春の海から潮風が吹き、その匂いに砂浜を見やると、波打ち際に人影があるのに気づいた。
私と同い年ぐらいの男の子と女の子。よく見ると、女の子は同級生である風見さんだった。男の子に見憶えはない。
風見さんは男の子の手を取り、波音が潤う渚を歩いていく。男の子は風見さんを見、何か言った。風見さんは男の子を振り返り、言葉を返して微笑む。男の子は咲わずに視線を下げる。風見さんの黒髪が、艶々と風になびいている。
あの男の子、誰だろう。
そう思ったけど、私は風見さんと特に親しいわけではないし、何となく、その浜辺にも割りこめなかった。まあいいか、と前方に向き直ると、朝、おかあさんに頼まれて買ってきた食材が入ったふくろを持ち直す。
いつも通り、海沿いを進んでアパートに帰る。満開の桜が、いろんなところでほろほろとこぼれていた。
海辺しかないこの田舎町で育ち、じき中学三年生になる。小学校と中学校は同じ校舎で、各学年一クラスしかない。来年は高校に進学しているつもりだけど、そうなったら、朝六時の電車に乗って通わなくてはならない。
「起きられるのかよ」と朝練で早起きには慣れている幼なじみの龍斗に言われる。私はふてくされても、今のところ、反論できる自信は持ててない。
アパートの二階である部屋に到着し、買ってきた食料を冷蔵庫にしまうと、好きな小説を読む。そうしていると、暗くなるまで校庭でサッカーをしていた龍斗が我が家にやってくる。龍斗の両親は共働きで帰りも遅いから、夕食はいつもここで一緒に取っている。
やがて私のおかあさんも仕事から帰ってきて、三人ぶんの夕食を作りはじめる。物心ついたとき、すでにこの部屋におとうさんはいなかった。だから、私は龍斗以外の男の子がちょっと苦手だ。
ごはんが炊ける匂いと、魚が焼ける匂いが香ばしくただよってくる。夜はまだ冷える四月上旬、夜桜が映る窓にもたれて、「そういえば」と私は畳に脚を伸ばしながら龍斗を見た。
「今日、風見さんが男の子といるの見た」
「え、風見って、風見菜穂子?」
「そう」
「男は誰だよ」
「知らない。見たことなかった」
「学年違うのかな」
「同い年くらいではあったけど」
「あ、今、春休みじゃん。親戚来てんじゃないか」
「なるほど。でも、手とかつないでたよ」
「マジか」と龍斗は私の隣で窓に背中を預ける。私は後れ毛で揃わない髪を指に絡め、「風見さんとはあんまり話したことないなー」と台所のおかあさんの背中を見やる。
「仲悪いの?」
「そういうわけじゃないけど。席が近くなったら、班行動のとき話すくらい」
「ふうん。男か。彼氏かな」
「やっぱそうかな」
「風見が彼女なのかあ……」
「あ、龍斗は風見さんには相手にされないから大丈夫だよ」
「うるせえな」と龍斗は私を小突き、私は咲って小突き返す。「そろそろごはんできるからテーブル出しておいて」とおかあさんの声がかかって、「はあい」と私と龍斗は立ち上がる。
たたんで壁に立てかけてあるテーブルを起こし、部屋の中央に置く。そしてそこに並んだほくほくのごはんや鰆の塩焼きを三人で食べて、しばらくテレビを見ながら雑談すると、二十一時頃、「じゃあまたな」と龍斗は同じアパートの一階にある自宅に帰っていく。
おかあさんは食器を片づけ、私はテーブルを部屋の隅に戻し、今度は畳にはふとんを敷く。私が先にシャワーを浴びて、裏起毛のワンピースに着替えて、ふとんに仰向けになる。テレビは消した。隣の部屋の物音が小さく障っている。
春の寂れた砂浜を歩く、風見さんとあの男の子を想った。綺麗だった。つないだ手。なびく黒髪。頼りない視線。
風見さんは優等生で、男の子に騒ぐタイプではない。でも、あの雰囲気なら風見さんらしかった。
ただ、あの男の子が誰なのか分からない。違う学年だとしても、私たちの学校は分校みたいなものだ、歳があまり変わらないなら、見憶えくらいありそうだけど。やっぱここの人じゃないのかな、とふとんにもぐってひなたの匂いに目を閉じる。
電気はお風呂を上がってきたおかあさんが消すだろう。ふとんの中に体温が巡ると、すぐうとうとしてくる。
ぼんやりと渚の光景が心象としてよぎる中、私は意識を手放して、眠ってしまった。
「えー、風見彼方くんだ。みんなもう一年でここを卒業だが、仲良くするようにー」
ほどなくして、中学三年生としての始業式の日がやってきた。友達は相変わらず、私と龍斗との仲を揶揄うけど、「あいつはないから」と忍耐強く否定する。
そうしていると、ふと「おはよう」と教室に入ってくる女の子の声がした。一瞥した私は、思わずまばたきをした。セーラー服の風見さん、そして、そのあとから学ランの男の子。たぶん、あの日の──。
新顔にみんなが注目するまま、ひとまず体育館で小中合わせての始業式があり、私たちは教室に戻った。今度は出席番号順になった席で、担任のすーちゃんこと栖原先生がその男の子を教壇に呼んだ。彼の隣の席にいた風見さんが、「大丈夫」とささやいたのが聞こえた。
小さくうなずいた彼は、立ち上がって教壇でみんなと向かい合う。そして、そんなざっくりしたすーちゃんの紹介には、「風見と名前同じー」という声が上がった。
「ああ、いとこなんだよな?」
「あ、……はい」
ぎこちない風見くんに笑顔はなく、うつむきがちに視線を彷徨わせている。
柔らかそうな髪、なめらかに白い肌、筋肉が追いつかなくてまだもろさのある骨格。見た感じなら美少年だけど、表情が暗いせいか、雰囲気も重い。
「じゃあ、ひと言くらい挨拶できるか?」
「………、よろしく、お願いします」
消え入りそうにそう言うと、風見くんは逃げるように席に戻っていった。
すーちゃんは何も咎めず、「今日はプリント多いぞー」とか言いながら紙の束を教卓に並べはじめる。
視線がいくつか集まって、風見くんは居心地悪そうに視線を伏せていた。内気なのは確かなようだ。
それから、クラスの顔ぶれはほとんど変わらない中学三年生が始まった。家を継いだりする子もいるけど、やはり高校に進学する子が多く、今まで比較的ゆったりだった授業が厳しくなった。
「高校進んだらこのレベルかよー」と部活でサッカーばかりだった龍斗は嘆き、高校生になったら朝起こしてもらう約束の代わりに、私が勉強を教えている。
「夫婦はやっぱり同じ高校行くんだねえ」とか言われると、「うるさい」と私はそのクラスメイトを睨み、「同じこと風見夫妻に言ってこい」と龍斗も眉を寄せる。すると、「あのふたりには割りこめない」とか何とか言ってクラスメイトは退散していく。
私と龍斗は、風見さんと風見くんを見た。風見さんが何か言うと、風見くんは小さく反応する。「あいつ、風見としかしゃべらないよな」と龍斗はつぶやき、「だね」と私は頬杖をつく。
「つきあってるから、風見しか見えないのか?」
「知らないよ」
「手つないでたんだろ」
「けど、風見さんには咲ってるってこともないよね」
「確かに。何つーか、愛想ないよなー」
短い黒髪と小麦色の肌をした龍斗は、風見くんとは正反対で人懐っこい。クラスじゅうに慕われているのに、さすがに風見くんには取っつきがないらしい。
風見くんはいつも長い睫毛を伏せ、顔を上げること自体あまりせず、教室になじまないまま風見さんとしか口をきかない。それで反感が湧くようなとがったクラスではなくても、殻にこもる彼をわざわざ引っ張り出す子もいなかった。
「龍斗はずうずうしいから、話しかければいいのに」
「ずうずうしい余計なんだよ。あれには俺も割りこめない」
「切っかけになれそうなの、龍斗ぐらいでしょ」
「すーちゃんと似たこと言うな」
私は肩をすくめて、「で、どこが分かんないの?」と龍斗が持ってきた英語のプリントを覗く。「全体的に」と受験生として不安になる答えが返ってきて、私はため息をついてシャーペンを取った。
四月が過ぎて、あちこちにあふれていた桜は連休前の雨で散ってしまった。陽射しが日に日に力をこめて、暖かくなった風には土が蒸せる匂いが混ざる。それでも、登下校で通る海辺沿いの潮風は澄んでいる。
連休になると、砂浜には潮干狩りの家族がちらほらいた。私も子供の頃は龍斗とあさりを探したものだ。今の私と龍斗といえば、龍斗は宿題を丸ごと持ってきて、私はそれを一問ずつ解説して、宿題や勉強に時間を費やしている。連休が終わって登校が再開した頃には、葉擦れをこぼす葉桜が茂っていた。
すーちゃんは、席替えを毎月実施してくれる。特に出席番号順の四月の席順は毎年変わらないから、みんな飽き飽きしていて連休が明けたらさっそく席替えが行なわれた。
窓際後方の席を手に入れた私は、陽光に居眠りが心配になったけど、真夏の日射に焼かれるよりはいいかと思い直した。小学一年生のときから、ほぼこの顔ぶれで席替えを毎月しているので、席が接したら誰だろうと「よろしくー」と笑顔を交わす──けど。
隣の席に荷物を下ろした男の子に、私は目を開いて、何と声をかけるべきかに迷ってしまった。うつむいて椅子を引いて腰を下ろしているのは、風見くんだった。
ちょっと考えて、「よろしくね」と風見くんに声をかけてみた。風見くんはびくりと肩を揺らし、視線をはっきりこちらに向けることもなく、ただこくんとした。
嫌われている、というか、怯えられている、ような。風見くんは風見さん以外にはみんなにこんなふうだから、特に私が嫌だというわけではないと思うけれど。
大丈夫かな、この一ヶ月。正直そんな一抹も感じながら、私も荷物をそのつくえに片づけはじめた。
「あ、隣は幸野さんなんだ。彼方のこと、よろしくね」
休み時間、風見くんの席とは離れた風見さんがやってきて、そう私に微笑んだ。私は風見くんを盗み見てから、「うん」と一応答えておく。よろしくさせてもらえるか分からないけれど。
「彼方、幸野さんと仲良くするようにね」
後れ毛で髪型にまとまりのない私と違い、風見さんは人形みたいに綺麗に揃った長さの髪を揺らして、風見くんを覗きこむ。風見くんはうなずき、でも私のほうは見ずに、かばんをつくえのフックにかける。「何かあれば私も力になるから」とぱっちりした瞳で笑んだ風見さんは、チャイムが鳴ったので自分の席に走っていった。
仲良く、か。授業内容をノートに取りながら、右隣の風見くんをちらりとする。
ノートも取らずにぼんやり座っているけど、いいのだろうか。どこからどうしてここに来たのか謎だけど、都会から来たのなら、転校前は勉強も進んでいたのかもしれない。
詮索しないほうがいいか、と思う半面、いないみたいに無視するのも失礼だから、次の日も当たり障りない挨拶の声はかけた。でも、風見くんの反応はぎこちない。気まずい距離感は変わらず、挨拶うざいとか思われてたらつらいな、と打ち解ける自信は毎日すり減っていった。
一週間くらいその席で過ごしたら、中間考査の試験週間に入った。「このあたり、ちゃんとノート取っとくようにー」と言われても、風見くんはうつむいて動いていない。さすがに、試験範囲はメモしておいたほうがいいと思うのだけど。私は自分のノートに並ぶ文字を見て悩んだものの、思い切って風見くんを向いた。
「風見くん」
風見くんは肩を揺らし、ぎくしゃくと私を見た。その反応に臆し、お節介はやめておこうかとも思ったけど、抑えた声で言ってみる。
「ノート、取らないの?」
「えっ」
「試験勉強にいると思うよ」
「あ、……わ、分からなくて」
「分からない?」
「ノート、取るって……何?」
私はまじろいで、当たり前すぎてちょっと説明に困ったものの、黒板を指さす。
「黒板に先生が書いたことを、ノートに写すというか」
「あ、そう、なんだ。えと、試験に使うの?」
「要点とかまとまってるから、そのまま問題になったりするよ」
「そうなんだ。……どうしよう。ぜんぜん書いてない」
その声が少し泣きそうだったから、「私、ずっと取ってるから写す?」と言ってみる。風見くんは、もうちょっと私のほうに首を捻る。
「いいの?」
「うん。全部は大変だから、ピンクのペンで囲んでるとこを写せばいいと思う。ほかの教科は大丈夫?」
「何にも、書いてない」
「じゃあ、休み時間にほかのノートも貸すよ。あ、私より風見さんのノート借りたほうがいいかな」
「ううん。そんなことないよ」
「じゃあ、授業終わったら持ってきてるノート貸すね」
こくんとした風見くんは、「ありがとう」とかぼそく言ってくれて、ほんとにほのかにだけど、咲った。
その微笑がすぐ溶ける雪の結晶のように澄んで綺麗だったから、ぽかんとしてしまった。けれどすぐ我に返り、しゃべっているあいだに進んだ授業内容を慌ててノートに取る。心臓が思いがけない脈を打ち、何だか頬がほてっている。
咲うんだ。風見くん、ちゃんと咲うんだ。あんなに、純粋に。
次の休み時間から、風見くんは私のノートを自分のノートに写しはじめた。様子を見にきた風見さんが、「ごめんね」と苦笑する。首を横に振った私は、「テスト嫌だー」と絶望的な声でつくえに伏せってくる龍斗をはたく。
そういえば、いつのまにかみんな制服は夏服になっている。風見くんはやっぱり色が白い。白さの色合いが風見さんに似ている。
ふと、あの春の海で手をつないでいたふたりがよぎった。やっぱりつきあってるのかなあ、と思うと、鼓動に針が刺さった気がした。
「ちょっと、気分転換にサッカーしていくわ」
ついに試験勉強を投げたくなった龍斗は、週末の放課後、そう言ってクラスメイトとグラウンドに出ていった。「平均取れなくても知らないからねっ」と言っても、脚の速い龍斗はもう教室から消えてしまっている。
ため息をついて教科書をかばんに入れていると、「幸野さん」と細く呼ばれる。隣を見ると、風見くんが一冊のノートをさしだしていた。
「あ、これも写せた?」
「うん」
「ごめんね、字とか汚くて」
「ううん。色で分けてあるのが分かりやすい」
「よかった。来週には試験だね」
「幸野さんがノートのこと教えてくれたから、助かりそう」
「そっか。頑張ろうね」
風見くんがこくんとしたとき、「彼方」と友達と別れた風見さんが荷物を連れて駆け寄ってくる。「ノート終わった?」と訊かれて、風見くんはうなずく。
「じゃあ、帰ろうか」
「うん」と風見くんは教科書をかばんにまとめて肩にかける。風見さんは私を見てにっこりした。
「幸野さん、彼方のこと、ほんとにありがとう」
「隣の席だしね」
「彼方は人づきあい苦手だから。でも、幸野さんならもう安心できるよね?」
風見さんは風見くんを見上げ、風見くんははにかんでも「うん」と言ってくれた。私は照れそうになったけど、「ありがとう」と笑顔を作る。
それから、風見くんと風見さんは一緒に教室を出ていった。手はつないでいないけど、並ぶ肩の距離は近い。つきあっているのかは分からなくても、両想いなんだろうなと思う。まあ似合ってるか、と息をついて、私も風見くんに返されたノートを週末の勉強に備えてかばんにしまい、教室を出た。
何となくまっすぐ帰る気にならなくて、グラウンドに立ち寄った。龍斗が友達と駆けまわり、シュートを決めている。私に気づいた龍斗は手を掲げ、私は手を振っておく。
舞い上がる砂ぼこりの匂いがする。微熱をはらんだ風が吹く。青かった空が緩やかなオレンジに溶けはじめた頃、歓声を上げて盛り上がっていた龍斗たちはやっとサッカーを切り上げた。龍斗は朝礼台に投げていた荷物を持って、「じゃあなー」と友達に手を振りながら私に近づいてくる。
「帰んないのか」
「帰るよ」
「腹減ったなー」
「おかあさん、もう仕事から帰ってるよ」
「肉食いてえ」
「昨日トンカツだったじゃん」
そんなくだらない話をしながら並んで学校を出て、下り坂をおりると海に面した道に出る。ここを右に歩いていった先の住宅地に、私たちの暮らすアパートがある。
海の潮の匂いと龍斗の汗の匂いが混ざりあっている。沈む夕陽が海をきらきらと茜に染めていた。それを眺め、明日も晴れかあ、とか思っていると、「あ」と突然龍斗が私のブラウスを引っ張った。
「風見たちだ」
「え」
少し先に目をやると、渚から砂浜に伸びる影がふたつあった。目をしばたくと、光る橙色に目が慣れて、確かにそれが風見くんと風見さんだと分かった。
まだふたりとも制服のままだ。向かい合って、何か話している。
「話してるね」
「やっぱあれ、つきあってるよな?」
「分かんないよ」
「へえ?」
「何」
「妬いてる?」
「バカ」
「ふん。ま、あのふたりは似合ってんじゃねえの」
「……ん。そうだね」
波打ち際のふたりには、近づけない雰囲気があった。やはりそれはつきあうふたりの空気のせいなのだろうか。風見くんのほのかな微笑がよぎり、ちょっと息が痛くなった。
「ねえ、すーちゃん」
月曜日、日直に当たった私は提出物のプリントを集めて、昼休みに職員室に行った。すーちゃんのつくえに「はい」とプリントを置くと、「お、集めてくれたか」と五十代半ばで定年も近づいてきているすーちゃんは、眼鏡の奥で目を細める。プリントを手にしてめくるすーちゃんに、私はちょっと首をかたむけて訊いてみる。
「んー?」
「風見くんのことなんだけど」
「ああ、幸野は仲良くしてくれてるみたいだなあ」
「んー、そうなのかな。分かんない。あのさ、何かふっと知らないことに気づいたんだけどね。風見くんって、どうしてここに転校してきたの?」
「どうしてというと」
「例えば親の転勤とかだったら、こんな田舎に来るってことあるのかなあって」
「ないこともないだろう」
「じゃあ、やっぱただの親の都合?」
「人にはいろいろあるさ。風見くんが幸野に話すことがあったとき、受け止めればいい」
「……いろいろ」
「まあ、支えてやってくれ。先生から言えるのはそれだけだな」
私はむくれた顔をしたものの、これ以上の詮索はよくないと分かったので、頭を下げて職員室をあとにした。
風見くんがここに来た理由。親の転勤で、親戚である風見さんがいるこの田舎に来るのも、偶然が過ぎる気がする。風見さんの家が自営業とかなら分からなくもないけど、違ったと思う。じゃあ、何か事情が?
受け止める。支える。風見さんは風見くんの事情を知っているから、ふたりには秘密めいた雰囲気があるのだろうか。
中間考査が行われて、私は何とか平均点も及第点も取れた。龍斗は赤点を取って、放課後、サッカーを禁じられて補習に出ていた。
もうすぐ六月になるせいか、晴れ間が弱くて空気が湿気っている。ひとりで帰り道を歩いて、波が打ち寄せる砂浜に面した道に出る。梅雨が終わったら海開きで、この海岸にもひと気が出てくる。
夏休みになれば、遠出の人も帰省の人もいて混み合うくらいだ。その混雑をちょっと苦手に思っている住人は多くて、私もそのひとりだ。今年も多いのかなあと海を見やり、足が止まった。
浜辺に制服すがたの男の子がいた。遠目にも風見くんだと分かった。きょろきょろしてみたけど、風見さんはいない。少し迷ってから、私は低いブロックを越えて砂浜に踏みこんだ。
「風見くん」
はっと風見くんはこちらを振り向いた。私だと認めると、あのほのかな笑みを見せた。私は風見くんの隣に並び、流れる海風に紺のスカートを抑える。
「風見さんは?」
「今日は友達と帰るって」
「そっか。めずらしいね」
「そんなことないよ。僕もここに来て二ヶ月だから、ひとりで歩けるようにならないと」
風見くんの横顔を見た。睫毛の角度にどこか寂しそうな、不安そうな色がある。風見くんも私を見て、小さく咲った。
「試験、幸野さんのノートですごく助かった。ありがとう」
「あ、ううん。何か教えたわけじゃないし」
「でも、幸野さんのおかげだよ」
「はは。今度からは、自分でノート取らないとね」
「うん」
「もうすぐ、席替えだし」
「そうなの?」
「うん。六月になったら席替えだよ」
「そうなんだ……」
ざあっと波が押し寄せて、白波が引いていく。「離れるね」と風見くんはつぶやいて、「うん」と私は濡れた足元を見つめる。
「もう少し、隣でいたかったな」
風見くんの言葉にどきんとして、海を向く彼を見上げる。風見くんの柔らかそうな髪が風に揺れている。躊躇ったものの、「私も」と頬を熱っぽくしながら言った。風見くんはまた私のほうを見て、「次に隣になる人とも、ちゃんとしゃべったりできるかな」と首をかたむける。
「できるよ」
「僕が来たせいで、クラスの空気を悪くはしてない?」
「そんなことないよ。誰かそう言ったの?」
「ううん。ただ、僕は……いつも、迷惑に見られてきたから」
「え、前の学校?」
「ううん。前は学校行ってなかったんだ」
「えっ」
「それで勉強も授業もぜんぜん分からなくて。聞いてればいいのかなって、だから黒板のをノートに書くことも知らなくて」
風見くんの穏やかな色の瞳を見つめる。その瞳が静かに傷む。
「親が、ダメな人たちだったんだ。学校も行かせてくれないし、ごはんもくれないし。いつも万引きして、それがやっとの食糧で。十三歳のとき、見つかって警察に突き出されちゃって。家のこと話したら、そのまま保護されてしばらく施設にいた。でも、伯父さんに話が届いて引き取ってもらえることになって」
「じゃあ、伯父さんは風見さんのおとうさん?」
「そう。それで、いろいろ手続きとかあって、四月の初めにここに来たんだ」
風見くんはうつむく。風をはらんだ髪で陰った瞳が隠れる。
「親には生まれなければよかったって言われてたし。今の家は優しいけど、気を遣わせてるし。教室でも僕は邪魔じゃないかって考えちゃって」
「それは、ないと思うよ。そんなこと、ほんとにないよ。みんな、ちゃんと受け入れてくれるよ」
「そう、かな」
「うん。風見さんとか私以外の人とも、次に隣になる人とも、風見くんは仲良くなれるよ」
風見くんは髪に指を通し、もう一度優しい瞳を私に見せると微笑んだ。「ありがとう」と言われて、どぎまぎしながらもうなずく。
心臓が小刻みになって、視線が彷徨いそうなのをこらえて、風見くんを見返す。風見くんの瞳に自分がいて、それを見ているのが恥ずかしいような変な緊張に襲われたけど、私もゆっくり笑顔を作った。
六月に入って席替えが行われて、風見くんとはばらばらの席になった。あんな話をされただけに、盗み見て心配していたけど、風見くんは前後や隣の席の子に話しかけてられるとちゃんと話せている様子だった。
ほっとしながら、どこかで寂しいのはなぜだろう。風見くんが周りと打ち解けてくると、風見さんもあまり干渉せずにそっとしておくようになった。
いつしか梅雨に入り、電燈が映る窓の向こうでは雨が続いた。図書室から借りてきた小説を読んでいた休み時間、「幸野さん」と呼ばれて顔を上げると、風見さんが席の前にいた。風見くんは、龍斗もいる男子の輪に混ざっている。
「風見さん。何?」
「うん、えっと……幸野さんには、お礼言いたかったから」
「えっ」
「彼方のこと。いろいろあったことも含めて、『大丈夫だよ』って励ましてくれたんだよね」
「あ──まあ」
「私が言っても、親戚の建前にしか聞こえなかったと思うの。だから幸野さんがそう言ってくれて、彼方、ほっとしたみたいで」
「そう、なのかな」
「うん。だから、ありがとう」
風見くんを見やった。龍斗みたいにげらげら笑うことはなくても、以前より表情が柔和になって、笑みも増えた。
「風見くん、明るくなってきたよね」
「ふふ、幸野さんのおかげだよ」
「当たり前なことしか言えなかったんだけどね」
「彼方には、当たり前がずっとなかったから。すごく嬉しかったと思う」
風見さんは微笑み、その微笑の柔らかみは風見くんに似ている。チャイムが鳴り、私は本をしまって教科書を取り出した。ノートを取りながら、風見くんを盗み見ると、もう自分でノートを取っている。
風見さんはああ言ってくれて、私が風見くんを変える切っかけになれたようだけど。最近はぜんぜん接点がなくて遠くなったように感じる。話しかけにいけばいいのかもしれないけど、そこまでして何を話せばいいのか分からない。
雨が小休止して昨日から晴れていた日の放課後、龍斗たちは相変わらずグラウンドに出てサッカーをする。龍斗は風見くんにも声をかけ、風見くんはわずかにとまどってもうなずいて、一緒に教室を出ていった。
私は図書室におもむいて本を返却し、借りていくものを選ぶ。決めた二冊を借りてかばんに入れて、靴箱を抜けると、グラウンドからの歓声があるのに気づいた。
立ち寄ってみると、龍斗たちが元気よく駆けまわっている。風見くんもいるかな、と目を凝らしていると、「幸野さん」と呼ばれてはたと声のしたほうをたどった。
荷物が集まる朝礼台に背中を預けているのは、風見くんだった。
「風見くん。一緒にやってないの?」
「ルールが分からないから」
「龍斗、教えてくれないの?」
「教えてもらったけど、実際混じるとよく分からなくて」
「はは。意外と運動音痴?」
「そうなのかも」
咲った風見くんの隣に歩み寄って、声をかけあってボールを追いかける龍斗たちを一緒に眺めた。
背後の花壇から、湿った土の匂いが立ち昇っている。あまり風はなくて蒸していて、薄暗い天を仰ぐと、また降り出しそうな雨雲が迫っている。
「風見くん、最近はけっこうみんなといるね」
「ん、まあ」
「龍斗とか、いい奴でしょ」
「うん。優しい」
「遠慮がないけどね」
「そのくらいがちょうどいいよ」
「みんな、風見くんと仲良くなれて嬉しいと思うよ」
「幸野さんのおかげだよ。ほんとに、ありがとう」
「そんな、大したことしてないよ」
「してくれたよ。だから今は少し寂しいな」
「えっ」
「また隣の席になれたら、幸野さんと話ができるのかな」
風見くんを見た。風見くんは少し顔をうつむけて表情を隠しているけど、それが暗い顔をしているからじゃないのは分かる。
「私より、風見さんと席近いほうが安心じゃない?」
「そんなことないよ。あ、でも、幸野さんも龍斗くんと席近いほうがいいのかな」
「え、やだ。うざい」
反射的に言うと、風見くんは噴き出した。
「うざいんだ」
「うざいよ」
「龍斗くんは、幸野さんのそばがいいんじゃないかな」
「いや、向こうもうざいと思うよ」
「そう?」
「幼なじみってそんなもんだよ」
「そうかなあ」
風見くんは笑みを含みながら龍斗を見やる。龍斗はちょうどシュートを決めて、同じチームの男子とハイタッチしている。
「僕は、幸野さんの隣になれたら嬉しいな」
「えっ」
「また、なれたらいいね」
私は風見くんと見合って、その微笑にどきどきしながらもうなずく。
風見くんの隣の席に、またなれたら。そしたら、寂しくなったりしないのかな。話ができて、私も嬉しいのかな。それは、その気持ちは──
「彼方!」
背後に声がかかって振り向くと、風見さんが手を振っていた。私は風見くんを見る。
「帰る?」
「うん。菜穂子の委員会終わるの待ってただけだから。あ、龍斗くんに伝えておいてもらえるかな」
「分かった。じゃあ、気をつけて」
「ありがとう」
風見くんは朝礼台にあった荷物を取ると、風見さんに向かって走っていった。その背中を見つめていると、「幸野さん、また明日!」と風見さんは私にも笑みを作ってくれる。それに笑みを返しつつも、やっぱ無理だよなあ、と思う。
こんな気持ち、風見くんに伝えるなんて無理だ。きっと風見くんにそんなことを考える余裕はまだない。いずれ余裕ができても、風見さんがいる。私なんか、きっと届かない。ため息なんかついてしまった私は、顔を仰がせてもくもく動く雨雲を見つめた。
六月下旬、教室はまた試験期間に入る。龍斗は今回の範囲にも唸っていて、私の家で夕食前に一緒に勉強していたけど、どうしても公式も単語も頭に吸収されないらしい。龍斗が繰り返す「無理」とか「分からん」とかを聞いていると、あっという間に七月に突入して期末考査が始まった。
龍斗に教えることが復習になった私は、しっかり合格できた。でも、肝心の龍斗は結局今回も赤点で、ぎゃあぎゃあわめいてすーちゃんにはたかれて、サッカー禁止で補習を受けていた。
あとは夏休みを待つだけになって、その席で過ごすのは二週間くらいだけど、七月の席替えが行われた。私が引いた席は、廊下側の前から三番目の席だった。地味な席でよかった、と抱えてきた荷物を引き出しにしまったり、フックにかけたりする。かたん、と隣の席の子も移動してきた物音がしたのと同時に、「幸野さん」と呼ばれてはっとする。
この声──。
心当たりに慌てて隣の席を見た私は、ぱたぱたとまばたきをする。
「また、よろしく」
彼はにっこりとしてそう言う。
ほんと、に? ほんとに、この人が私の隣?
ぽかんとしていると彼が首をかしげたので、私はつい、下手な笑顔なんか作ってしまう。
ああ、それでも。そう思った。彼はそんなの、考えられなくても。私のことなんか、届かなくても。
言いたいな。伝えたいな。どう思われるか分からない。重いかもしれない。それでも、こうして隣にいるあいだに、私の心に灯った柔らかな発熱を、この男の子に伝えたい。
私、君を好きになったよ。
そう、ひと言。この気持ちを彼に伝えて、ここを、君の隣を、私の居場所にしたい。
……ダメ、かな?
FIN