に、おとうさんとおかあさんの名前が非常警報のように繰り返し流れた。
 僕の名前は伏せられていても、僕のことをいろんな大人が話していた。レポーターもコメンテーターも。心理学者も大学教授も。幼稚園の先生も友達のおかあさんも。みんな、勝手に語っていた。
 希優ちゃんは、と思った。希優ちゃんに会いたい。希優ちゃんと話したい。それ以外の人は──
「あの子供からじゃ、証拠取れませんね」
 さっき僕の病室を出ていった警察がそう言っているのを、トイレに行こうとドアを開けた僕は聞いてしまった。
 そうだ。みんな、僕からあの怖い人たちを炙り出そうとしているだけだ。おとうさんとおかあさんのあの光景を、僕から焼き直そうとしているとしているだけなのだ。
 だったら、誰にも話さない。あんなの、誰にも話したくない。
 そう思うほど、右目からはぽろぽろと涙がこぼれた。左目はもう……何も感じたくなかった。麻痺したまま、思い出したくなかった。
 みんな、僕に焼きついたあの光景に忌ま忌ましい光を当てる。やがて、左目の薬の効いた無痛が感染ったように、右目も乾いていった。
 あの夜、六歳になったばかりだった僕は、小学校は施設から出ずに過ごしたけれど、中学からは施設のそばの中学校に通うことになった。
 学校は、想像以上に無神経な場所だった。何も知らない奴は、中二病のつもりかと眼帯を剥いでくる。何か嗅ぎつけた奴は、おぞましい記憶を日和見しようとする。
 何をされても、問われても、黙って顔を伏せていた。それでも、あの夜の奴らのような笑いの混ざった、同級生たちの野次は止まらなかった。
「眼帯とか、痛いの通り越してださいっつーの」
「ねえ、犯人ってどんなだった? やっぱ変態?」
「あははっ、何だよその目! ガキのぬいぐるみみてえ」
「ありえない事件だったよなー。犯人捕まってないし」
「それ、ファッションなの? 趣味悪いんだけど」
「あたしでよければ話聞くよ?」
「ヤク中のお薬の時間でーす」
「教えてよー。誰にも言わないから──ねっ」
 五月の連休明け、担任の先生に居残りを命じられた。女の先生だった。言われた言葉は、頭に雑巾の水を引っくり返すものだった。
「あなたのせいでクラスが落ち着かないわ。自分のことを説明できずに問題起こすくらいなら、私から病院に連絡するから。もう一度診てもらいなさい」
 みんな、「僕」の気持ちなんか考えない。「僕」なんか、みんなには重い。誰もが「僕の記憶」のことしか考えない。「僕の記憶」を説明できない「僕」の気持ちが、みんなはうざったいのだ。
 だったら、僕はみずから、おとうさんとおかあさんのところに行ったほうがいいのかもしれない。
「ねえ、君は知らないかなあ?」
 遅くなった帰り道を急いでいると、突然声がかかった。
「君が出てきた中学に、昔、隣町で起きた『夫婦惨殺強盗殺人事件』の生き残った子供が、今通ってるって──」
 ふわり、と風が赤い夕暮れの中を横切った。それに合わせて、僕の顔を覆いそうな前髪も揺れて眼帯が覗いた。
 丸い眼鏡をかけた、剽軽そうな男が見る見る目を開いた。
「えっ? え、ええっ、まさか、君、ビンゴ?」
 眉をゆがめて歩き出した。男はぶしつけに並行してくる。
「寧くんだよね? ネットで調べた名前だけど、合ってる? 俺、あの事件をずっとウォッチしてるライターなんだけどさ。うわっ、やべえ興奮する! ねえねえ、よかったら話さないかな? もちろんおごるからさ。警察にも何も話してないんでしょ? だよねえ、警察なんかいまだに犯人捕まえてないしね。よし、寧くん、俺に事件のこと話してよ。そしたら、寧くんの怨みを俺が文章にしてさ、売りこむから。絶対ベストセラーだよ! 情報で犯人も捕まるかな? ねえ、聞いてる? 俺と一緒に、おとうさんとおかあさんのことをみんなに知ってもらおうよ!」
 聞くに耐えなくて駆け出した。男は、走って逃げる中学生を追いかけたら、さすがに怪しいことは分かったみたいだった。ただ、わざとらしい大きな舌打ちが聞こえた。
 怖かった。施設に帰って、部屋に閉じこもってふとんにもぐりこんだ。
 もう見たくない、あんな光景。なのに何でみんな思い出させて、話させようとするのだろう。警察も。学校も。ああいう人も。
 カーテンが開けっぱなしの部屋が、次第に暗くなっていく。ノックが聞こえても黙っていたら、左目が疼きはじめた。
 薬の時間だ。分かっていても動けない。暗闇が僕を蝕んでいく。
 夜は怖い。あの傷をどんな光より剥き出しに脳裏に映す。
 夜は怖くない。薬を飲んで右目さえ見開いていれば、どんな闇より視界が麻痺して何も見えない。
 焼くような無数の光は、僕を追いまわした。僕の視界を焼いて、映して、探ろうとする。
 僕の右目に、誰ひとり気づかない。左目にばかり火を灯す。僕は右目で、その涎を垂らす卑しい好奇心に、虫酸を走らせているのに。
 また夏が巡ってきた。あれから、七回目の夏だった。僕は電車に乗って、あの事件の町におもむく。花を買って、おとうさんとおかあさんに会いにいく。
 僕たち家族が澄んでいたマンションもそう遠くない、車道沿いの落ち着かない霊園に踏みこんだ。
 晴れてよかった。そう思いながら花を抱きしめ、誰もいないかを確認して──はっと立ち止まった。
 誰か、いる。それも、おとうさんとおかあさんの前にいる。
 何? また変な記者?
 母方の祖父母はあの事件以前に亡くなっている。父方の祖母は事件のショックで寝たきりになり、それを看取って祖父も亡くなった。親戚は来るわけがない。事件を思い出したくないのと、僕を引き取らなかった負い目で、毎年誰も来ない。
 僕が後退りかけたとき、その人はおとうさんとおかあさんに頭を下げた。そして、足元にあったバケツを手に取ろうとして、不意にこちらを見た。
 僕はびくっと立ちすくんだ。そんな僕に、その人は大きく目を開いた。スーツの男の人だった。凛とした眉や怜悧な黒目、すらりとした長身──あれ、となぜか懐かしいような憶えがあるような気持ちがこみあげたとき、その人はバケツなんか蹴ってしまって駆け寄ってきた。
「寧!」
 泣きそうなほど痛々しく名前を呼ばれたときには、僕はその人に抱きしめられていた。ワイシャツ越しに、確かに嗅いだことのある匂いがした。
 そうだ。誰かに揶揄われると、僕はいつもこの匂いと温もりにしがみついていた。幼い頃。とても幼い頃。
 おとうさんもおかあさんも、当たり前に咲っていた頃──
 声はやっぱり出なかった。でも、僕はこの人が誰なのか分かった。施設の人がこっそり教えてくれた。
『あの夜ね、寧ちゃんの悲鳴で通報してくれた人はね、
 希優ちゃん──
「ごめん」
 僕はとまどって、身動きした。「ごめんな」と希優ちゃんは繰り返した。誰も僕に謝ったりしなかったのに、なぜよりによって希優ちゃんが謝るのか分からなかった。
「ほんとにごめん。寧を守ってやれなかった。一番大事なときに、何もできなかった」
 縫われた左目さえ、あの感覚で絞られた気がした。右目は滲み、視界が揺らめいた。
「寧が苦しいとき、泣きたいとき、哀しいとき、傷ついたとき……全部、そばにもいていれなかった。本当に、ごめんっ──」
 何も言えない僕は、ただ希優ちゃんの温かい軆にぎゅっとしがみついた。あの頃のまま。つらかったときはそうしていたように。
 すると、乾いていたはずの右目はぐらぐら揺れて、ぽろぽろこぼれて、頬を幾筋も伝っていった。希優ちゃんは、手のひらでおおうように僕の頭を撫でてくれた。
 僕は頭をもたげ、何か言おうとした。せめて、希優ちゃんの名前を呼びたかった。でも、もう何年も声を出していなくて、発音がよく分からない。そんな僕に、希優ちゃんはちょっと冷たい印象もある顔を精一杯優しくして、「無理すんな」と微笑んだ。
「これからは、いつでもそばにいられるから」
 思いがけない言葉と共に、希優ちゃんの指は僕の涙をはらい、視界を鮮明にしてくれる。
「俺、こないだ高校卒業して、就職もできたんだ。つっても、工場の営業だけどな。ひたすら頭下げて、うちが作ったもんを取りあつかってくださいって。それでも、就活で営業を第一志望にしたのは、寧のためだ」
 希優ちゃんは僕の頭をぽんぽんとして、僕の目を覗きこんだ。眼帯の左目でなく、まだ濡れている右目を。
「就職して、家も出て、ある程度の資金が溜まったら、寧と暮らせるために何でもしようって。何か、法律とか戸籍とかぜんぜん分かんねえし、可能かなんて知らないけど。寧が望んでくれるなら」
 希優ちゃんの目は、とても澄んだ、温かい目だった。僕はこくこくとうなずきながら、また泣き出してしまった。
「じゃあ」と希優ちゃんは僕の肩を軽く押した。
「掃除しちまったけど、もう一度、おじさんとおばさんに約束させてくれ」
 僕はうなずき、涙を流す目を抑えながら、希優ちゃんと共におとうさんとおかあさんの前に向かった。転がったバケツから、墓石の掃除用具が散らかっていた。ふたりの前にたどりつくと、ピンクと水色の花束と、立ちのぼるお線香が供えてあった。
 僕と希優ちゃんは、並んで墓石に刻まれた名前を見つめた。ここに来ると、どうしても、まとわりつくように思い出していた悪夢が、なぜか今日は生まれない。
 隣に希優ちゃんがいる。その気配が僕を包みこんでいる。
 希優ちゃんは、おとうさんとおかあさんに手を合わせた。
 僕は目を閉じて、おとうさんとおかあさんに話しかけた。
「おじさん」
 おとうさん。
「おばさん」
 おかあさん。
「寧は俺が守ります」
 僕には希優ちゃんがいます。
「もう寧をひとりで泣かせません」
 もう僕は泣くことができます。
「どうか、安らかに眠ってください」
 その前に、ひとつだけ許してください──
 希優ちゃんには、おとうさんとおかあさんのことを話していいですか?
 おとうさんの逞しい笑顔と、おかあさんの優しい笑顔について、話してもいいですか?
 ──なぜだろう。掃除用具を拾ってバケツに集めた希優ちゃんと、ゆっくり並んで歩き出しながら、思い出すおとうさんとおかあさんは、あのむごい光景のふたりではない。
 あの光景の数時間前、眠たいと言った僕に、おやすみと言ってくれた温かい笑顔のふたりだ。僕すら忘れてしまっていた、僕すら葬ってしまっていた、生きている、咲っている、おとうさんとおかあさんのすがただ。
 それは、安らかで、幸せ、柔らかで……愛情に満ちた光景だった。
 僕は、希優ちゃんを見上げた。希優ちゃんも僕を見る。
 希優ちゃんに、話をしよう。希優ちゃんには、閉ざした心も瞳も、開いてみよう。
 話したい。僕を愛してくれたおとうさんとおかあさんのこと。僕が愛するおとうさんとおかあさんのこと。
 微笑んでくれる希優ちゃんが、その話をさらした僕に当てる光は、きっとほかの誰とも違う、温かなものだと思うから。

FIN

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