里中さんと同伴するときは、いつもまず、店の最寄り駅の北口で待ち合わせる。
あたしは白のスーツを着て、ブルー系の化粧をして、柱にもたれてスマホをチェックしている。
世間は夏休みに入った七月下旬、空が薄暗くなってきてもあたりは熱気が残っていて暑い。
歓楽街に出るサラリーマンや同業者のけばい女でごった返して、その中から里中さんが現れないかにも気を配る。
『着きましたよ。』というメッセに既読はついたけど、返信は来ていなかった。二十時半には店に着いていなくてはならないから、遅刻は困るんだけどなあ、と思っていると、「果子ちゃん」と名前を呼ばれてあたしは振り返った。
するとそこでは、スーツすがたの里中さんが、スーツケースを引きながらこちらに歩み寄ってきていた。
「出張だったんですか?」
スマホをバッグにしまいながらあたしがまばたきをすると、「うん」と里中さんは参ったように微笑む。
「急にね。日帰りで行ってきた」
「え、じゃあ今日の約束、無理させちゃいました?」
「そんなことないよ。楽しみにしてたから」
里中さんはあたしの正面で立ち止まると、三十代なかばにしてはさわやかな印象の笑顔を見せる。
「今日は、何か食べたいものある?」
「じゃあ、里中さんの元気が出るようにお肉」
「はは、そうだね。焼き肉でも食べようか」
「はい。どこのお店行きます?」
「ちょっと電車乗ろう。いいお店知ってるから」
そう言った里中さんと自然と腕を組んで、ヒールを響かせて歩き出す。薄いワイシャツから里中さんの筋肉と体温が伝わってきて、この人にこうしてくっつけるのも仕事だからなんだよなあなんて思う。
里中さんは、今のあたしの一番の太客だ。週に一度は同伴してくれるし、お店に来たら指名してプレゼントやチップをくれる。そして、もちろん口説かれるけど、それも冗談の戯れだと思う。
正直、里中さんはかっこいいし、二十歳のあたしには大人の色気も感じさせるけども、やはり客なわけだし。何より、奥さんがいる。
髪を撫でられて「果子ちゃんのこと、もっと知りたいな」とささやかれても、「夜の女は謎めいておかないと」とあたしはにっこりかわして、そうしたら里中さんはしつこく食い下がってくることはない。そういう距離感を分かっているから、ほかの店でも別の女の子とそうやって遊んでいるんだろうなと、流されそうになったら感情をセーブする。
たとえうまく落としたいだけだとしても、彼氏の竜也よりは、はるかに客のほうがあたしを大切にしてくれる気はする。
竜也は浮気ばっかりだし、彼の友達は、また竜也が果代子ちゃんを悪く言ってたよと報告してくる。それなら別れようかという話は何回も持ちかけたけども、竜也はそれにはうなずかない。
竜也が何を考えているのか、ぜんぜん分からない。ナンパされて、カラオケに行って、その場で致したからといって、何であんなのとつきあいはじめちゃったかなあと今や後悔だらけだ。
里中さんと焼き肉を食べて、二十時過ぎ、照明は落ちてもまだカラオケが始まらずにジャズが流れるお店に到着する。本来は二十時までにタイムカードを切っておかなくては遅刻だけれど、同伴のときは二十時半まで猶予が与えられる。
同伴してくれた客の席には、最後までつくのがしきたりだ。強いクーラーで軆を癒やしながら、あたしがキープボトルから水割りを作っていると、里中さんが「果子ちゃん、これおみやげ」と入口に置いたスーツケースから持ってきた黒い箱をさしだした。
紫のリボンがかかっていて、「何だろ」とあたしは受け取る。
「開けていいですか」
「もちろん」
里中さんはあたしの手元を覗きこみ、あたしはリボンをほどいて箱を開ける。すると、小さな青い宝石があしらわれたシルバーのピアスが並んでいた。「サファイア?」と訊いてみると、「うん、そう」と里中さんはにこにことうなずく。
「もう、またこんないいものを」
「果子ちゃんは青が似合うから。今日の化粧によく合うよ」
「つけてみます?」
「うん。あ、待って。一応消毒しとこう」
里中さんはビジネスバッグから除菌のウエットティッシュを取り出し、つまんだピアスをぬぐってからあたしに渡す。
あたしは今つけているピアスをはずして、たぶんスワロフスキーじゃなくて本物のサファイアのピアスを耳たぶにつける。「似合います?」と里中さんに笑顔を向けると、「綺麗だよ」と里中さんはあたしの髪に指を通した。
「お持ち帰りしたくなる」
「あはは。そう言って、奥さんにはもっといいおみやげがあるんでしょう」
「どうかなー。果子ちゃんのこのおみやげを選んでるときのほうが楽しかったよ」
「楽しかった気持ちをいただいておきます」
里中さんは含み咲いながら水割りのグラスを手にして、「乾杯」と言った。あたしは烏龍茶でかつんと応えたあと、「水割りいただいてよろしいですか?」と断って自分のお酒を作る。
里中さんはその夜、普段より遅くまで店にいて、少し酔ってきたあたしの肩を抱いて、耳元で甘い言葉をささやいていた。ほろ酔いで思考回路が落ちていたから、何だか本気になりそうになってしまう。「今夜、妻には出張は一泊って言ってあるんだ」と言われたときには、どきんと反応してしまった。
ああ、もう。そんな台詞を言っておいて、甘えるような瞳をして、ずるい。
里中さんは、あたしのスーツのポケットに素早くカードを忍ばせて、「じゃあ帰りますか」と三杯目の水割りを飲み干してママのすがたを探した。
お勘定は必ずママが担当する。あたしはチーフにママを呼んでもらって、着物のママは「いつも果子をかわいがってもらっちゃって」なんて言いながらしばし里中さんと談笑する。「また来ますね」と立ち上がった里中さんに、あたしも席を立って、ほかの客のかばんに埋もれそうになっていたスーツケースを引っ張り出す。「ありがとう」とスーツケースを受け取った里中さんとふたりで、あたしはエレベーターで地上に降りた。
スーツのポケットのカードに、何が書かれているのか気になる。「またね」と里中さんは相変わらずさわやかな笑顔で、華やかなネオン街の雑踏に紛れこんで、あたしはそれを手を振って見送った。里中さんが見えなくなってから、ビルのエレベーターホールに引き返してカードを取り出す。
有名なロイヤルホテルの名前と、部屋番号だった。心臓がざわめいてくる。
もちろん、行ってはいけない。分かっている。それで今後気まずくなったとしても、一線は一線だ。けれど、行きたくないかどうかを自問すると、里中さんの腕は優しいだろうななんて夢見てしまう。
その日は、午前二時のラストまで働いた。まだ残っているお客さんがママたちをアフターに連れていくと言ったけれど、さいわいあたしはその席に着いていなかったので、うまく閉店後の輪も抜け出すことができた。
心臓はやっぱりどきどきしていて、このまま無視して、里中さんとの関係が崩れてくるのも嫌だなとか考えてしまう。あたしが里中さんを魅力的に感じていなかったら、当然スルーして、次会ったときにも「ダメに決まってるじゃないですか」とかあっけらかんと笑えるのに。軆の芯がじわりと疼いて、里中さんとの情事に心惹かれる。
指定されたロイヤルホテルは歓楽街からそんなに離れていなくて、結局タクシーも拾わず、前まで来てしまった。あとでママにチクられたら。お姐さんに感づかれたら。いろいろ考えて、踏み出す足を牽制しようとするけども、ひと息つくと、あたしはエントランスを抜けていた。時間帯のせいか、人気のないフロントを抜けて、エレベーターに乗る。
部屋は最上階だ。スイートルームだろう。そんな部屋でひとり過ごさせるのも、悪いかもしれない。あとからあとから言い訳を継ぎ足して、あたしは指定された番号の部屋の前に立った。
深呼吸して、起きてるかな、とちらりと考えつつもノックしてみる。すると、ドアはすぐに開いて、「来てくれた」と里中さんが嬉しそうににっこりした。あたしは自分が浅ましく感じられて、二の足を踏んだけど、里中さんは構わずあたしを引っ張って腕の中に閉じこめてしまう。
いつものスーツの匂いがする。その匂いが喉から肺を蕩かして、何かもういいや、とあたしは里中さんの背中に腕をまわした。
里中さんはオートロックのドアを閉めて、あたしを奥の部屋のベッドに導いた。けっこう汗ばんでいたから、「シャワー浴びないと」とふかふかのシーツに押し倒されながらあたしが言うと、「いいよ、気にしない」と里中さんはあたしの首筋に甘く咬みついて、すうっと舌でうなじから鎖骨をたどった。
そうしながら、乳房をほぐすように揉まれて、アルコールでほてっていた軆は、敏感にわなないて声がもれる。「もっと声出して」と言われながら、サファイアのピアスをつけたままの耳を舌でなぞられて、上擦った声がしたたる。あたしの軆を服の上からまさぐりながら、里中さんの脚のあいだが硬く張りつめてくるのが内腿に触れた。それがすごく愛おしくて、歯止めがきかなくなる。
「キスしていい?」
そう言われてこくんとすると、あたしたちは貪欲に舌を絡めあうキスを交わした。詰まる胸に甘い痺れが広がって、それは関節をじわりと伝って指先や爪先まで届く。
あたしは里中さんのワイシャツのボタンをはずして、引き締まった上体をあらわにした。肩や胸の筋肉を咬んで、口づけていると、里中さんもあたしの服を脱がせてしまう。
熱くて柔らかい舌が乳首をすくいとって、鋭く駆けた電流に喘ぎがこぼれる。
里中さんはあたしの乳房を責めながら、スカートもストッキングもおろしてしまい、下着の上から、実りはじめた核と湿った入口をゆっくりこすった。その指先はとても敏感で、すぐにあたしの角度も強さも覚えてしまい、与えられる刺激に快感が押し寄せる。
この人にどれだけ気持ちよくされてしまうのか分からなくて、怖いぐらいだけど、かといってもう押し退けるなんてできずにただ溺れていく。
下着を少しずらして、あたしの中を里中さんの指がねっとりかきまぜる。あたしのこらえきれない愛液で水音が響く。次第に指の本数が増えて、そうされながら核を舌ですすられて、あたしは身をよじって喘いでしまう。
入口がとろとろになって、求めてひくつくくらいになると、ようやく里中さんはスラックスもボクサーも脱ぎ捨ててあたしにあてがった。入口に口づけた硬い温もりだけで、もどかしくなって下肢が疼く。
里中さんはあたしにおおいかぶさって、同時に確かめるようにあたしに分け入った。空いていた穴が満たされるような感覚に、切ない声を出してしまう。離さないように里中さんを締めつけて、そのかたちや太さに頭がくらくらする。
里中さんはあたしの乱れた髪を梳いて、また唇を奪いながら動きはじめた。浅く探られて、深く突かれて、やがてどんどん奥までつらぬかれて、あたしと里中さんは激しく舌を揉み合わせる。あたしは里中さんの首に腕をまわして密着し、里中さんもあたしを抱きしめて激しく突き上げた。ただ気持ちよく動くだけの腰でなく、あたしの核にその振動が響く。
自分ではコントロールできない快楽の波に、意識が朦朧としてきて、めちゃくちゃに乱れた。ちらちらと絶頂の糸が見えてきて、どんどんその糸が快感に染まっていく。核が充血していく。そして、それがまるで熟しきって果蜜が溢れたような絶頂が訪れて、あたしはびくんと大きく軆を跳ねさせて達してしまった。
あたしのその反応で、里中さんも自身を引き抜き、すぐにあたしのお腹に射精した。それから、どさりと隣に横たわって、息を切らすあたしの髪を撫でる。
「気持ちよかったね」と言われて、うなずくと、里中さんはあたしの額にそっとキスをする。
しばらく虚脱したまま動けなかったけども、何とか起き上がるとお腹の精液を指ですくった。ゴムつけなかった、とぼんやり思ったけれど、もうどうでもいいことの気がした。あたしは柔らかなティッシュで白濁をぬぐうと、そのまま何も身につけずに夜景を見下ろせる窓辺に立って、ガラスに映った青く光るピアスをつけた自分を見つめた。
ああ、やばいなあ。始まっちゃうなあ。客に対して、そんなの報われないのに。
むしろ、これであたしを手に入れたのだから、里中さんの中ではあたしは終わってしまったはずだ。攻略完了。男は寝たら終わりだけど、女は寝てから始まってしまうのに。
思わずため息なんかついていると、ふと肩と背中を体温に包まれる。里中さんがあたしを後ろから抱きしめていた。「何でため息?」と訊かれてあやふやに咲うと、「後悔した?」と里中さんの腕に力がこもる。
「おしまいかと思って」
「え」
「だって、あたしのこと落としちゃったから、里中さんにとってあたしはおしまいですよね」
里中さんは首をかたむけてあたしを覗きこむと、そっとあたしの唇に触れて優しくなぞった。
「いまさら、これで最後にできるわけないだろ?」
あたしは里中さんの瞳を見つめた。唇が重なる。里中さんの舌があたしの口の中をたどって、舌を愛撫する。
店の客。
奥さんがいる。
あたしにも彼氏が──
冷静になれるように考えても、あっさり泡みたいに消えてどうでもよくなる。あたしは睫毛を伏せて、切なく情熱的なキスに応える。
ああもう、ダメだ。本気になっちゃう。
蜘蛛の巣にかかった蝶が、もがくのをあきらめるように認めてしまう。あたし、もうこの人のものだ。もうどんなふうに食べられてしまってもいい。
夜明け前。夜の灯りが一番少なくなって、窓の向こうは闇に包まれる。腕を引かれて、またベッドがふたりぶんにきしむ。彼の手が部屋の照明も落とした。
秘めやかな暗闇、蜘蛛に優しく食まれて、蝶はもう夜を羽ばたけなくなる。
FIN