「パパ、ママ、今年も桜たくさん咲いてるね」
ピンク色の花びらがはらはら降りしきる駅前の桜並木で、俺と手をつないだ八歳の舞子は、嬉しそうにそれを見上げる。「ほんとにねえ」と舞子の母親で俺の妻である雪子は微笑み、「ここは毎年、綺麗だよね」と俺に言う。俺はあふれそうに満開の桜に顔を向け、「そうだなあ」なんて答えながらも、桜は嫌いだ、と秘かに思う。
毎年毎年、この桜雨を通して、懲りもせずによみがえる記憶。
花は枯れても、種からまた芽吹いて、色鮮やかに咲く。
それと同じように、俺は春が来るたび、桜を見るたび、彼女を思い出すのだろうか。
二十歳のときだった。俺の当時のバイト先には、近隣の他店舗との交流も兼ね、一日だけスタッフのひとりがトレードするというイベントがあった。それで俺のバイト先に顔を出したのが、隣県の同じチェーン店で働く岸村美月だった。
「今日はよろしくお願いしますっ」
朝礼で頭を下げた美月に、「じゃあ、店内の案内は……」と店長はスタッフを見まわし、俺をしめした。
「河野についてもらおうか」
「え、俺っすか」
「歳も近くて、岸村さんも気兼ねないだろ」
美月は黒目がちの大きな瞳で俺を見て、「じゃあ、案内しますよ」と俺が言うと「はいっ」と元気よく返事する。「頑張ってねー」と周りに声をかけられて頭を下げながら、美月は俺の隣に着いて「よろしくお願いします」とまた頭を下げた。
「タメ口でいいよ。歳近いなら」
「河野さんはいくつですか」
「二十歳」
「あ、私も二十歳」
「えっ、じゃあ来年成人式?」
「そう!」
タメなのは確かに気が楽になったのか、にこにことうなずく美月に、俺も思わず咲ってしまった。かわいい子だな。第一印象から、美月のことはそんなイメージだった。
その日一日で、俺たちはあっという間に仲良くなった。閉店後に連絡先を訊いてきたのは美月のほうで、こちらとしても訊いていいのか迷っていたので、喜んでメアドと電話番号を教えた。「いつでもメールくれていいから」と俺が言い添えると、「うん、ありがとう」と美月はにっこりして帰宅していった。
ほんとにメール来るかなあ、と押しが足りなかったかと感じていたが、『今日はありがとう!』というメールが美月から零時前に届いて、『今帰宅?』と少しびっくりして返すと、『自分の店舗に寄ってきた』という返事が来た。
『みんな心配してくれてたから、「大丈夫でした」って言いたくて』
『岸村さん、ちょっと天然だったもんなあ』
『うちのスタッフと同じことを……』
『でも頑張ってたじゃん。うちの店長も褒めてたよ』
『ほんと? よかった。この仕事好きだから、もっと認めてもらえたらいいな』
俺もこの仕事が好きだったから、美月もそう思っているのが嬉しかった。『店舗は違うけど、一緒に頑張ろ』と俺が送ると、『そうだね、頑張る!』と美月は応じて、やっぱいい子だなと思った。
それ以来、美月と頻繁にメールをした。夜や朝の挨拶だけでなく、休憩時間にもすかさずやりとりするほどだった。そのうち名前呼びするようになり、自然と『また会いたいね』と言い交わすようになった。俺たちは県はまたぐけど、それぞれの地元に距離はそんなにない。それでもやはりお互いバイトがいそがしく、メールのやりとりがメインだった。
年が明けた成人式には、それぞれの写真を送りあった。振袖の美月はすごく綺麗で、俺はその画像をちゃっかり保存した。こんなに波長が合う子もめずらしいなあ、と感じる中、それは彼女も感じていたようで、数ヶ月ぶりに俺たちはついにプライベートで会えることになった。
俺の住む街をもう一度見たいということで、美月がこちらを訪ねてくれることになった。そのぶん、俺はこの街のデートスポットを押さえて、しっかりエスコートしようと頑張った。デートの日は、陽射しに陽気も出てきて、いっぱいに咲いた桜の花びらが降りそそぐ春の日だった。
俺はオートバイで駅まで迎えにいったのだけど、ヘルメットのせいで美月はぜんぜん俺に気づかなくて、背後をあっさり取れた。「後ろにいるよ!」と突然俺が声をかけると、美月は変な声をあげて振り向き、「一澄くん?」とまばたきをする。「うん」と俺がヘルメットをはずすと、「びっくりした!」と美月は咲ってから「バイク乗れるんだね」とめずらしそうに車体に触れる。
「まあね、通勤に便利だし。てか、会うの久しぶり」
「そうだね。でも、久しぶり感あんまりない」
「すげーメールしてるもんね」
「いつも愚痴を聞いてくださってありがとうございます」
「こちらこそ無駄話につきあってくれてありがとうございます」
うやうやしく頭を下げあい、俺たちは同時に笑い出してしまう。
「はは、一澄くんとはこういう感覚が合うよね」
「俺も思ってた。だから美月ちゃんとメールしてんの楽しいよ」
「私も。電話もしたいけど、通話料がねー」
「それなんだよなあ。キャリア違うし」
「ま、金銭感覚も似てるということで」
「そこ大事だよな」
「今日はどうするの? というか、ここ桜すっごいね」
「商店街から駅まで並木道になってるからなー。少しそこ歩く?」
「うん!」
そんなわけで、オートバイは駅の駐輪場に預け、俺は美月と桜並木を歩いた。手はつないでいいのだろうか、と思っても、いきなりそれは早いか。せめて夜にならないと。いや、夜まで一緒にいてもらえるのだろうか。
「美月ちゃん、今日こっちいられるの何時くらいまで?」
「終電までに帰れたらどうにかなる」
「どうにかなるって」
「仕事で、いつも帰宅は午前様だし」
「そっか。じゃあ、ゆっくりできるね」
「もちろん!」
青空に映える桜に負けない、まばゆい美月の笑顔に、俺はとっくにくらっとなっていて、やばい好きになる、と焦った。美月と恋愛の話はしたことはない。もしかして彼氏がいるかもしれない。いや、彼氏がいたら俺とデートはしないか。
満開の桜を見ながら並木道をたどり、商店街も見ていった。小物があるような店を美月は楽しそうに覗いていた。商店街の中の喫茶店で軽くお茶をすると、駅に引き返してオートバイで街の散策に出る。
「バイク乗るの初めてだ」と美月はヘルメットを受け取り、「俺にしっかりつかまってたら大丈夫だよ」と俺が言うと、「分かった」と美月は素直にこくんとする。自分で言っておきながら、俺と密着するの嫌じゃないよな、と心配になったけど、発進すると美月は俺にぎゅっとしがみついて、勝手にどきどきしてしまった。
チェックしていたデートスポットで、美月は無邪気にはしゃいでくれた。終電までOKなら夜景にも行けるな、なんて思いながら一緒に夕食を食べる。「ひと口ちょうだい」と言ってみると、美月は「あーんをしてあげましょう」と俺に食べさせてくれた。そういうやりとりがすごく楽しかった。
予定通り山間の夜景をふたりで見たけど、わりと同じようなカップルが多くて、告白するとかそういう雰囲気には持ちこめなかった。けれど、「楽しかったよ、ありがとう。またね!」と笑顔で手を振って駅に駆けていく美月を見送り、また会えるよな、と思った。
そのあとも俺たちは連絡を続けた。相変わらずメールメインだったけど、ある日、美月が電話がしたいと言い出してきた。まさか電話で告られるのか、なんて淡い期待をしたが、電話口の美月は泣いていて、高校時代の先輩にずっと片想いをしていること、軆だけ求められて気持ちには応えてもらえないこと、それでも先輩を嫌いになれないことを語った。
『ごめんね、こんな話。でも、誰かに聞いてほしくて……』
俺の動揺は、美月のすすり泣きを聞くほど落ち着いていき、それどころか冷めていく静かな怒りを覚えた。
じゃあ、俺とのデートは何だった? ただ、叶わない恋の憂さ晴らしだったのか?
そんなふうに感じて憮然としていた頃、同じ店舗で働く新人の女の子に告白された。俺はほとんど衝動的に──そして美月にあてつけたくて、雪子というその女の子とつきあいはじめた。梅雨の夜、それを電話で一方的に美月に告げた。
「だから、俺、もう彼女いて。美月ちゃんと連絡取るのも無しなんだ」
『……そっ、か』
「ごめんね」
『何か、ちょっと……残念だったなあ』
「………、でも、美月ちゃんにも好きな人が──」
『一澄くんとの時間は楽しかったよ。ほんとに。……あの人も、忘れられるかもって思った。でも分かった、幸せにね』
忘れられる……かも。
その言葉が引っかかり、俺は自分で遠ざけたくせに美月をどうしても忘れられなかった。俺は、間違えてしまったのだろうか。くだらない自尊心で、俺と幸せになれると思った美月を、突き放してしまったのだろうか。
君に何年も振り向かないなんて、そんな奴は忘れろよ。
俺が忘れさせてやるよ、俺なら君を幸せにするよ。
そんなふうに、言えばよかったのかもしれない。美月もそれを望んでいたのかもしれない。ちょっとプライドが傷ついたからって、なぜ都合よく現れた雪子とつきあいはじめたのだろう。せめて、雪子とつきあいはじめていなかったら、遅刻でも美月の手をつかむ選択肢もあったのに。
美月との桜舞うデートを夢に見た何度目かの朝、俺はいよいよ気持ちをはちきれさせてしまった。この期に及んで、美月自身に連絡は取れない。でも、ちょっと用事を装って、美月が働く店舗に連絡してみることならできる。俺は美月がいる店舗の電話番号を調べて、電話をかけた。
口実は「美月の忘れ物が見つかったので返したい」という、数年越しではやや無理のあるものだったが、電話口に出たスタッフには押し通した。けれど、返ってきた返答は予想外のものだった。
『あの人、辞めちゃいましたよ』
「えっ? でも、この仕事好きだって言ってたし──」
『そうだったっぽいけど、急に逃げるみたいに辞めていきました』
「……それ、いつ頃ですか?」
『いつだったかな。たぶん、去年の梅雨くらい』
息遣いが、口元からこぼれる。心臓が、ぎゅうっとすくんだ気がした。
俺の、せい? 俺が傷つけた? 好きな仕事も捨てるほど、追い詰めてしまった?
「失礼致しました」と言って電話を切ると、悔しさのあまり涙があふれてきた。
美月は孤独だったのだろうか。好きな人への想いも報われない。俺には急に突き放された。幸せになりたいのに、なれない子だったのだろうか。
だとしたら、俺が幸せにしたかった。俺は、美月と話しているのが本当に楽しかった。一緒にいるのがすごく心地よかった。だから、好きな人の話をされたときは胸が痛くて、その違和感で、ふらっと「この子は違うかも」なんて迷って、挙句、雪子とつきあいはじめて──
美月。ごめん。俺が君を抱きしめるはずだったのに。強くなれなくてごめん。逃げてごめん。
そのあとも俺はぼんやりと雪子とつきあって、子供ができたのを機に結婚した。生まれたのは女の子で、舞子と名づけた。春になれば、三人であの桜並木を歩いた。美月を思い出してしまうくせに、俺は今年も桜を見上げる。
美月のことは、誰も知らない。雪子も舞子も、家族も友達も。それぐらい、恋愛未満の存在だった。なのに、どうしてこんなに鮮やかに残っているのだろう。美月はもういない。今頃どうしているのかを知る由もない。意外と幸せにやっているのかもしれない。
俺は降りしきる桜の花びらから目をそらし、舞子を見た。この子がだいぶ、俺の気持ちを引き止めてくれるようになった。舞子がいなければ、本当に美月を捜しはじめてしまっていたかもしれない。でも俺には舞子がいて、この子を誰より愛して育てていきたいと、今はそう思う。
もう届かない。伝わらない。遠すぎる。俺は祈るしかない。美月がちゃんと咲ってくれていることを。
あのときに還ることはできない。俺も。美月も。桜を見るたび、あの日を思い出す枷を背負ってしまったけど、俺は美月を捜してはいけない。
君がもう俺の隣にはいないこと。
いくら散っても、毎年また咲き誇る桜のようには、寄り添いあえなかったこと。
きっと一生後悔で苦しむとしても、俺が美月に触れられることは、決してない。
FIN